田中一村 《奄美の海に蘇鐵とアダン》 昭和36年(1961)1月 田中一村記念美術館蔵 Ⓒ2024 Hiroshi Niiyama

東京都美術館の「田中一村展 奄美の光 魂の絵画」、もう行きましたか? 昭和の戦前戦後に活動した画家。早くから画才を見出され神童と呼ばれる。やがて、不如意、漂泊の思い、孤高の日々。しかし、奄美に渡り、残した絵は生命の力に溢れ、情熱と希望を伝えています。美術家の森村泰昌さんが田中一村を語ってくれました。一村が行き着いた奄美に行き考えたこと、芸術家だからこそ通じ合えること。

一度だけ奄美大島を訪れたことがある。あれはもうずいぶん以前、2010年のたしか夏だった。
訪れた理由は田中一村だった。この画家が人生の後半を過ごした南の島を体感したかった。
奄美では島唄を聞かせてもらったり、黒糖焼酎をいただいたりもした。しかしもっとも印象に残ったのは、雨であった。

毎日雨が降った。一日中どしゃ降りのこともあったし、晴れているのに急に雲行きがあやしくなることもあった。南の島だからカラッと晴れた青い空だろうと想像していたら、ぜんぜんちがってた。そんな意外な経験から私はこう考えてみた。奄美とは雨の美、すなわち「雨美(あまみ)」であると。そして田中一村の画風を一言で言うなら、それは「奄美/雨美」にほかならないと。
この発見には自分でも驚かされた。というのも、田中一村は雨とは縁遠く、むしろ燃え盛る炎にも似た激しい気性の画家だと、ずっと思い込んでいたからである。


現在、東京都美術館で開催中の田中一村展。その会場に入った途端、鑑賞者の多くは、ずらりと並ぶ初期作品群に現れた激しい筆致に打ちのめされるのではないだろうか。

田中一村 《菊図》 大正4年(1915) 個人蔵 Ⓒ2024 Hiroshi Niiyama
数え8歳の年の色紙。「米邨」印の下の紙の欠損は、父が筆を入れたことが気に入らず破り取った

「まあ、天才やね。15歳でこれを描くんだから」
会場でこんなふうに大きな声で感心する人がいた。《鉄網珊瑚(紅梅図)》を見ていたときのことである。制作年、大正15年(1926)とあるから、正確には18歳くらいだろうか。中国の文人画家、呉昌碩(ごしょうせき)にならった作なのでオリジナルとは言えないが、筆さばきにも墨蹟にも、米邨(べいそん)(当時の画号は一村ではなく米邨だった)独特の鋭いナイフのような切れ味があってびっくりさせられる。

同年の《蘇鐡と躑躅(つつじ)》も、趙之謙ちょうしけん(こちらも中国の文人画家)の絵にそっくりだと言われてしまえばそれまでだが、躑躅の赤はまことに強烈。鮮やかさを超えて、臆病な私にはほとんど恐怖にさえ感じられた。
赤色のスゴさはその後も続く。3点の《雁来紅》が並ぶ展示があった。昭和6年から7年にかけての作だから、23歳から24歳の頃である。ここでもやはりケイトウの花の赤は激しく燃えている。昭和8年(1933)の《鶏頭図》ともなれば、葉も茎もことごとく赤い。真っ赤なアクションペインティングを思わせる。

1930年代半ば作の《秋色》は素晴らしい色彩感覚で秋が表現されている。複雑な色彩の横溢を見事に調和させる、この力量。ああやっぱりこの人は天才だと納得させられる。
だがここでもまた、赤色の激しさはどうしたことか。それは秋の叙情とは対極の、こう言ってしまっては言い過ぎかもしれないが、まるで殺人現場に残された血しぶきの痕跡のようではないか。

ところがこの激しすぎる「赤い恐怖」が、奄美時代にはいると次第に薄らいでいく。奄美の雨によって画家の情念が洗い流されて、「雨美(あまみ)」が現れる。だがその最終地点に到達するのは、まだ先のことである。

田中一村 肖像 ⒸHiroshi Niiyama

どんな天才であっても迷いの時節はあるだろう。若くして才能を発露させたひとなら、なおさらのこと。出発地点がすでに高水準であるにもかかわらず、さらにその先をめざすのでなければ、世間は納得しない。「あの人も若いころはスゴかった」などと過去形で処理してしまうことさえあって、その仕打ちは冷酷極まりない。一村はそんな世の中の非情に憤怒の形相で向きあった。でも落胆する結果が続くばかり。そしてやがて中央画壇から遠く離れた南に向かうことになっていく。
そんな一村も、画家をめざしたからには、やっぱり世に認められたかっただろうし、実際その努力も怠らなかった。

本展出品作に《椿図屏風》という二曲一双の立派な屏風絵がある。右の屏風にはぎっしりと埋め尽くされた椿が描かれ、もういっぽうの左の屏風にはなにも描かれず、金色だけがキラキラと輝いている。昭和6年(1931)、一村24歳の作である。

「田中一村展 奄美の光 魂の絵画」展示風景 田中一村 《椿図屏風》 昭和6年(1931) 千葉市美術館蔵

本作を見て、その2年前の昭和4年(1929)に発表された速水御舟の名作《名樹散椿》を思い浮かべてしまうのは私だけだろうか。御舟の椿をお得意の過剰世界に置き換えて、その過剰性を何も描かない金屏風でさっと和らげる。当時話題の御舟作品にあやかりつつ、「ステップアップめざして、いろいろ試しているんだなあ」と、24歳の若者が世に認められようとする試行錯誤に、作り手の私は思わず感情移入してしまう。


一村はカメラ好きだった。本展においても、撮影された写真の数々を目にすることができる。それらの写真から、カメラアイを通じて新しい画風を模索しようとする画家の工夫が垣間見えて興味深い。

昭和30年(1955)、47歳の一村は九州、四国、紀州へと旅に出た。その途上で目にした景色を描いた多数の小品がある。写真のハイカラ感、いわゆるモダニズムの美学をベースにしつつ、これを浮世絵風日本画に仕立てあげている。
瀟洒な趣があって気持ちいいのだが、この画家の野趣溢れる激しい文人画に驚かれされていた私には、「やけにおとなしくなってしまいましたねえ」と、その画風の変わりようにむしろ不安がつのった。《足摺岬》や《平潮》など、なるほど自ら撮影した写真イメージがベースになっていて興味深くはあるのだが、あっけないほど癖がなくなり、サラリとした感じでなんだか物足りない。
しかし、ああそうだった、ここでおしまいというわけではなかった。こうした穏やかで落ち着きのある表現を経て、やがて一村は雨の美である「奄美/雨美」へと、美の旅を深めていくのであった。

「田中一村展 奄美の光 魂の絵画」展示風景 アルバム3冊(一村撮影写真貼込)より 田中一村記念美術館蔵

2010年、私が奄美を旅したとき、一村さんのことを見知っているという奄美の方から話をお聞きした。そのひとがまだ子供の頃の話だそうだが、一村さんはまわりと打ち解けるようなひとではなかったらしい。大島紬の糸を染める染色工場で働いていたときも、お昼どきはひとり離れて食事をとっていたという。

一村が暮らしていた家も見学に行った。その日も雨だった。高床式の木造家屋がひっそりと孤独な佇まいを見せていた。炎の緋色ならぬ、雨に濡れた「悲色」であった。

田中一村 終焉の家 撮影 / 森村泰昌[2010年7月7日]

一村の暮らしは悲しい色やねえ。そう身に染みた。だがそれにしても、一村の奄美での作品は、そのいずれもが悲しみや孤独を不思議と感じさせない。独居生活の侘しさもなければ、若い時分の怒りや激しさも消えている。あの「赤い恐怖」もないし、旅先の風景画のような物足りなさもない。充実している。そして、とても美しい。

田中一村《初夏の海に赤翡翠》 昭和37年(1962)頃 田中一村記念美術館蔵 Ⓒ2024 Hiroshi Niiyama

奄美では私も安物のデジカメで写真を何枚か撮った。拙いスナップにすぎないが、その一枚を紹介させていただく。
相変わらずの雨模様で、繁茂する植物群が水蒸気に烟っている。そのせいでカラー撮影なのにモノクロ調になる。一村のたとえば《枇椰樹の森》(昭和48年/1973以前)を見たとき、ここに私の撮った奄美の拙い写真を重ねあわせてみたくなった。私の写真が雨でモノクロームになっているがごとく、一村の絵画からも、目に痛いような強い色調は消えて、水墨の味わいが滲み出してくるかのようである。

金作原(きんさくばる)の原生林にて 撮影 / 森村泰昌[2010年7月7日]

田中一村 《枇榔樹の森》 昭和48年(1973)以前 田中一村記念美術館蔵 Ⓒ2024 Hiroshi Niiyama

一村の絵のモチーフといえば、アダンの果実を思い出すひとも多いだろう。私もそのひとりである。奄美でアダンに初めて出会ったときは、「これか!」とかなり嬉しかった。 
そのアダンの果実がおおきく描かれた一村の代表作に、《アダンの海辺》(昭和44年/1969)がある。曇天下、乱反射を起こしているかのような金粉じみた光にまぶされて、アダンの果実の黄色も柔らかい色調に描かれている。ツンツンととがったところも、イライラといきったところも感じられない。水気でよく潤っている。

田中一村 《アダンの海辺》 昭和44年(1969) 個人蔵 Ⓒ2024 Hiroshi Niiyama

一村のカメラアイにも、もう一度注目しておきたい。アダンの繁茂の合間から遠景として描かれた海辺の風景である。この雰囲気を私はすでに知っている。九州、四国、紀州に出かけたかつての旅で、一村は写真をスケッチがわりに使っていたが、おそらくはあの時に知ったカメラアイのモダン感覚が、ここに来て、すばらしく活かされることになる。
かつての一村の怒りにも似た過剰性の絵画制作。そして挫折じみた感傷旅行の途上の写真撮影。文人画的な強靭さと、写真的なクールな美学。あるいはクラシカルな重量感と、モダニズムの“抜け感”。それらがいい按配に配合されて、ステキな絵ができてくる。奄美の雨模様、その熱帯雨林の、なんというか、むせかえるような熱情と、さっと吹き渡る海の風の爽やかさを同時に体感できる幸せが、そこにある。

田中一村 《不喰芋と蘇鐵》 昭和48年(1973)以前 個人蔵 Ⓒ2024 Hiroshi Niiyam

中央画壇のネットワークの煩わしさから遠く離れて、「文人画気質とモダニストの発露が、奄美の自然天然と出会ったとせよ。」思えばゴッホもゴーギャンも、それにセザンヌだって、芸術の中心を嫌って遠くに行った。逃げ腰だったのではなく、それはむしろ次世代への希望と警告であったのだろう。奄美に向かった一村も、時と場所は異なるが、同じ道を行く。心ある芸術家の歩む道が似てくるのは、かえってすばらしいことである。
一村さん、奄美に暮らして、ほんとによかった。苦汁を飲んだとしても、なおそう思う。


さて、東京の泉岳寺に「アダン」という名の美味しい店がある。ひさしぶりにあそこに行って、奄美と田中一村に思いを馳せてみようかな。
ほんと、よかった。では、乾杯!

アダンの茂る砂浜を歩く筆者、森村さん 撮影 / 伊藤徹也

田中一村展 奄美の光 魂の絵画

会期|2024年9月19日(木) – 12月1日(日)
会場|東京都美術館 企画展示室
開室時間|9:30 – 17:30[金曜日は9:30 – 20:00]入室は閉室の30分前まで
休館日|月曜日、11/5(火)[ただし、11/4(月)は開室]
お問い合わせ|050-5541-8600(ハローダイヤル)

 

■他館開催
千葉市美術館コレクション選 「特集 田中一村と千葉」
会期|2024年10月9日(水) – 12月1日(日)
会場|千葉市美術館 5階常設展示室
休館日|11月5日(火)

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