中平卓馬ポートレイト 1968年頃 撮影:森山大道 東京国立近代美術館 ©Daido Moriyama Photo Foundation

東京国立近代美術館では写真家・中平卓馬の足跡を辿る展覧会「中平卓馬 火-氾濫」を開催中(会期は2024年4月7日まで)。この展示を現代美術作家・杉本博司さんと一緒に鑑賞し、その印象をお聞きすることになりました。ちょっとこの組み合わせは意外ですよね。中平卓馬の思索と作品が描く軌跡を、杉本さんはどのように捉えたのでしょうか。そこから浮かび上がってきた、2人の写真家の接点とは?[井上]    

聞き手・文=ガンダーラ井上

——1960年代に、いわゆるアレ・ブレ・ボケ表現で写真界に大きな痕跡を残した中平さんの作風は、杉本さんの作品世界とは全く異なる位相に配置されているようにも感じられます。中平さんの存在を意識し始めたのはいつ頃のことでしょう?

アメリカから一時的に帰国していた1973年に、彼の著作の『なぜ、植物図鑑か』を買いました。それが最初ですね

——あの本の初版は1973年なので、オリジナルの晶文社版が出て間もない頃ですね。

本を読んで、この人はインテリなんだなと思いました。写真家というのは感性で写す人ばかりという風潮のなか、そんな詩的なものを否定しようというのが写真家らしからぬ態度で、植物図鑑のように並列的にみんなが同じ現象としてある世界として、個々の写真をあえて価値づけていかないために今まで自分の撮ってきたアレ・ブレの写真ですらポエティックなものとして否定している。こいつはちゃんと世界をどのように見たいかという意思表示があってコンセプトがはっきりしているから、普通の写真家とは区別しておいた方がいいなという目で見なければいけないと思いました。

中平卓馬 『なぜ、植物図鑑か』 左|晶文社版 1973年、右|ちくま学芸文庫 2007年

——事象を淡々と、一定のコンセプトで植物図鑑のように積み重ねるという考え方は、タイポロジー(類型学)的な方法論や杉本さんの作品につながるようにも思えます。その種として捉えることはなかったですか?

それはなかったですね。中平さんの実際の作品というのは当時の『アサヒカメラ』などに掲載されていたと思うんだけれど、写真そのものについて「お、これは新しい」という感覚を受けた記憶はないです。でも、とにかくちゃんとした論理がある写真というのは日本人では珍しいなと思いました。

——写真そのものではなく、著述として記されていることに杉本さんは反応されたのですね。執筆された時代の断面として、1968年のパリや東京では若い人たちが大騒ぎをしていて、歩道の敷石をひっぺがして体制全部をぶっ壊してやる!という左翼活動の沸騰がありました。その強烈なヴァイブレーションを『なぜ、植物図鑑か』から感じます。すなわちあの本は写真家、思想家というよりもむしろ活動家としての中平さんが書いた本ではないかと。どんな表現活動をしている人にせよ、もちろんノンポリの人も多く存在していたとは思うのですけれど、際立って目立っていた人はほぼ全員が活動家だったのではないかという“あの時代”に対する幻想があります。

「中平卓馬 火―氾濫」展示風景

いずれも「第1章 来たるべき言葉のために」にて

建築家の磯崎新も結構活動していましたね。それなのに丹下健三の設計事務所に入って万博の仕事をやらされるという葛藤があって、彼は一時は倒れてしまった。

——1970年の大阪万国博覧会は東京で巻き起こっている安保闘争から目をそらさせるための国家的策略であるという考え方が全共闘の主張だったかと記憶しています。

左翼思想の最後の時代です。アメリカではフラワームーブメントとベトナム反戦が一体化して1969年にウッドストックが象徴的にあった。僕は1970年にアメリカに行ったから「去年そういうのがあった」とザワザワ騒いでいたんです。日本で通った大学は立教だけど指導教授は左翼だったから。卒業は1970年だからバリケード封鎖の真っ最中で卒業式もなかった。

——ええー! 立教というのはどちらかといえば政治とは縁遠いイメージで学生運動も低調だったのかと思い込んでいました。

東大がマルクス経済学者を全部追い出したのを立教と法政が受け入れた。だから簿記とかは別として全科目がマルクス主義経済学だった。それはそれで面白かったですよ、唯物史観がね。僕は活動家にはなれないと思ったけれど、時代を見極めたいと思ったからベ平連に入った。

——作家の小田実さんらが結成した“ベトナムに平和を!市民連合”ですね。

ベ平連だと革マル派の集会に行っても中核派の集会に行っても殴られないんですよ。セクト間の争いなしに、何で我々は今立ち上がるんだという演説を聞きにいけるわけです。国会の周りのデモは結構行きましたよ。やっぱり追いかけられると怖いよね。捕まっちゃうわけだから、必死になって駆けた(笑)。

「中平卓馬 火―氾濫」展示風景

いずれも「第2章 風景・都市・サーキュレーション」にて

——そういう危険に身を晒しても、世界を変えるべきだという側に自分はいたかった?

世界全体の雰囲気が“エイジ・オブ・アクエリアス”(ベトナム反戦を象徴するブロードウェイ・ミュージカル『Hair』挿入歌でのキーワード)で、変革の時代が来たんだと。ビートルズもローリングストーンズもそれまでなかった音楽だったし、大人の文化に対抗してジーンズ履いてヒッピースタイルで髪を伸ばして、人類史上でも若者文化が初めて出てきた。世界史的にみても若者が独自の感性を主張して大人の文化を壊そうという、ある意味で革命的な、共産主義だけでなく大人社会そのものの生きづらさをひっくり返したいという雰囲気だったので、エネルギーが地底から湧いて若者全部に振動を与えているみたいなね、そういう時代でした。たまたまそこに生まれてよかったなと思いますよ。日本の写真界でのアレ・ブレ・ボケという表現も、そんな世界全体の雰囲気と関連している文化活動でした。

——その頃、杉本さんはどんなことをされていたのでしょう?

1974年はニューヨークに着いた年で、35mmカメラを持ってうろうろしていたわけですよ。


——杉本さんといえば大判カメラというイメージですが、35mm判ですか!

地下鉄 杉本博司撮影 1975年頃 ■本展への出品はございません

一眼レフも持っていたけれどピッカリコニカ(Konica C35EF 国産初のフラッシュ内蔵コンパクトカメラ)というのが出てきて気に入って持ち歩いていました。五番街のショーウインドウの反射を撮ったり、地下鉄でスナップしたりね。

ヨシダミノル 杉本博司撮影 1975年頃 ■本展への出品はございません

ノーファインダーにも凝っていて、知り合いをカチャ!っと撮ったりした。これは具体美術協会のヨシダミノルさん、宇宙人になって宇宙船に乗っているパフォーマンスをしている変な人。この時代には僕もニューヨークでストリートフォトグラファーをやっていたわけです。そうやって、まだ見知らぬニューヨークの街中で写真に撮るべき“気配”を探していた。

——そして、自然史博物館でただならぬ気配を感知し、ジオラマシリーズの発意を得るのですね! その後はプリントの仕上がりに関する工芸的な完成度の高さまでを含めて作品世界を構築されていますが、その部分が中平さんの姿勢とは異なりますよね。

いずれも、中平卓馬《「サーキュレーション―日付、場所、行為」より》
1971年 東京国立近代美術館 ©Gen Nakahira

中平さんは、モノのもっている照り返しを俺は撮っているだけだという感じで、昔からの芸術を破壊しなければいけないと主張している。ただただ物質世界の照り返しを自分は機械みたいになって受けとめて撮る。というのは思想としては格好いいですよ。ただし、それがどのように表現されてくるかということになると、自分の作った作品の照り返しが感じられないというのであれば、それはしょうがない。

——それは、本展示における「第5章 写真原点」のことをお話されているのかと思います。中平さんは1977年に急性アルコール中毒で倒れ、生死の境をさまようほどの病床からは回復したものの、記憶と言語への障害を残しました。第5章で展示されている復帰後の作品は、倒れる前の作品と継続しているのか、それとも断絶していると感じられましたか?

僕が思っているのは気配みたいなものを感知する独特の感性、それは才能だと思う。そういう啓示のようなものが照り返しの中に「世界の神秘はこういうところに潜んでいるんだよ」と伝えてくれるような、それを感じられるような感性がないとただのつまらない汚い写真になってしまう。そういう啓示的なものを受け取れる感性、その芽はあったけれど壊れてしまったということで、続けられていれば神秘の領域に入っていけたかと思うんですけれど、ガチャガチャに壊れてしまって回復不可能で、別の人格が、あまりハイレベルなスタート地点ではない写真家が、普通の写真を撮っているとしか思えなかった。

「中平卓馬 火―氾濫」展示風景 「第5章 写真原点」

小さな字で克明に書かれた日記を読む杉本さん

——社会の体制に強い怒りを持ち、それを破壊することを目的とした活動をラジカルに推し進め切っていく道半ばで中平さんは自分自身をもメチャクチャに破壊してしまったと言えるかもしれません。倒れる前の論客ぶりも蒸発し、復帰後の著述として展示されているのは小さな赤い字で「×月×日×時×分 覚醒」と記された手帳(またはノート)や、その日の行動記録を書き記したショートホープの空き箱など、自分自身の短期記憶をつなぎ止めるためのキャプションのようなものに変容しています。

写真家として見るのではなく、脳障害のケーススタディとして見ると興味深いものがある。交通事故で片腕を失った人が、あるはずのない腕に冷たさや痒みを感じるという現象がありますよね。そういうことが中平さんの事故の後で起きて、失われた脳の領域を探るような営みが写真に現れてきていたなら、また違うものになっていたのではないかと思います。

「中平卓馬 火―氾濫」展示風景 撮影:木奥惠三

——1977年の昏倒を強調しないでフラットに見たい。という意図でそのことをことさらに強調した展示にはしないようにしていましたが、いずれにせよ悲劇的な出来事が起こり、作品にも大きな変化が現れたと杉本さんは感じられたのですね。

彼を取り巻く時代も変わっていたけれど、彼の人格そのものが大きく変わってしまった。昔の感性や記憶が残っているのかなと思ったら、それを見出すことはできず、事故の前と後では写真を撮る人格が断絶しているなという気がしました。植物図鑑をやろうとしていた頃の論理的な思考回路が破壊されてしまって、また普通の写真家として再出発したのではないでしょうかね。自分が昔どういう考えでどういう写真を撮っていたのかは後から見て「こんなことを自分はやっていたんだ」と思い出すような、人間を2回味わってしまったのではないでしょうか。倒れる前に出した写真集には『来たるべき言葉のために』とタイトルをつけたにもかかわらず事故によって言葉を失い、『植物図鑑』をやろうとしていたのに自分自身がある意味で植物的になってしまった。悲劇的だよね。晩年の中平さんのことを考えると、そういう複雑な思いに駆られます。

中平卓馬 火―氾濫

会期|2024年2月6日(火) – 4月7日(日)
会場|東京国立近代美術館
開館時間|10:00 – 17:00[金・土曜日は10:00 – 20:00]入館は閉館の30分前まで
休館日|月曜日[ただし3月25日は開館]
お問い合わせ|050-5541-8600(ハローダイヤル)  

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編集者・美術ジャーナリスト

鈴木 芳雄