ヴァンスのロザリオ礼拝堂[内観] ©Succession H. Matisse Photo: François Fernandez

国立新美術館で開催されているアンリ・マティスの大規模な展覧会にはもう行かれただろうか? マティスが晩年を過ごした南仏ニースにあるニース市マティス美術館などから約150点もの作品が集められた。なかでも大きな見どころは、日本初公開となる切り紙絵の大作《花と果実》、そして1/1スケールで再現されたヴァンスのロザリオ礼拝堂内部である。

本展の特徴のひとつは風の通り抜けるような展示空間だ。
多くの場合、絵画の展示室では、鑑賞者が作品と解説に顔を近づけて全てをつぶさに見届けようとするため、壁面に沿って行列ができる。混み合っている展示室では他人の頭部越しに作品を観るのがつらい。
本展の中盤、マティスの切り紙絵に焦点を当てる章は、くっきりと鮮明な色彩とフォルムの「2D物体」が広々とした展示空間に浮遊しているかのようで、すこぶる見通しがいい。たとえ壁際に人が群がっていても、カットアウトの作品ならたっぷりと引きをとって、純粋な色と形のアンサンブルを楽しむこともできる。

例えば、4.1×8.7mの切り紙絵の大作《花と果実》。所蔵するニース市マティス美術館ではガラスケースに収められエントランスに設置されているが、そのケースが巨大すぎて運搬できず、本展ではガラスで覆われずに展示された。光の反射や人の映り込みなくダイレクトに、イメージの全容を視界に取り込む作品体験はまさに「眼球の悦楽」だ。

アンリ・マティス 《花と果実》 1952-1953 年 ニース市マティス美術館蔵 ©Succession H. Matisse Photo: François Fernandez

マティスの切り紙絵の多くはアトリエの壁面で構成されたという。
晩年、大病を患い療養中だったマティスは、絵筆を手にカンヴァスに向かう代わりに、かつてバーンズ財団の壁画〈ダンス〉の構想のために用いたことのある切り紙絵という技法に新たな可能性を見出した。
マティスがベッドに横たわったまま、長い棒の先に付けた筆で壁に素描を描く様子を撮影した写真があり、本展でも展示されている。(この写真を初めて見たとき、「どんだけ横着な人なんだ」と早とちりした。ごめんなさい先生) 一方で、アシスタントの女性に着色してもらった紙をハサミで即興的にカットアウトし、白い寝具の上に並べているマティスの写真もある。
ヘッドボードに寄りかかる彼の視界には、きっと馴染み深い家具や調度品、無数の観葉植物や鳥籠、そして窓枠に切り取られた南仏の光あふれる風景があったはずだ。愛着のあるものに囲まれたその室内の壁を使って、制作中の切り紙絵のレイアウトをあれこれ試してみたのだろう。

制作中のマティス 1952年頃 ©photo Archives Matisse / D. R. Photo: Lydia Delectorskaya

本展では、マティスの部屋に実際に置かれていた家具やタペストリーなども展示されている。なかでも、ロカイユ様式の肘掛け椅子や、ムシャラビエ(アラブ風の透かし模様の出窓)といった品は画家のお気に入りだったと思われ、室内画やオダリスクなどの絵画のなかに何度も登場する。
アンリ・マティスは、室内の表現に本領を発揮する無類の「部屋好き」の芸術家だ。部屋を構成するさまざまな要素を組み合わせ、幾度となく繰り返された色と形の実験が、マティスの画業を無限のアラベスクで彩っている。

右|《ヴェネツィアの肘掛け椅子》 ニース市マティス美術館蔵 左|《三日月を伴う蓋のある火鉢》 ニース市マティス美術館蔵 ©Succession H.Matisse

《赤い “ムシャラビエ(アラブ風格子出窓)” 》 個人蔵(ニース市マティス美術館蔵寄託) ©Succession H. Matisse

本展のハイライトであり、「一生の仕事の集大成である」とマティスが語ったヴァンスのロザリオ礼拝堂をめぐる展示は、マティスの芸術が人の営みの場である室内空間でこそ生き生きと開花することを如実に示していた。

第二次世界大戦の戦禍を逃れ、ニース郊外のヴァンス村で療養していたマティスを献身的に看護した女性がいた。彼女はのちにロザリオ会の修道院に入り、礼拝堂建立のための総合デザインを請われたマティスは、自身の最晩年の日々をこの仕事に捧げた。
20代の頃、この礼拝堂を訪れるために南フランスを旅したことがある。(当時は写真撮影が禁止されていて、コンパクトカメラでこっそり撮ったら、すかさずシスターが出てきて叱られた)
コートダジュールの海の色を思わせるステンドグラス《生命の樹》。清潔感のある白いタイルに軽やかな筆致で描かれた聖母子像。祭壇の十字架から燭台、カットワーク刺繍の布に至るまで、隅々までマティスの美学がゆきわたり、慈しみと敬虔さに包まれている。
カトリック校でキリスト教美術に馴染んだ筆者にとって、その空間は荘厳な教会建築の概念を完全に覆す、シンプルで幸福感に満ちた「部屋」だった。

アンリ・マティス 《ステンドグラス、「生命の木」のための習作》 1950年 ニース市マティス美術館蔵 ©Succession H. Matisse Photo: François Fernandez

本展では、ヴァンスのロザリオ礼拝堂内部を実物大で再現した展示に加え、心にくい仕掛けも施されている。自然光の移り変わりによって刻々と変容する空間の様子をも再現しているのだ。
キャンドルだけが灯る夜の礼拝堂にやがて朝の光が射し、ステンドグラスの色がタイル画に映り込む。日暮どきには床に落ちるステンドグラスの影が移動して暗闇に戻る。その「部屋」に住むことでもない限り体験できない凝縮された時間の推移である。

ヴァンスのロザリオ礼拝堂の内部の再現展示

「私が夢みるのは、心配や気がかりのない、均衡と純粋さと静穏の芸術であり、すべての頭脳労働者、たとえば文筆家やビジネスマンにとって、肉体の疲れをいやす座り心地のいい安楽椅子に匹敵するような芸術である」
このようにマティスは書き記している。
マティスが望んだ芸術のありようとは、彼が生涯探求した部屋の悦びに象徴される、「誰もが個人の好ましいバランスで生を営むことのできる場所」に尽きるのではないか。楽園を疑似体験した後でそんな思念が去来する展覧会だ。

ヴァンスのロザリオ礼拝堂の内部の再現展示[タイル壁画の再現]

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マティス 自由なフォルム

会期|2024年2月14日(水) – 2024年5月27日(月)
会場|国立新美術館 企画展示室2E
開館時間|10:00 – 18:00[金・土曜日は10:00 – 20:00]入場は閉館の30分前まで
休館日|火曜日[ただし4/30(火)は開館]
お問い合わせ|050-5541-8600(ハローダイヤル)

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