
アーティゾン美術館が展開する「ジャム・セッション」というシリーズ。同館所蔵品(石橋財団コレクション)から特定の作品を選び、現代作家と学芸員の協働により、新たな作品を生み出したり、展覧会を作ったりする。今回の作家は山口晃。セザンヌと雪舟の名品を取り上げて挑んだ。山口はかつて雑誌の取材でフランス、エクス=アン・プロヴァンスに出向き、セザンヌのアトリエやサント=ヴィクトワール山を取材したことがあった。そのときの記事の編集者を聞き手に山口が語る「自分にとってのセザンヌの今ここ」
聞き手・文=鈴木芳雄
——展覧会の中にセザンヌへの思いが文章で綴られたパネルがありました。こんな書き出し。
〈セザンヌが好(い)いですよね、たまりません。昔はその良さが解りませんでしたが、絵を学ぶようになってから大好きになりました〉。もともと好きだったところに、テレビでのセザンヌの模写や、雑誌でのアトリエ取材の仕事が来たんですね。
セザンヌのお孫さんに会ったんです。感動しましたね。もうちょっとで抱きついてしまうところでした。ここにセザンヌ遺伝子が! ガブっ! って。それはともかく、いろいろびっくりして。たとえば、現地の風景の色に関しても。
セザンヌは、フォーヴとかキュビスムに繋がっていく、いろいろ古いのをぶっ壊した人っていうのは誤読だった。そうじゃない。写実だった。そうとう厳密なことを自然に従って、でもそこに感覚ってことをまったく無視しないでやっている。そのギリギリの折衷をやってるんだっていうのが、表現主義的なああいう色じゃなくて、写実の色なんだってのがこのときにわかった。
美術史の結節点なんだけど、その後とは決定的に違うところにいて、その前ともその後とも、ある断絶した独立峰のようなものなんだなっていう、その感が深まるっていうんですかね。

「ジャム・セッション 石橋財団コレクション×山口晃 ここへきて やむに止まれぬ サンサシオン」会場にて
やっぱり本阿弥光悦とかもそうですけど、古典をどっちかと言ったらリバイバルでありながら、リバイバルをその人の感覚に完璧に則ってやると、ものすごく新しいものになる。リバイバルっていう本来性回帰の場においては、古典の構造をしっかりとらまえたからこそ、そこにまったく新しいものが立ち上がるっていうお手本のようなことが起こってて。マネとかも、色彩においてはリバイバルというか、非常に古い部分を持っていて、それが基底面になって、新しいものの立ち上がりがバシッとこっちに見えてくるところがある。
全部新しいように見えるものっていうのは、意外とバリエーションでしかなくて、きちんとリバイバルたりえていないっていうこと。セザンヌの中にある古さがなんなのかっていうのが、このとき見えてきた気がしました。

セザンヌが晩年に建てたレ・ローヴのアトリエを訪れる。セザンヌは午前中ここで制作し、午後は戸外で描いた。表情や声には出さなかったが、このとき山口は、猛烈に感動していたという

セザンヌのアトリエには画材、さまざまなオブジェ、衣類などまでが保存されている。山口ガハクは脇目もふらず、スケッチをしまくる

スケッチしているところを覗かせてもらうと・・・
あといわゆる「プラン」ですね。「面」という意味らしくて、筆致が数ストローク集まってできる色面のことですがエクスに行ったときはどこから描くか、描き順っていうところに非常に目がいって。初期の絵と完成期の絵が並んでいたんで、なんとなく見比べていたら描く順番が真逆なんですね。初期は輪郭のところから描きだすんですけど、完成期は逆で、真ん中から輪郭に向かって描いていってるのに気がついた。それと「白」が非常に多いことによって、絵具のとにかく彩度と明度を異様に調節しに行っているというんですかね、絵具の輝度、だから輝くものをとにかく黙らせるというか。彼が絵の支配者でありながら、その支配者が自然そのものにこき使われる。
描きだしの違いによる絵の空間性の変化。主客が目まぐるしく回転しながら絵を制作しているっていうのが、アトリエと同じエクス=アン・プロヴァンスにあるグラネ美術館で見えてきたんです。見えてくるとおもしろくなって、「また、真ん中から描きだしてるかな」と、このときの見えた法則を今回、絵に当てはめて「よし! 探してやろう!」って思ったら、全然探せないんですね。「なんでだろう?」っていうのが、今回の一番最初にあって。そうしていったら、その「プラン」っていう、筆致の筆跡の単位っていうのが見えてきました。

山口ガハク、本当に感動しているときは自分の世界に没入してしまえるようだ
Photos: Yuji Ono
小林秀雄の『近代繪画』にかなりセザンヌのことが書いてあって、非常におもしろい読み物です。そこに絵画の近代化っていうのが絡めてあって、そして現代の文明批判にもなっている。ものすごい評論なんですけど、小説のようでもあり、絵画論でもあり、凄まじいいろんなものの交差点のようなもの。
セザンヌの項目のところで一番絵画的な読み解きをしている。3章まるまる一番長い章を使って書いてる。それが本全体の重しになって、各章が生きてくるんですけど。読んだときには気づかなかった「プラン」っていうのも、あとで読み返すといっぱい書いてあるんですね。だけど自分が気づいてないというか、こちらにその概念がないから解らないんですね。読み飛ばしてました。今回この展覧会のために模写やって「プラン」に気づいてから読み直すと、「あ、書いてあるじゃないか」って。こっちが気づいたら気づいただけ、先回りしても書いてあるんですよ。びっくりしちゃって。「すごいな、秀雄」と思います。絵も描いてないのにね。
〈セザンヌの色彩感受の道は徹底したものであって、光も他の物象と同樣に色と見たし、空間さへ色として感じてゐる樣である。彼は、面(プラン)といふ言葉を好んで使ってゐるが、色は到る處で、色彩あるプランとして現れる。震へるのは光の波ではなく、彼の言葉を借りれば、自然が呈示してゐる樣々な「プランの魂」が震へるのである。空間のプランも、靑みを帶びた魂で震へてゐる。(中略)セザンヌは、光に對して自然は、物の形や構造によつて限りなく複雑に抵抗するといふ風に感じたと言へるので、そこに彼のプランという言葉が現れる所以がある。プランとは抵抗面なのである〉
小林秀雄『近代繪画』新潮社

東京大学出版会PR誌『UP』(ゆぅ・ぴぃ) 2017年 2月号 「すゞしろ日記」UP版 No.143
「point culminant」は「頂点」っていう意味らしいんですけど、「目に一番近い点」っていう解釈で書いてあって。で、目に一番近い点を目で触っていって、そこから描くっていうので。「あ、あのときの真ん中はこれだ! point culminantなんだ!」っていう答え合わせみたいなのがされてます。セザンヌの言葉で両手を掴み合わせる仕草をしながら、「これなんだよ、絵っていうのは。こうやってこの両の手が綺麗に合わさったとき、私はこの画面をものにするんだ」っていうようなことを言ってる。それはまさに画面全体のことでもあるし、モティーフそれぞれをとらえる比喩でもあって。
そして、キュビスムは関係ないんだよって言ってるところが、本当にその通りだと思います。一方、キュビスムの人たちはセザンヌは大いに関係ある。セザンヌはキュビスムとはどっちかっていうと逆のことをやっているんだけど。キュビスムというのは非常に恣意的です。
真似して描いてみるとわかるんですけど、楽なんです。自分の好きなように描ける。そのフリーハンドを当時の画家たちは全員で喜んだと思います。厳密に場面を調整して構図つくって、ギッチギチで、何も自分のをやるところがないよりも、全部自分で決めていいってなったときに、そこからダダも生まれてくるし、色も好きな色使っていいんだ、明度無視していいんだっていうのが、セザンヌを誤読した上ならパッと次につがなる。
セザンヌがもうちょっと長く生きててその様子を見てたら、“お前ら何やってる!”っていうふうに激怒したんじゃないかと。“ああ、最低だな、こいつら”って言ったかもしれない。でもピカソは本当にセザンヌが希望の星だったんですよ。やっぱり田舎に引っ込んでチコチコやり続けていたセザンヌ先生がいるんだから、冒険しなきゃって。あんな世間から爪弾きにされて、あんなところまで外れて行ってるのにやってる、すごい励みになる。孤高の海に漕ぎ出すぞ、みたいなのがあって。やることはもちろん誤読してるんですけど。

この場所にもイーゼルを立て、セザンヌはサント=ヴィクトワール山を描いた。そのときの写真が残されている

ポール・セザンヌ 《サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール》 1904-06 年頃 石橋財団アーティゾン美術館蔵

山口晃 《セザンヌへの小径(こみち)》 2023年 作家蔵 ©YAMAGUCHI Akira, Courtesy of Mizuma Art Gallery Photo: 浅井謙介(NISSHAエフエイト株式会社)
遠近法についても、セザンヌが彼の感覚に従うことによって、自然と逸脱していく。遠近法っていうのは非常に図学的な不自然さがあって。要はまず両目で見てはいけないんです。歪みますから。片目にして眼球を絶対動かしてはいけない。眼球をまったく動かさない片目にする。そうやってできた絵を、図に写すっていうんですけど、そこでまた嘘があるのは、人間の目っていうのは中心視野しかピントが合わないですから、周囲はぼやけるんです。
じゃあどう見るのかっていうと、動かしちゃってるんですね、周辺を見るときは。動かすくせに、そのときの消失点は無視するんですよ。よく見ると消失点は全部ズレますから、セザンヌの絵になるんですね。こうやって目を動かして両目で見ただけで形は開く、消失点は変わる。
ですから、セザンヌの絵っていうのは決して多視点をしたんじゃなくて、視線を多く使っただけ。 いわば「多視線」。それは見るっていうことを行う我々の自然な行為の集積であって、いろんな方向から見たものを入れ込むっていう人工的なキュビスムとはまったく違って、非常に自然な人間の見るっていう行為に立ち返ったもの。遠近法は、図学的には正確かもしれないけど、人間的な行為にとってはまったく不自然な行為で、しかも嘘を含んでいる。
見えないところを見えるように「多視線」でやってるくせに、一視点で描いてるようなフリをする。あれをやめたっていうことにおいて、遠近法は壊すんですけども、一番自然な遠近法に帰っていく。そういうある原理、原則に従っていくことなんです。キュビスムっていうのは逆に非常に恣意的なフリーハンドを多く持って、セザンヌが自然の奴隷になってでも、自分の感覚をそこに置いて発揮するような、すごくギッチギチのところに行くときに、その点でキュビスムは本当に楽。でも遠近法の国の人からすると、ものすごく気持ち悪くて苦労をしたと思います。ピカソたちもそこにおいてはものすごく大変で、油断するとパースが全部バチっと揃っちゃうのを、“違う。違う。”ってやりながら。やっぱり彼らは彼らで違う方向に行ったんですけども、セザンヌのレール上にそれはないっていうことだと思うんですね。

東西約18kmの岩の連山、サント=ヴィクトワール山。エクス=アン・プロヴァンスからは西端のピラミッド型の姿が臨める。その山道を登り近づいてみる Photos: Yuji Ono
ここにおいてもセザンヌは独立峰なんです。それ以前とそれ以降、両方の結節点にいるんですけど、彼自身がやったことは彼しかやってなくて、再現性がとにかくほぼゼロ。誰もそれ以降やっていない感じのことで。それが見えてくる。それは「プラン」っていうか、筆致が形に沿わなくなる。
セザンヌの絵を観るとわかると思うんですけど、画面上の埃でも払うように筆を同じ向きにべっべっべと動かす。普通の人はもうちょっと山なら山、リンゴならリンゴに合わせて、形に沿った筆致を、ハッチングなんか考えるとわかりやすいんだけど、形に沿った筆致を心掛けるんですけど、セザンヌはまったくそれを無視して、画面上水平に筆を移動させるんですね。そうすると筆致の真ん中あたりはいいんですけど、端に行くと回り込んでいかないんですね。そっちに行くに従って、筆致が水平だとベロンと捲り上がってくるっていうか。本当なら色に位置がなくなって画面が破綻するんですけど、なぜか彼のその破綻がまったく違う絵画体験というか、画面を生み出す。つまり筆致がモノに沿うと、瞬時に目が画面に到達するんですけど、到達させないことで時差が生じるんですね。
その時差によって一瞬パッと見ただけではわからないのですが、ところが、彼の絵がそこにおいて恣意的なことをやっていなくて、自然に沿って、感覚に沿って、色彩とかルールを厳密に合わせる、その法則性にこっちの身体が慣れた瞬間に、その浮いてる筆致がすべて逆に空間をつくってくるっていうか、浮いてるそれがばーっと空間になる。見えちゃう。ものすごく空間が。その時差によって、絵を見ているんじゃなくて、見えているっていう、それ自体が意識されて、「あ、いま見えてる」っていう感覚。
普通は見えるっていうのはものすごく早いし、自覚できないモノだと思うんです。目を開ければパッと見えちゃって、むしろ何を見てるか、どう見てるかが、すぐに視認できてしまうっていうのも、その見えるっていう行為自体がプランによる視認性の低下によって、それで光をとらえて、意識されて知覚されるっていう、その光と感覚機能、電気信号のすべての回路が自覚されるような感覚になってるんじゃないか。それが彼の絵を見たときの凄まじい快感と言いますか、ちょっとほかにない実感の強さ。絵を見てるんじゃない、見えるっていうことを感じているっていうことです。
それが彼の言う「サンサシオン」。彼の感じた感覚の強さが定着されたものなのではないかと。だからこういう「ああ!」って言ったり、景色を見て「うわっ!」って思ったそれが、その方法論によって成し得ている。それをセザンヌがなんで思いついたかっていうのはまったくわからないし、本当にそう彼が狙ってやったのかもわからないですけど、私には彼の絵を見てるときに起こることです。筆致がそういうことを起こしてる。今回はそんなことを思えたんです。
「ジャム・セッション 石橋財団コレクション×山口晃 ここへきて やむに止まれぬ サンサシオン」展示風景 Photo: 木奥惠三 Courtesy of Artizon Museum
■後編予告
セザンヌが描いた石切場まで取材した山口ガハク。そこではまた別の巨人の魂が降りてきた。その画家が活動していたのはさらに遠い昔、場所もヨーロッパではない。その人はなんと日本の画聖、雪舟等揚であった。

ポール・セザンヌ 《赤い岩》 1895年 オランジュリー美術館蔵
この作品を見て、雪舟筆 《秋冬山水図》を思い出したと言ったガハク。前景の岩と画面上辺の接する部分が共ににボカされている、と。 Photo: Yuji Ono
会期|2023年9月9日(土) – 11月19日(日)
会場|アーティゾン美術館 6階展示室
開館時間|10:00 – 18:00[11月3日を除く金曜日は10:00 – 20:00]入館は閉館の30分前まで
休館日|月曜日[10月9日は開館]、10月10日
お問い合わせ|050-5541-8600 (ハローダイヤル)
■同時開催|創造の現場―映画と写真による芸術家の記録(5階 展示室)・石橋財団コレクション選 特集コーナー展示 読書する女性たち(4階 展示室)
■日時指定予約制
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