野又穫 《世界の外に立つ世界 1》 1993年 東京オペラシティ アートギャラリー蔵 photo: 髙橋健治

絵の中にしかない建築。空想上の構築物。観念の光景。野又穫の大規模個展が東京オペラシティ アートギャラリーで開催中だ。静謐で禁欲的な風景を生み出すこの画家について、より深く知りたいと考えた。
当代、実力、人気とも最高峰のグラフィックデザイナー佐藤卓は野又と予備校、大学を過ごした仲間であり、ともに音楽を愛する長年の友人である。佐藤に綴ってもらった「僕が知っている野又穫、あるいは野又穫はなぜあの絵が描けるのか」。

野又穫は、予備校時代からの友人だ。美術大学の入試は、一般大学とは異なり実技試験があるので入学を希望する場合、専門の予備校に通うのが通例になっている。そこで野又穫と出会った。まだみんな自分の将来像などを描けないどころか目の前の受験のことしか頭になく、あまり先のことは考えていなかった時代だったように思う。あれから半世紀ほどが経ち、お互い「ノマタ」「タク」と呼び合ってきた仲なので、ここでも敬称は省略させていただく。
野又の画業についての評論は専門家にお任せするとして、私が野又穫像を語れるとすれば、17歳で出会ってから、まだまだ画家になるとは本人も思っていなかったであろう時代の彼の感性から、作品を読み解くことだろう。

東京藝術大学卒業式[左から野又穫、藤幡正樹、佐藤卓]、1979年  Photo courtesy of Nomata Works & Studio

予備校では石膏デッサンを共にし、平面構成・立体構成など、受験のための演習とはいえ、創造のための基礎を学ぶことになった。当時受験生だった我々は、受験のための準備をカリキュラムに沿ってこなしていたわけだが、その後の大学生活でここまで基礎的な実習に集中する時間がなかったことを思えば、予備校での経験がアート、デザインを問わずまさに基礎を習得する貴重な時間だったと言える。その中でも特にデッサンの時間は、自分を追い込む人生最初の時間になった。いざ石膏像を描くとなると、目に見えていると思っていた対象が、実は見えていなかったことに気づく。するとそもそも“見る”とはいったいどういうことなのかを考えることになる。蛍光灯の照明に加え、やや自然光が入る部屋は、刻々と光が変化する。空間の中で変化して見える石膏像を、どうやって動かない平面に定着させるのか。やや大げさではあるが、認知科学、芸術心理学、解剖学、構造学、深く入れば哲学などの入り口に立たされるのだ。言い方を変えれば、それが試されるような時間だったのだと思う。目的は大学受験に合格することだが、それだけのために通っている学生もいれば、それをきっかけに自分一人で自分を追い込む最も重要な基礎を身につけてしまう者もいるということだ。もちろん野又もそのうちの1人として、それが先々の生き方や思考に大きく影響しているように思う。

野又穫 《静かな庭園 25》 1986年  作家蔵

野又穫 《永遠の風景 24》 1988年 東京オペラシティ アートギャラリー蔵  photo: 早川宏一

私も小さな頃から絵を描くのが好きだったわけでこの道に入ったが、野又自身もここで“描く”とはどういうことか。“見る”とはどういうことか。好きを超えて、描くことに深く向き合う時間が初めておとずれたに違いない。
現役の時は高校の授業が終わって夕方から予備校に向かうため、夜間のクラスに入ることになる。ゆえに野又とは高校3年の夜間から一緒になり、さらに一年同じ予備校で共に浪人生として過ごした後、東京藝術大学のデザイン科に入った。

野又穫 《境景 10》 1992年 東京オペラシティ アートギャラリー蔵 photo: 早川宏一

予備校時代から野又はよくLPレコードが入ったビニール袋を小脇に抱えていた。この度の展覧会カタログに寄せているジョセフ・コンスタブル氏の文を拝読すると、野又の絵画の出発点のひとつにブライアン・イーノ、エリック・サティの環境音楽があると記されているが、当時の野又の嗜好はかなりロックに傾倒していたように記憶している。ネット環境どころかコンピューターすらも身近にはない時代だったので、情報源は数少ない音楽雑誌やレコード店である。渋谷・南青山・目黒・新宿・吉祥寺などのレコード店に行ってはLPレコードを漁って、知らないバンドのLPをジャケ買いしたりする。ジャケ買いとは、まだ音も聴いていないのにジャケットのビジュアルに惚れて購入してしまうことを言う。音楽が好きな若者にとって、そのくらい30センチ正方形のジャケットビジュアルの影響力は大きかった。私も彼ほどではなかったが、ロックを積極的に聴いていたので、知らず知らずのうちにお互い話をするようになった。そして野又は当時の音楽事情を圧倒的に詳しく知っていた。どこから情報を仕入れていたのかはわからないが、特にアメリカ西海岸あたりのロックに関わる裏情報に詳しかった。予備校で石膏デッサンに集中し、家に帰るとロックに聴き入る。野又が音からの影響を大きく受けながら、描写力を身につけ始めた時期である。

野又穫 《世界の外に立つ世界 2》 1993年  作家蔵 photo: 古熊美帆 [右は部分]

そして幼少期に遡ると、その背景がまた今に繋がる。家の隣の銭湯の煙突。通学途中に見える給水塔などを好きで見ていたようだ。煙突も給水塔も人に見せるための形ではない。構造的で必然の形に野又は小さな頃から惹かれていた。我々は、小学生の頃から高度経済成長の波に乗って育ってきた世代である。資本主義社会のもとであらゆる物事が形を成し、生活が経済の流れに飲み込まれていった。そんな中、人に見せるための形ではなく、売るための形ではないものに野又は本能的に惹かれていた。これは同じ時代の私にも同じ感覚が宿っていて、経済効率最優先の資本主義社会の中で、必然の形・機能を極めた形に自然と信頼感を覚えるようになるのである。つまりこれらは信用できるものなのだ。

7歳の野又穫。1963年「二子玉川園 春の航空博」にて、陸上自衛隊パイパーL-21 の前で Photo courtesy of Nomata Works & Studio

そして野又を語る時に忘れてはならないのは、異常なまでの繊細な神経である。これは昔本人から聞いた話だが、ある時自宅に帰ったら変な匂いがすることに野又が気づいた。その匂いが気になり部屋のありとあらゆる物の匂いを嗅いで回り辿り着いたのが、なんと窓枠のアルミサッシだったそうだ。アルミサッシから匂いを感じることはふつうないので、かなり微妙な匂いを感知したのだろう。この話を聞いた時は部屋を嗅ぎ回る野又の姿を想像して大笑いしたが、ここでもわかるように、野又には通常の解像度ではない繊細な神経がある上に、興味がわくとその理を徹底的に追求しないと気がすまない体質がある。生家が営んでいた染め物業に独特の色や匂いがあり、そんな環境で野又の類稀なる繊細な感覚が小さな頃から養われたことは、想像に難くない。

野又穫 《Continuum-1》 2023年 作家蔵 photo: 古熊美帆

今回の展覧会では、初期の頃からの作品が一堂に並んだ。東日本大震災直後に描かれた絵からは、突然窓などのディテイルが消えた。生理的に筆が動かなかったのか。それでも野又は描くことをやめなかった。ここからも野又の繊細な神経と壁を乗り越えようとする強い精神力がうかがえる。そして初期の頃から順を追って観ていくと、想像上の建築とはいえ、どんどん緻密さが増していることがよくわかる。静かな世界を描きながらこの執拗に自分を追い込む精神性は、まるで修行のようであり、今回の展示を拝見して西洋絵画とは違う日本的な何かがそこに宿っているように改めて感じた。西洋の文化に大きな影響を受けてきても尚、野又の絵から滲み出る日本的なものが何なのか。それを考えながらこれから描く野又の絵を鑑賞するのが、また楽しみである。

「野又 穫 Continuum 想像の語彙」会場にて、野又穫 photo: 鈴木芳雄

野又 穫 Continuum 想像の語彙

会期|2023年7月6日(木) – 9月24日(日)
会場|東京オペラシティ アートギャラリー
開館時間|11:00 – 19:00[入場は18:30まで]
休館日|月曜日[祝日の場合翌火曜日]、8月6日
お問い合わせ|050-5541-8600 (ハローダイヤル)

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アートプロデューサー
RealTokyo ディレクター

住吉智恵