美術史の豊かな知識を土台にして、当代一の画力を武器にどこにもない絵を生み出す。そんな人気画家、山口晃ガハクは夫婦揃って食いしん坊。日常で、旅で、制作中の日々で、散歩の途中で何を食べてるの? ガハクが日常を描くコミックエッセイ『すゞしろ日記』に「カミさん」として登場するガハク妻による食事帖。 ガハク家恒例イタリア旅行。大混雑でヘトヘト、フルコースという名の給食、やれやれ。しかし最後にささやかなサプライズ。

絵/山口晃




「たまにはローマに行ってみようか?」
2017年の夏、ふとそう思いたち、私は山口ヒゲ画伯こと夫(以下ガハク)に提案した。
リサーチと称して毎度のように出かけていたヴェネチア・ビエンナーレ。それを見た後は現代美術から離れ、列車にてフィレンツェを経由してコルトーナという中世の城郭都市に立ち寄るのが定番になっていた。
コルトーナにはガハクお気に入りのフラ・アンジェリコの作品があるからなのだが、最終目的は地元某レストランのポルチーニ(きのこ)のパスタである。わざわざ旅程に組み込ませるほどの威力のあるこのパスタについては、いずれ語ることになるだろう。

さて、コルトーナに行く際はフィレンツェからローマ行きのローカル線に乗車する。2等車のみの少々年季の入った車両にコトコトと揺られていると、列車の終着駅が本当にかのローマなのか信じがたく思われた。そして路線中間地点のコルトーナで下車し、またフィレンツェへと戻るのが常だった。
今回はついにその先、憧れのような響きを持っていたローマへ行ってみようと決心したわけである。
「そうだね。ヴァチカン美術館があるし、久々に古い遺跡も見たいな」
ガハクは20年くらい前のイタリア一人旅にて行ったきりだとのことで、再訪に乗り気となった。

夏のローマは世界各国から観光客が押し寄せていた。
例えば、ザ・観光スポット「トレヴィの泉」は、半径20m以内は花火大会の会場のように人がぎっしりで近寄れないといった具合で、白くそびえた彫刻だけを眺めて(水の部分は見えない)、わたしたちは早々に退散。
また、ローマ遺跡のフォロ・ロマーノも、ガハクの記憶では「街外れのさびしく閑散としたところ」だったそうなのだが・・・。
「人がいっぱい!」
炎天下、多くの現代人が歩き回る中で、古代の栄華に思いを馳せることになった。

観光にはローマパスという、指定の遺跡や美術館に無料や優待で入場できて市内交通機関がフリーとなるカードを入手し、活用した。チケット購入のための長蛇の列を横目に即入場できたことは、超絶に便利でありがたかった。しかしヴァチカンは独立国家、ローマ市ではないので対象外となる。
尋常でない観光客の多さからヴァチカン美術館行きにも対策が必要! と、急いでウェブサイトを開いたところ、当たり前なのだが滞在中すべての時間枠は埋まっていた。

「なんで日本で予約しておかなかったのーー?」
ガハクがすっかり落胆し、やり場のない思いの矛先を旅行代理店であるわたしに向けてきそうになるが、
「いやいやちょっと待って」
幸いにも、朝食やランチ付きという、そんな特典は必要なのだろうか? という割高なチケットは残っており、プラス約19ユーロのランチ付きを予約することができた。結構いいお値段だが仕方ない。ちなみに手元に残っている入館半券の金額は16ユーロで、さらに予約手数料(当時4ユーロ)も別途必要だった。
ホテルでプリントアウトしてもらった予約券にはFull Italian Menuと記載されており、パスタ、メイン、副菜、デザート、パン、水、コーヒーが提供されるとのこと。ずいぶん素敵な説明だけれど、美術館でのんびりフルコースとは想像しがたく、ここは変に期待しないほうが賢明であろう。ガハクにも「ランチはワンプレートではないみたいだよー」と軽く伝えておいたが、美術館に入場できるという最優先事項がクリアされたため、本件に関しては気のない生返事だけがかえってきた。

予約日の午前10時半頃、本気の観光としてはやや気合の入っていない時間帯にヴァチカン美術館に近づくと、建物の角を曲がった先までゆうに100メートルになるだろうか、当日券購入の長い列が出来ていて、本当に皆入場できるのかと心配になる。事前に予約しておいて、空きがあって、本当によかった。行列の脇を抜け、ストレスなく予約用レーンをすいすいと進み、入館後窓口にて無事チケットやバウチャーを受け取り安堵したのもつかの間・・・。
「う・・・わ」
ヴァチカン美術館の目玉、システィーナ礼拝堂に向かう順路は大量の人、人、人で、混雑率180%の満員電車状態。

団体ツアーも多数来ているようで、先導するガイドたちが各々目印に長い棒を持ち、その先にくっつけられた小さな旗やいかにも間に合わせのハンカチやら果てはぬいぐるみなどがあちこちで10個以上、空中にゆらゆらと揺れている。
人混みをかき分けながら進むのはずいぶんと難儀で、なるべく人にぶつからないよう一瞬たりとも気が抜けない。たぶん壁には何らかの展示物が掛かっていたはずだが、そこに注意を向ける余裕はなかった。
ようやくたどり着いた礼拝堂でも、「(真下では)立ち止まらないように」と係員がテープレコーダーのごとく定期的に注意を促しており、天井や壁をゆっくり鑑賞するどころではない。少し脇に寄れば佇んでいても問題ないようで、そこから遠目に絵を見やるが、ぎっちりと描き込まれた西洋の絵画は要素が多すぎていつしか意識もぼんやりしてしまい、つい休憩状態に。

さすがガハクは熱心に天井画を見上げて何やらひとりでうなずいている。
「フレスコで描かれているのは知ってるよね? 天井に・・・どんなに大変だったか。もう苦しくなる。涙なくして見られない」
・・・ミケランジェロに激しく感情移入していた。
(フレスコは簡単にいうと壁に漆喰を塗り、それが乾く前に水で溶いた顔料を塗る技法。1日に描ける範囲を計算して進める必要があり、建物に直接描くので動かせず、修正もきかないのです)

フレスコ画は少ない色数で描かれていたことの説明のために、3色(赤、黄、青)だけで球体を描くガハク

フレスコ画を移動させるときの剥ぎ取り方、ストラッポ法をガハクが実演。麻布の代わりにセロテープで写し取ってみる

「もうこんな時間!」
ランチは予約した時間帯に指定のレストランに行かないと取り消されてしまうそうなので、それに間に合うよう移動を開始する。システィーナ礼拝堂からの帰路ルートは先程に比べるとそこまでの大混雑もなく、後で見るべき展示物に目星をつけながら、時間通りに目的の場所へと到着することができた。

さて、レストラン・・・とは、やはりカフェテリアのような非常に簡素なところ。共同で使う長いテーブルがいくつか配置されていて、お昼時なのでほぼ満席だ。
サンドイッチ、ピザ、サラダなど5つくらいの各種専門店舗が並んでいて、バウチャーで指定されているのは、そのうちのパスタや肉料理という重たいメニューを提供するコーナーだった。同じ境遇とみられる4〜5組の人々が券を手に列を作っていて、どことはなしに配給感がただよう。

ここにてパスタ(2種から選ぶ)、メインの肉(2種から選ぶ)、副菜(メインの付け合わせとして一緒に皿に盛られる)、パン(ビニール袋に入っている)、デザート(ヨーグルト、果物、お菓子から選ぶ)、水(ペットボトル)を受け取る仕組みで、確かにフルコースではある。
結果わたしたちの昼食は下記のようになった。

ガハク:
パスタは4cmくらいの大きいマカロニで、緑のソース(ジェノヴェーゼか?)、オリーブがごろごろと入っている。
メインには外側がカリッと焼かれた豚肉(ただし、冷たい)、副菜として乱切りジャガイモソテーと緑色の野菜煮込み(ほうれんそう?)が紙皿に添えられた。
デザートはティラミスを。

わたし:
パスタはガハクと一緒。(もう一種はペンネ? 選ばなかったところをみると魅力的でなかったと思われる)
肉料理は焼いたチキンの薄切り、付け合わせはガハクと同じ内容。 
青リンゴをデザートに選び、食べずに持ち帰る。(ほかにはバナナがあったような)

字面でみるとそんなに悪くないように感じられるが、コースというよりは給食に近く、なにより量がとても多かった。
昼から共に大盛りのパスタおよび肉と付け合わせ、さらにパンが追い打ちをかける。まずこの見た目のボリューム感には、これから大食い大会の開始か? と身構えさせられた。
日本人でなくともそう感じるようで、列の前方で国籍は不明だが茶色い髪色をした男女二人連れが「こんなにたくさん必要ないから一皿分あちらのコーナーのサラダと取り替えることは可能か?」と交渉をしていた。(確か結果はダメだったはず。OKであればわたしたちもマネをしたので)
食べ始めてみるとやはり大味である。肉料理に気前よく山盛りに添えられた付け合わせは、ジャガイモはまだいいとして、ぐじゅぐじゅした野菜の方は素材の味がしない。パスタはオリーブからの塩気が出てしまったのかしょっぱ過ぎ(なので緑のソースが本当にジェノヴェーゼか判別できない状態)、パサパサとした肉のメインディッシュはこれといった特徴もなくて、全てなかなかのどを通っていかない。
味の不備は量でカバーするという仕組みなのか。いくら食べてもなくならない状態は不思議なポケットの中のビスケット。
食べ物を粗末にしたくないガハクは食べられるところまで頑張っていたようだが、わたしは罪悪感を感じるほどの量を残してしまった。

そういえばコーヒー・・・もあるはずだけれども、誰も受け取っていない。コーヒーマシン自体が見当たらないような。でももう聞くのも面倒だし、なくてもいいか、と心のなかで独りつぶやく。ガハクにもらしたら「聞くのはタダなんだから言葉惜しみせず確認してきて!」と旅行時の英語係であるわたしに指示してくることは目に見えている。
話がすんなり通じなくて困った顔をされたり、たらい回しになったりすることを想像するだけでげんなりし、対応する気力が今はなかった。
すると、誰かが「コーヒーはどこでもらえるのですか」と言っている声が耳に入ってきたではないか。
そのやりとりはガハクには聞こえていないようだ。
ふむふむ、レシートかと思っていた小さな紙片がコーヒーの引換券であり、となりのカフェにて受け取れるとのこと。さらには時間はいつでもいい、らしい。
わたしは妙なところで運が強いようで、ひょんなところで助け舟に遭遇した。

「そろそろ行こうか」
食休みの済んだガハクが立ち上がる。午前中はシスティーナ礼拝堂に行っただけで終わってしまった。まだまだ見どころはたくさんある。
おなかがいっぱいすぎてこれ以上何も飲めそうにないし、見学が優先、とわたしはコーヒーについては黙ったままで、館内地図を見ながらガハクと展示室へと移動した。

絵画館、ラファエロの間も訪れ、ラオコーン像も見たはず。意外な所でエジプト美術も揃っていた。
ヴァチカン美術館は想像していたよりずっと広大で、主要箇所と思われるところを回るだけでもずいぶんかかった。時間の経過とともに人の混雑は徐々におさまっていったものの、わたしたちの気力体力はどんどん減少していった。
一通り見終えたときには16時をまわっていたのではないか。
私はこれ以上は歩けないといった調子で言った。
「疲れたからカフェで休んでから帰ろうよ」
もちろんガハクに異存はない。
「実はね・・・コーヒー券があるんだ」
わたしは2枚の白い紙切れを蝶々のごとくひらひらとさせてみせた。
「なにそれ!」
ガハクは魔法のように出てきたチケットを、夜のフクロウのように目を丸くして凝視した。
わたしは、ランチに付随していたコーヒーの引き換え方法を知ったことや、最後にこうしてサプライズにしたことを、やや得意げに説明した。

「しっかりしてますね。おかげさまで一服できます」
プラスチックカップに入ったカフェ・マッキャートをすすりながら、ガハクが少しあきれながら感謝してくれる。
この時分、お客はまばらで、立ち飲み用とイス席用と高さが2種ある木目調の丸いテーブルが配置されたカフェには、ゆったりした雰囲気がただよっている。カウンターのバリスタも片付けモードに入りつつにこやかだった。
美術作品もたくさん鑑賞したけれど、そういえば人をかき分けてばかりいた・・・と、朝からの出来事をぼんやりと振り返る。
こうしてコーヒーを飲んでくつろいでいると、今日いちばん充実してぜいたくな気持ちになっているのはこの瞬間なのではないかと思われた。
必死になって見たはずの天井のフレスコ画の記憶がもはや遠のいていく。

ガハク曰く「筆が走っていてカッコいい」当時のカミさんのメモ。 絵/梅村由美

■次回「ヒゲのガハクごはん帖」は9月第3週に公開予定です。

●山口晃さんってどんな画家?
1969年東京都生まれ、群馬県桐生市に育つ。96年東京藝術大学大学院美術研究科絵画専攻(油画)修士課程修了。 2013年『ヘンな日本美術史』(祥伝社)で第12回小林秀雄賞受賞。
日本の伝統的絵画の様式を踏まえ、油絵で描く作風が特徴。都市鳥瞰図・合戦図などの絵画のみならず立体、漫画、インスタレーションなど表現方法は多岐にわたる。
主な個展に、2015年「山口晃展 前に下がる下を仰ぐ」(水戸芸術館現代美術ギャラリー、茨城)、18 年「Resonating Surfaces」(大和日英基金ジャパンハウスギャラリー、ロンドン)など国内外展示多数。
2019年 NHK大河ドラマ「いだてん 〜東京オリムピック噺〜」のオープニングタイトルバック画を担当し、22年善光寺(長野)へ《善光寺御開帳遠景圖》を奉納する。
2023年9月9日よりアーティゾン美術館にて個展
「ジャム・セッション 石橋財団コレクション × 山口晃 ここへきて やむに止まれぬ サンサシオン」を開催。

山口晃《日本橋南詰盛況乃圖》(部分)2021-2023年 作家蔵 ©YAMAGUCHI Akira, Courtesy of Mizuma Art Gallery 「ジャム・セッション 石橋財団コレクション × 山口晃 ここへきて やむに止まれぬ サンサシオン」出品作品

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エッセイスト、クリエイティブ・ディレクター

松浦弥太郎