ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー 《湖に沈む夕日》 1840年頃 Photo: Tate

ヴェネチア国際映画祭にノミネートされた大宮エリーさんは出発直前に見た「テート美術館展 光 — ターナー、印象派から現代へ」のことをイタリアで思い出し、光について考えた。映画祭に出品したのは『周波数』という作品で、あらゆるものがもつ固有のバイブレーションをテーマにしている。光溢れるターナーの絵にもバイブレーションを感じたという。考えれば光も電磁波という波だ。大宮さんの創り上げたもの、美術館で見た絵、旅が彼女の中で一つになる。

いま、この原稿をヴェネチアで書いている。正確に言うとナポリだ。ヴェネチアは水の都。水路をゴンドラがゆき、太陽の光が水面をキラキラと彩る。光が柔らかく、水面はエメラルドだ。その光の道を、船で進む日々を送っている。が、今ナポリに来て、今度は大きな海辺の街である。海の色が違う。青い。サファイアのようだ。ヴェネチアがエメラルドで、ナポリがサファイヤ。青の洞窟だってある。太陽も違う気がしてくる。光の強さが違うのだ。光、について、最近考えていて、そして光について、ここで書きたいと思う。

ヴェネチアの運河と光

ナポリの海と光

それはそうと、そもそもヴェネチアは、なんで来ているのかというと第80回、ヴェネチア国際映画祭の VR部門に私が監督、脚本、そして絵を手がけた30分弱のVR作品がノミネートされたのだ。8月の28日から現地入りしている。9月9日の授賞式まで滞在する。

初日は、設営をし、そのあとは連日、映画祭にて他の作品をみたり、自分の作品の現地での反応を見たりしている。連日ありがたいことに満席で、フランス人の方、中国の方がご覧になるのに立ち会ったが、泣いていらっしゃった。
私の作品は、光、に関係している。
あなたも、この宇宙でのひとつの光、そして他に代わりが効かない存在なんだということを、量子物理学と哲学をベースに物語にした。

明後日には、レッドカーペットを歩く。監督30人が歩くのだという。そして、受賞すれば日本初になるそうだ。その結果は5日後、9日だ。
そしてなぜヴェネチアを抜け出してナポリにいるかというと、私の次の大きな制作プロジェクトのクライアントがイタリアに滞在していて、ミーティングになったためだ。

で、ここから「テート美術館展 光 — ターナー、印象派から現代へ」(以下、「テート美術館展 光」)の話をするのである。
ヴェネチアに行く直前のバタバタの中、記事を書くために観に行ったのだが、タイムリーなテーマであった。
「光」である。

「テート美術館展 光 — ターナー、印象派から現代へ」展示風景
オラファー・エリアソン 《星くずの素粒子》を見上げる大宮エリーさん
© 2014 Olafur Eliasson

草間彌生 《去ってゆく冬》© YAYOI KUSAMA 展示風景

草間彌生 《去ってゆく冬》© YAYOI KUSAMA の前で

今回、ノミネートされた私の作品は『周波数』というタイトルで、ちょっと生きづらいなと思っている人に希望になれば、光になれば、と思って描き下ろした。

いろんな仕事をしていますね、と、言われるのだが、私はそうは思っていない。すべての共通点は、「光」なのだ。

ジェームズ・タレル 《レイマー、ブルー》 1969年 © 2023 James Turrell. Photograph by Florian Holzherr.

私が幼少期から、「なんで生きているんだろう」と、自分の存在に悩んだり、漠然とした虚しさに苦しんだり辛かったこと。側からみたら、楽しそう、明るそう、天真爛漫といわれることが多いのだが作っているものをみてもらえれば、わかる人にはわかるだろう。生きづらさを感じている人には私の滑稽なエッセイ集『生きるコント』も、まじめな「思いを伝えるということ」も、同じく、光と闇の本なのだ。

抱えているトラウマや哀しみを、どう面白おかしく笑い飛ばすかなのである。なので、私は一貫して、どんなジャンルであろうとも、光、を描きたいと思ってきた。ドラマであれ舞台であれ、文章であれなんであれ。

ここ12年は小山登美夫ギャラリーに所属し、画家をしている。これも、海を描いたり、植物を描いたり、窓を描いたりしているが光が心に差し込むような、そんな絵が描きたいと思っていた。

さて、「テート美術館展 光」である。入ってすぐのターナーの絵に、釘付けになった。
そこにはそのまま光が描かれていた。風景としてというよりも、光そのものが、そのキャンバスに溢れていた。そして、それが、空間全体に広がっているのである。そのターナーの描いた、淡く、そしてやわらかく、優しい光は、キャンバスから外へ溢れ出して、私の心や、他の見る人の心を光でひたひたにしていくのである。

ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー 《光と色彩(ゲーテの理論)—大洪水の翌朝—創世記を書くモーセ》 1843年出品 Photo: Tate

ああ、なんてやさしい光なんだ。眩い。目頭が熱くなって思わず抑えた。胸がしめつけられる。コロナで心のどこかが疲弊していたことに気づいた。いいんだよ、気を張らなくていいんだよ、何も不安なことはないよ、本来ありのままで、この世界をたのしめばいいんだよ、自分を寛大に、許してあげてね。そんなふうな声が、ターナーのつくりだした光に包まれながら聞こえた気がした。崇高な光につつまれると、このような気持ちになるのだろうか。一枚の絵が、できることが大きすぎて圧倒されたのであった。

光を描く画家と言われる人は幾人かいると思う。フェルメールや、モネ、も大好きだ。それぞれにとっての光との交わり、考え方、思いが違うから、それを景色で描く人も、陰影で描く人も、構図で描く人も、抽象で描く人もいる。
それをこの展覧会では、見ることができる。いろんな人の、光への思い。闇への考えた方。
ターナーは、光というものを、愛で描いているように感じた。目に見えない光のバイブレーションを、抽象的なのに、感じさせ方がとても宗教的というか。

クロード・モネ 《エプト川のポプラ並木》 1891年 Photo: Tate

私の『周波数』という作品は、ノーベル物理学賞を受賞した、マックス・プランクの「すべての存在に、固有の周波数がある」という定理をベースにしている物語で、それは、人間や生き物はもちろんのこと、石ころや、風、草木、机、椅子、鉄、すべてのものに、周波数、目に見えないバイブレーションがあるという定理なのだが、ターナーの絵はそれに少し近いものがあるなと思った。
宗教というよりも神道というか。森羅万象すべてに神が宿る。
それは私にとっては、音であり、そして光であるように思う。万物すべてのものが、それぞれ、目に見えない認識できない光を放っているのだ。
絵は、それを描いているのではないだろうか。
みなが目で見ているものを描くのではなく、心で見ているものを、ビジュアル化する。それが絵。そしてその絵をみる人はまた、心にそのひとが感じた光を描きだすとしたら、どうだろうか。

「テート美術館展 光 — ターナー、印象派から現代へ」展示風景
ターナー作品と自撮り

絵を見るという行為は、心に光を、その人の絵を、描くことだと思う。
画家だけが描いているわけではないのだ。なぜ人は絵を見るのか。それは光を心に描くためなんじゃないかと思うのだ。

かといって、光だけが素晴らしいわけではない。闇があるから光がある。光ばかりの世界に、光は必要ないのだ。光の世界で、光は目に見えない。
闇があるから、光が必要で、感じることができるのだ。闇があるから光がある。

絵を見ることで、人は、自分の暗部をも覗くことになるのではないだろうか。そしてそこを、客観的に、まじまじと認める。怖い作業を知らず知らず潜在意識の中でしているのかもしれない。それを顕在意識では、美しいと感じるのだとしたら。そこに新しい光が、あなたに差し込む。
ぜひ、そんな気持ちで、美術館に、光と闇を見つけに、足を運んでいただけたら。

「テート美術館展 光 — ターナー、印象派から現代へ」展示風景
ゲルハルト・リヒター 《アブストラクト・ぺインティング(726)》(1990年)の前で
© Gerhard Richter 2023

テート美術館展 光 ― ターナー、印象派から現代へ

会期|2023年7月12日(水)- 10月2日(月)
会場|国立新美術館 企画展示室2E
開館時間|10:00-18:00[金・土曜日、9/25(月),27(水),28(木)・10/1(日)は10:00-20:00]入館は閉館の30分前まで
休館日|火曜日
お問い合わせ|050-5541-8600 (ハローダイヤル)

 

■巡回展
大阪中之島美術館 2023年10月26日(木)-2024年1月14日(日)

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編集者

岡本 仁