美術史の豊かな知識を土台にして、当代一の画力を武器にどこにもない絵を生み出す。そんな人気画家、山口晃ガハクは夫婦揃って食いしん坊。日常で、旅で、制作中の日々で、散歩の途中で何を食べてるの? ガハクが日常を描くコミックエッセイ『すゞしろ日記』に「カミさん」として登場するガハク妻による食事帖。 ガハク保育園時代(およそ半世紀前)の美味求真。  

 

絵/山口晃

鮮魚店に行ったら、もうブリの切り身が出ていた。値札には「ハマチ」との表記。
出世魚だからブリの前段階ということね、とさも知ったように心の中で頷いてみるものの、順番とか、呼称の詳しいところは知らない。
どのみち見たところほぼブリで、書かれていなかったら素人には全然分からない。
煮付けにして、晩の食卓に出すことにする。
脂の乗りもよく、ふっくりと煮上がった白い身に、さらりとした煮汁を絡めて食べられる感じに仕上がり、今回は大成功の部類かなと思う。
その証拠に、山口ヒゲ画伯こと夫(以下ガハク)も「うまい!」と感嘆の声をあげる。

「煮付けもいいけど、ブリは照り焼きがおいしいよね」
「はあ、照り焼き……」
「あなた、照り焼きには興味なさそうね」
「まぁ……そうね、ないかな。煮付けの方がいい。さっぱりしてるし、簡単だし」
私が正直に答えると、ガハクは不服そうだ。
「どうせ甘辛があんまり好きじゃない、とか言うんでしょ。なんで分かんないかな、この味の調和が。まあいいや、実家でブリを食べるときは基本照り焼きだったんだよね」
そうして、子供の頃に食べたというブリの照り焼きについて語り始めた。

なにぶん家庭での調理につき、毎回が最高の味わいに仕上がる保証はなかったそうだ。
しかしそれゆえ、すべてが完璧な味の日には、奇跡の瞬間の誕生とすら思えたという。
「焼くことで魚の脂が落ちて、(タレの)醤油と脂が混ざり合うとちょうどいい具合にソースになってね。舌に差し込む醤油味と、脂の甘みとがもうたまらないわけ。醤油に落ちた脂が虹色にキラキラしてたなぁ……」
そう話した後に、ガハクが夢見心地で言葉を付け加えた。
「それに匹敵するのがかつおフレークかな」

ここからガハクのかつおフレークに関する話が始まり、これは長くなるかもと私も一旦箸を止めて聞き入った。

ガハクの保育園時代の給食は、皿に載った1種類のおかずのみが提供され、ご飯は各自が家から持参するという形式だったとのこと。
このセットに加え、園では粉を溶かして作るミルクも出されたそうだが、これは生温かくて匂いにもクセがあり、ガハクは苦手だったらしい。
ガハクのお弁当箱は、いかにも子供らしくアニメキャラクターの絵のついたアルミ製で、そこに白いご飯をつめてもらって通園していたという。

さて、その白米に、ごくまれに保育園の先生が缶詰の味付き「かつおフレーク」をひとさじだけ追加してくれる日があったそうだ。
ガハクがその様をジェスチャー付きで説明してくれる。
「業務用かな、大きな赤い缶から、先生が匙でこうすくって(ガハクはスプーンという言葉はあまり使わない)、ご飯の上に載っけてくれるの」
「毎日ではないんだよね?」
私が確認するように尋ねると、ガハクはそんなことあり得ないでしょうと言わんばかりに答えてくる。
「たまにだよ。ほんと、たまーにしかもらえない」
どのくらいの頻度だったかはガハクも覚えていないそうだ。小さな子供には月に一回などの規則性も測れず、待ち遠しさも相まってその日が来た時の喜びも増したのだろう。
このかつおフレークは、ご飯と非常に合うらしい。

「白いご飯と合わさるとね、もう激烈においしい。噛み締めると甘辛の醤油風味がじゅわーっとしみ出てきてね。いくらでもご飯が食べられちゃう」
ガハクの話だとものすごくいいものに聞こえるけれど、たぶんそのようなものは私も食べたことがあるので想像でき、それほどのものかね、と思ってしまう。
「何? あなたは腑に落ちない顔しちゃって。これがおいしくないなんて言わせないからね」
「だってさ、どうせしょっぱいでしょ。そういう系のはなんかね……(それほど好きではない)」
「何言ってんの、しょっぱくなんかないよ。甘辛さがちょうどよいんだってば。あのね、甘辛いっていうのは全人類が好きな味に決まってるじゃない」
言い切られても私は困る。人それぞれじゃないのか。

「うーん、じゃ味が濃い、とでもいうのかな」
「濃くないよ。濃くないでしょ。味が濃いとか、またそうやってケチをつけようとしちゃってさ。あーやだやだ。素直じゃないね」
こちらは素直に気持ちを伝えているんだけど。
「甘辛っていうのはさ、甘露煮ってことでしょ。『甘露』!だよ」
ここまで言われると、そのかつおフレークとはどこまで「本当に」おいしいのか確かめたくなってきた。
と同時に、ガハクに懐かしい味を食べさせてあげたら喜ぶかな、とも考えた。

そうして、私は近所のスーパーマーケットへかつおフレークなるものを買いに出かけた。
普通の規模の店で、品揃えは多くも少なくもない。缶詰コーナーの棚を見渡してみて、あれ? ない。フレーク状になっているのはツナ缶ばかりだし、味付きの製品が見つからない。
もう一回見回してみると、一種類だけあった。赤い缶の味付きフレーク。海外製造、と分かりやすく表に書いてあるのが気になったが、これしかないし買って帰る。

今晩開けてみようと、ふと缶の文字をよくよくみると「まぐろ」と書いてあるではないか。
かつおじゃない!
もしかするとかつおの缶詰というもの自体が存在しない?
Webで調べてみるとヒットはしたけれど、疑問が残るのでガハクに聞いてみた。
「ねえねえ、保育園で出てきたのって、本当にかつおフレークなの? まぐろの間違いじゃない? 調べたらかつおの缶詰もあるにはあるみたいなんだけど、メジャーじゃない感じだよ」
「かつおですよ。かつおフレーク。調べてあったのならあるってことでしょ」
ガハクがそう言い張るので、ここまできたら私も徹底的に追究したくなる。
この辺りで一番品揃えが多い食品店のある繁華街まで、明日行くと決めた。
歩くにはやや遠いので、地下鉄で一駅もしくはバス利用になる。

翌日、あいにく天気は雨。
雨足はたいして強くないし、初志貫徹で午後遅くに家を出た。

店に入ると缶詰売り場へと直行する。
幅4メートル、高さ2メートル近くある棚にぎっしりと、魚介から肉類、果物系、さまざまな缶詰が並んでいる。近くに脚立も置いてあって、上の方にある品物もお客が自由に手に取れる。

これだけ揃っていればあるに違いない、と当然期待する。
しかしながら、かつおフレークがない!
ずらりと並んだ品々は、定番のツナ、さば、いわしあたりから始まって、カニ、カニ味噌、ホタテ、アサリ、焼き鳥、つぶ貝、牡蠣、イカ煮付け、ブリ、あん肝、うなぎにクジラまであるにもかかわらず、ないのだ。
そんなはずはなかろうと、何度も何度も棚を順に目で追ってみる。

もしかしたらおつまみコーナーにあるのかも、と思って探してもまったくの空振り。
こうなったら店員さんに聞くしかない。
付近にそれらしい人がいなくて、またしても探すことに。野菜売り場には忙しく作業している人がいたものの、担当が違いそうでためらってしまう。
しばらくうろうろしていたら、使用済みカートを運ぶ店員さんがいて、思い切って声をかけた。
その若い男性スタッフはなるほどと話を聞いて、「係の者に確認しますね」と言い残して去ってしまった。

どのくらい待っただろうか。適当に聞き流されたのかも、忘れられてしまったのかも、もういいや、と思ってしまうくらい時間が経った。
そうだ、この店は海産物が充実しているから、そちらの売り場に行ってみよう、と閃き、店員さんを待たずに移動した道すがら、先ほどの人とばったり再会できた。

「かつおのフレークというのはなくて、甘露煮とかになっちゃうみたいですね」
店員さんはそう言って、この辺りにありますと案内してくれる。
横から白い三角巾をつけた女性店員が出てきて、「あと、こちらにしぐれ煮があるから」と冷蔵ケースを指し示してくれた。
ちゃんと探してくれていたんだ、それも数人がかりで。とてもありがたく思い、このお店への信頼感が一気に上がった。

ガハクが言っていたものは見つからなかったけれど、お店の人達がせっかくあんなに尽力してくれたのだから、ということで、「鰹のしぐれ煮」、なまり節みたいな「かつお角煮」というのを買うことにした。これに近い味であったかと、ガハクに参考資料として提出できる。
だが、この海産物エリアには食指が動くものがいっぱいあった。つい、他の冷蔵ケースも順にのぞいてしまう。
そして、子持ち昆布を手にして、うきうきと帰路につく。この時点でかつお製品はもうオマケの状態だ。今年のお正月は喪中とインフルエンザでカズノコを食べていなかったので、その心残りが払拭できそうだ。

帰る時には大雨になっていたが、今夜は日本酒だな、なんて考えていれば、傘をさしていても濡れてしまう状況もさほど苦にならなかった。

結局、本件は未解決のままにつき、私は気が収まらず、通販で唯一見つけたかつおフレークを取り寄せることにする。
「どうぞ、あなたのしたいようにしたら」
妙に執着し始めた私に、ガハクの方が引き気味だ。
ガハクの食べたフレークは本当にかつおだったのか、比べるために同メーカーのまぐろバージョンも揃えてみた。

製品が届き、いよいよ試食だ。
ガハクがあれほど語る、かつおフレークとは一体どんなものなのか……。
かぽっと缶の蓋を開けてみたところ、汁に浸かった状態で、フレークというより煮付けという感じだ。
まぐろの方は比較的ポロポロくずれるが、こちらも割と水分は多めだ。
色はまぐろの方が茶色が濃く、かつおには若干赤みがある。
ガハクの話からイメージしていた、ご飯に載せるほろほろとしたフレーク、とは両者ともズレがあり、私にも「これは違うだろうな」と思えた。

夕食時、二つを並べて、どちらが何か、分からない状態でガハクの前に出してみる。
「昔食べたものと味が近いかとりあえず食べてみて。かつおとまぐろとの違いは分かるかな?」
両方食べてみて、ガハクはすぐ判別していた。
「こちらがかつおかな。ショウガの味を若干感じたし」
「それで、どうなの?」
「こんなんじゃなかった。見た感じがまず全然違うし。両方とも保育園で出たものとは違う」

ここまでして、見つけられなかったどころか、求めていた味とも程遠いよく分からない缶詰を食べる羽目になり、私も不本意だ。
そういえば! 一番最初に間違えて買ったまぐろフレークの缶詰があった。
こうなったらできる限りのことを試してみよう。
「まだ開けるの? 食べきれないでしょ。冷蔵庫に入れておけばいいって? はいはい、好きにしたらいい」
ガハクももはや私を止めはしない。

まぐろフレーク、180グラム入りの缶の蓋をパキンと勢いよく開ける。
まさにフレークといえる美しい身のほぐれ方、ふっくら炊き上がった醤油色。
これこそが、想像通り、理想のかつおフレークの姿ではなかろうか。
ガハクも見た目はこのような状態だったというし、実際食べてみても「そうそう、こんな感じ」とのことで、味も記憶とかなり合致しているように見受けられた。

このまぐろフレークは非常に自然な味で(味付けの調味料は砂糖、醤油、食塩のみ!)、甘辛好きでない私にもおいしく感じられた。
私はガハクに聞いてみる。
「やっぱり、かつおフレークじゃなくて、まぐろフレークだったと思うよ。保育園で出されたのって、この製品そのものだったりしない? 赤い缶だし」
そんなふうに私が横でいくら騒いでも、ガハクは決して同意することはなく、ろくに返事もしてこなかった。
夕飯を食べ終えて、食器を片付けながらガハクがつぶやく。
「思い出の味は掘り起こさない方がいいのかも」
私は、ガハクにもよかれと思ってかつおフレーク探求をしてきたが、それを聞いて少し申し訳なく思った。
今でもガハクの中で、保育園で食べたのは「赤い缶に入ったかつおフレーク」のままなのだろう。

残された問題は、3つの缶詰を同時に開けたせいで、現在冷蔵庫には味付けフレークが山盛り……。
飽きずに食べ切る献立を考えなければならない。

■次回「ヒゲのガハクごはん帖」は11月第2水曜日に公開予定です。

●山口晃さんってどんな画家?
1969年東京都生まれ、群馬県桐生市に育つ。96年東京藝術大学大学院美術研究科絵画専攻(油画)修士課程修了。 2013年『ヘンな日本美術史』(祥伝社)で第12回小林秀雄賞受賞。
日本の伝統的絵画の様式を踏まえ、油絵で描く作風が特徴。都市鳥瞰図・合戦図などの絵画のみならず立体、漫画、インスタレーションなど表現方法は多岐にわたる。
主な個展に、2015年「山口晃展 前に下がる下を仰ぐ」(水戸芸術館現代美術ギャラリー、茨城)、18 年「Resonating Surfaces」(大和日英基金ジャパンハウスギャラリー、ロンドン)、23年「ジャム・セッション 石橋財団コレクション×山口晃 ここへきて やむに止まれぬ サンサシオン」(アーティゾン美術館、東京)など国内外展示多数。
2019年 NHK大河ドラマ「いだてん 〜東京オリムピック噺〜」のオープニングタイトルバック画を担当し、22年善光寺(長野)へ《善光寺御開帳遠景圖》を奉納。
25年には漫画雑誌連載作『趣都』(講談社)、本連載の17のエピソードをまとめた単行本『ヒゲのガハクごはん帖』を刊行。
21_21 DESIGN SIGHTにて開催中の企画展「方丈記に学ぶ –生きるを編み直す小さな建築–」へ出品。会期は2027年1月11日(月・祝)まで。

山口晃 《螺庵》 2026年 撮影:木奥恵三 写真提供:21_21 DESIGN SIGHT ©︎YAMAGUCHI Akira, Courtesy of Mizuma Art Gallery

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