美術史の豊かな知識を土台にして、当代一の画力を武器にどこにもない絵を生み出す。そんな人気画家、山口晃ガハクは夫婦揃って食いしん坊。日常で、旅で、制作中の日々で、散歩の途中で何を食べてるの? ガハクが日常を描くコミックエッセイ『すゞしろ日記』に「カミさん」として登場するガハク妻による食事帖。長く通ってるイタリアンの話、いやイタリアンと言うよりもこれはもう一つのおうちごはん。 

 

 

絵/山口晃

久しぶりに山口ヒゲ画伯こと夫(以下ガハク)と美術館に出かけることになった。
「金曜だったら夜8時までやっているから、仕事を終えてから行けばいいんじゃない?」
締め切りに追われるガハクに助言したものの、ふと気になってウェブサイトを見たところ、
「あ、ごめん。今は違うみたい。普通に夕方6時まででした」

念のため調べてよかった。
「もうー。あやうく酷い目にあうところだった。想像しちゃったよ、一生懸命急いでたどり着いたのに真っ暗でがらんとしたロビーにポツン、っていう図」
忙しすぎてもう面倒なのか、ガハクのお怒りも緩め。
「今週末までだから・・・仕方ない、最終日は混みそうだし土曜に行く」
未だに人混みでウイルスに感染することを恐れているガハクだが、週末の美術館に意を決して行くことにしたようだ。
曜日を気にせず行楽客の少ないウィークデーをねらって外出できる職業だというのに、まったくそれが活かせていない。
さらに基本超夜型の生活もお出かけのネックになる。昼近くもしくは昼過ぎに起きて、ごはんを食べて一休みするともう午後もいい時間。余裕なく展覧会場にすべり込むので、閉館のアナウンスを聞きながらの鑑賞も多々あり、所によっては「まもなく閉館です」と言いながら場内を回るスタッフにじりじりと出口へ向かうようプレッシャーをかけられるのもおなじみの光景に。
当日、ガハクは昼過ぎに起きてきて、のんびり遅い朝ごはんをとる。さてどうするつもりだろう。
「行くの?」
「行ってみる。そんなに時間はかけないつもり」

出かける支度をし始めている。
「・・・じゃ、わたしも行こうかな」
ガハクがそんなに見たいと思うような展覧会ならわたしも興味がある。ちょうど特に用事もない。
時は午後12時半頃。
「ちょっと待って、おなか空きそうだから何か食べてから」
と、急いで手近にあったスコーンをオーブントースターに投げ込んでタイマーを回す。
「えー、そんなの食べてたら時間かかるでしょ」
ぶちぶちと不服をもらすガハクをちょっとだけ待たせて無事出発した。
美術館までは地下鉄を乗り換えて所要時間30分強といったところか。

意外に思われるだろうが、ガハクと一緒に美術館に行くのはむしろ稀だ。
先ほども述べたように、ガハクはわりとご多忙につき出かける予定が意外と立てづらい。それに合わせているとこちらまで何も見られなくなってしまうので、わたしの方は友人や妹と、もしくはひとりでさっさと出かけていくことがほとんどだ。
ただ、ガハクと美術鑑賞をすると、画家ならではの観点で ― 筆の入り方、色の重ね方や構図、発想の源についてなど ― 考察や感想を述べるので、面白いといえば非常に面白く、感心させられもする。「これ、トークで人様の前でお話ししてもいい内容では」という場面も多々あり、いつかとりまとめるべき事柄なのかもしれない・・・と思いながら、わたしも展覧会に来ているときにはいちいちメモをとったりしたくなく、作品と向き合って過ごしたいので棚上げになっている案件である。

展覧会を見終わったのは3時をまわっていただろうか。ガハクは作品をかなりじっくり見るので、いつもとても時間がかかる。さらに今日はガハクの希望で、わたしがいつも「疲れてもう見られない」と通過してしまう常設展会場にも入った。
「おなかすいた」
「オレもなりよ」
美術館のレストランに行けば手っ取り早く問題が解決する。けれどもわたしはそんなに気乗りがしなかった。何度か行ったことがあって、決して悪いお店ではなくむしろよい方と思うけれど、別の選択肢があるならば他にしたい。「一応見てみないと分からない」とガハクが店先へと出向いていく。広々としたカフェ風の店内で、店員さんも感じがいいけれど、
「やっぱりやめる」
予測していた通り、ガハクのフィーリングに沿わなかったようである。
ガハクは好きになるお店の理由のひとつに「顔のある店」を挙げる。日替わりのバイトさんが回している、シェフ不在で機械的にレシピ通りの品を作っているような顔のない店は、落ち着かないとのこと。確かにそういうところは見目よくてもどこか空虚な感じがただよう。
「道すがら、渋めの看板のおそば屋があったよね」
好物のおそばに関してはよく見ている。
「うーん。でもこの時間だと・・・」
案の定閉まっている。
美術館に向かう時に見かけた、ベトナムやタイ料理屋も閉まっていた。
もしかしたら当たりかも?と来る時にチェックしていた駅近くの定食屋も準備中の札。アジフライ定食の写真がうらめしい。わたしのおしゃれな友だちは興味を持たなさそうだから、今度妹とここに来てみようかな、などと心のなかでガハクを無視した思案をする。

さて、地下鉄の駅に着いてしまったので、もう家路に着くしかない。
「おそば気分になっちゃったからK(以前書いた地元のそば屋)かな。通しでやってるし」
まだそば屋でねばるガハクだ。
「でもKの最寄駅はJRだからここからだと行きづらいよ。家に冷凍チャーハンがあるからすぐできるけど」
「ま、もう少し考えましょう」
ガハクは外食モードになったようで、おうちでしょんぼり冷凍食品を食べるのはイヤなようだった。さっさと帰って一刻も早く次の仕事にとりかかるべきともいえるのだが。
「じゃあCかな」
わたしがつぶやくと、その手があったか! と言わんばかりにガハクの目に生気が戻り、足取りも軽く踊るように改札へと消えていった。わたしも急いでバッグのポケットからPASMOを出した。

Cは家から地下鉄駅まで行く道の中ほどに位置するイタリアンのレストラン。以前は夕方からの営業であったが、いつの頃からか午後3時からゆるりとオープンするようになっていた。
午後4時を過ぎた頃、空腹に耐えかねながらも「何を食べようか」とわくわくした心持ちで、Cのガラス張りで開放的な店構えの戸を開けた。
「こんにちは」
中途半端な時間のせいか、お客は誰もいない。
レジ付近にいたほっそり小柄なマダム(イタリアンレストランだけど・・・なんと言い表すのが適切か分からず)が、顔を上げわたしたちに気がつくと、見知った人を認めたように表情をゆるめ、挨拶を返してきた。
「いらっしゃいませ」
「ご無沙汰してます」
夫婦そろって人と軽妙に接せられないタイプであるが、同じ店に何度も通っていると、ふとしたタイミングに短く会話を交わしたりで、自然と顔見知りになっている。
Cは昨年秋で18周年! だったそうで、新しいお店ができたとチェックしたことを覚えているのでなかなかに長い付き合いになる。ただ、最初の数年はまだわたしたちが隣町に住んでいたため、存在は知っていたものの訪れることはほぼなかった。
大将と表現した方が似合う(ごめんなさい!)坊主頭でがっちりしたシェフと、金のソムリエバッジが胸元に光る先ほどのマダムとで切り盛りしているレストラン。Maxでカウンターまで稼働させれば20名ほどが入れる席数で、広くもないがふたりで回すには決して小さいとはいえない規模だ。このお店のすごいところのひとつは、非常に手際がよくて、厨房ひとり、フロアにひとりだけにも関わらず、極めて適切なタイミングで素早く料理が出てくること。
さらに、毎日仕入れによって変わる!アラカルトのみの手書きメニューは前菜からデザートまで迷うほどに品数も豊富なのだ。
前菜だけでも温冷あわせ6〜8種はあって、旬の野菜をベースにサラダ仕立てから蒸し物やオーブン焼きなど多彩だ。
肉、魚料理の類はあわせて5〜6種ほど。時期によっては鹿、イノシシ、ウサギ(これが書かれているといつもぎょっとするけれど)といったジビエも入る。魚は丸のまま銀のトレイに乗せて見せてくれたあと、ロースト、ハーブ蒸し、アクアパッツァなど5つの調理法を選ぶ仕組み。
〆のパスタ(わたしたちが勝手にそう解釈している)は自家製の手打ちが3〜4種用意されていて、平麺はもちろんのこと、手捻りやメダル型といった風変わりなショートパスタ、餃子のような詰め物タイプなど多彩なうえ、他に4〜5種類くらいが並ぶ。
デザートも定番のティラミスとパンナコッタに加えて日替わりで2〜3種・・・と、以上説明するだけでも長くなったが、のんびりなガハクには情報量が多すぎて処理しきれないボリュームだ。ガハクがカタツムリの歩みのようにメニューに目を通している間、わたしの方はさっと斜め読みをして「これとこれなんてどう?」と先走って言おうものなら、
「待ってよ。まだ見てるんだから!!」
とぷりぷりしてしまう。その割には優柔不断につき、「だめ、決められない、あなた頼んで」となる確率は90%くらいだろうか。

この多種多様なメニューは、定期的にイタリア各地を巡っているシェフとマダムの研究の所産なのだろう。品書きに「〇〇地方の」とか「△△さん直伝の」という一言が添えられていることもあり、わたしたちの心まで遠くに連れて行ってくれる。
マダムが提案してくれるグラスワインは毎回赤白それぞれ3種で、いろいろと相談しながら決められる。グラスでの提供はフランチャコルタ、ランブルスコもあり、もう本当に選択肢が多いのである。

どんな時に行っても必ずその日の気分に応えてくれるC。これまでどれほど助けられたことだろう。
ラストオーダーが午後10時半(現在は午後9時半の模様)というのもありがたかった。ガハクの仕事の仕上がり待ちや残業で遅くなった時には、まだ間に合う!と駆け込んだことも度々で、食べ終わる頃にはがらんとした店内に最後の客となっていた、というパターンも結構あった。
また、和食店で食事を済ませたあと物足りなくて、「コーヒーだけでもいいですか?」とCに飛び込みパンナコッタとカフェマキアートで夜のデザートタイムを満喫してみたり。
「今日も来ちゃいました」と2日連続してCに通ってしまったこともあったし、連続ではないものの週に3回お世話になってしまったのが今までの最高記録か。

そうそう、コロナ禍中に始まったテイクアウトには心底感謝したものだった。初めて試してみた時、持ち帰ってきたタチウオのカツレツやラグーパスタの載ったお皿が自宅のテーブルに並んでいるのを見て、ガハクが「おうちにCがやって来た!」と歓喜の声をあげていたことを思い出す。

そしてまた今、倒れそうになっているわたしたちをCが救ってくれようとしている。
さて、何があるだろう・・・マダムから渡された文字で埋まった本日のメニューに目を通すが、
「疲れすぎて何も頭に入ってこない」
やはりガハクは途中で断念してしまった。
わたしがいくつか挙げると、「それがいい」とか「こっちにする」とか、ガハクもそれなりの意向があるようで、決まったのはこの2品。(お伝えし忘れていたけれど一皿の量が多めなのでシェアでちょうどいいのだ)
・イタリア産ブッラータとイチゴのサラダ
・アスパラガスと芽キャベツ、ブロッコリーのタリアテッレ(手打ちパスタ)

まずはグラスの白をお願いする。軽めから重めの3種があり、ガハクは樽の感じのある重めが好み。ではわたしは真ん中でいこう。
グラスを挙げて乾杯のポーズをとり、「いやーほんとに疲れたよね」などと言っているうちに、一皿目が運ばれてきた。白いブッラータのまわりにイチゴ、柑橘、ブロッコリーにルッコラとが彩りよく添えられ、とろりとしたバルサミコ酢が回しかけられている。
「きれーい。何これ、わりと弾力があるのね」

器用につきお取り分け担当のガハクが、ブッラータにナイフを入れながら驚きの声をあげる。
一片ずつちょこちょこと取り皿に載せて、まずは第1弾。
ひとくち目を口に運び、ガハクは静かに目を閉じて味わう。
「・・・うまい」
「イチゴをあわせるって初めて食べたけど、こんなにあうんだ」
わたしもこの味わいにいたく感激する。空腹のせいだけではない。
ガハクも幸せを飲み込んだあとに答える。
「そうね、イチゴの酸味と甘みと、チーズの脂肪分とがすごく調和してるのね」

空いたお皿がさげられて、ほどなくすると二皿目が登場した。
できたての湯気が目の前にたちあがり、人にごはんを作ってもらえるというありがたさをしみじみと感じずにはいられない。
オイルタイプのごくシンプルなパスタゆえに、ごろごろとした芽キャベツやブロッコリーのグリーンが目に鮮やかに飛び込んでくる。旬の野菜にはしっかりとした大地の味があり、白ワインがそれを軽やかに受け止める。
お皿に残った、野菜のエキスがしみでたオイルまでパンでぬぐい、きれいに完食したガハク。

「野菜だけだったのに、すごい満足感」
ティラミスをふたりでつつきながら苦いエスプレッソをキュッと飲めば、楽しい思い出として完結する。

「今日も助かったね。Cに行けて」
遅かった昼食に引きずられ、遅い時間に夕食をとりながら、一日を振り返る。
「Cってさ、あれはイタリアンじゃないよね」
ガハクが頓狂なことを言い出す。
「ちょっと、何失礼なこと言ってるの。毎年イタリアに研修旅行もして料理に工夫を凝らしてるお店に向かって」
「食材で日本風にアレンジしてるとか、創作料理だとかとは全然違うし、イタリアンの形状をとっているとは思うけど、ああいう料理、他で食べたことある?」
何となく、言いたいことは分かってきた。ミョウガとか魚類が使われても和風には決して振れない、けれどイタリアンでもないかも、という一皿がたまにCに出没する。
「なんというか、おうちみたいなんだよね。あれはイタリアにも世界中どこにもないCだけの料理で、食べると帰ってきたようでほっとするような。あ、もちろんおうちといってもあなたの料理とはぜんぜん違うし、ましてやお母ちゃんのとも違うけれど・・・」
食べると安心するのは確かだ。

ガハクが続ける。
「・・・もうひとつの『自分のおうち』の料理、に感じられるんだよな」

そうか、Cはもはや「わたしたちのおうち」、なのか。



■次回「ヒゲのガハクごはん帖」は5月第2週に公開予定です。

●山口晃さんってどんな画家?
1969年東京都生まれ、群馬県桐生市に育つ。96年東京藝術大学大学院美術研究科絵画専攻(油画)修士課程修了。 2013年『ヘンな日本美術史』(祥伝社)で第12回小林秀雄賞受賞。
日本の伝統的絵画の様式を踏まえ、油絵で描く作風が特徴。都市鳥瞰図・合戦図などの絵画のみならず立体、漫画、インスタレーションなど表現方法は多岐にわたる。
主な個展に、2015年「山口晃展 前に下がる下を仰ぐ」(水戸芸術館現代美術ギャラリー、茨城)、18 年「Resonating Surfaces」(大和日英基金ジャパンハウスギャラリー、ロンドン)、23年「ジャム・セッション 石橋財団コレクション×山口晃 ここへきて やむに止まれぬ サンサシオン」(アーティゾン美術館、東京)など国内外展示多数。
2019年 NHK大河ドラマ「いだてん 〜東京オリムピック噺〜」のオープニングタイトルバック画を担当し、22年善光寺(長野)へ《善光寺御開帳遠景圖》を奉納。
大川美術館(桐生市・群馬)にて開催の「The 日本・画 日本画らしさとはー大川美術館のコレクションを中心に」(2024年4月27日 – 6月30日)へ出品。


また、2023年にメトロポリタン美術館収蔵の《四天王立像》が同館にて公開中。
Anxiety and Hope in Japanese Art
会期|2023年12月16日 – 2024年7月14日
会場|メトロポリタン美術館 Gallery 223-232

山口晃 《四天王立像「持国天」「増長天」「廣目天」「多聞天」》 2006年 メトロポリタン美術館蔵 Gift of Hallam Chow,2023(2023.354a–d). ©︎YAMAGUCHI Akira, Courtesy of Mizuma Art Gallery 撮影:木奥恵三

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編集者・美術ジャーナリスト

鈴木 芳雄