
左|フェルナン・レジェ 《抽象的コンポジション》 1919年 石橋財団アーティゾン美術館蔵
右|ロベール・ドローネー 《リズム螺旋》 1935年 東京国立近代美術館蔵
東京・京橋のアーティゾン美術館で、全館すべての展示室を使った大規模な展覧会「ABSTRACTION 抽象絵画の覚醒と展開 セザンヌ、フォーヴィスム、キュビスムから現代へ」が開催されている。 20世紀美術のもっとも重要なムーヴメントのひとつである抽象絵画の歴史を、その発生から1960年代に至る展開に沿って、約 250点の作品で一挙に展観する本展。 セザンヌを筆頭とする印象派を抽象絵画の起源ととらえ、フランスを中心とするヨーロッパ、アメリカ、そして日本のアーティストによる作品を通して、その壮大なコンテクストを紐解こうとする。 12のセクションにわたる本展について、いくつかのセクションの芸術運動にとりわけ関心やゆかりの深い画家や編集者に語っていただいた。 抽象絵画とは、どのような手法や芸術運動に影響を受けて誕生し、また、後世の芸術家たちにどんな影響を与えたのか。
抽象芸術のはじまりはセザンヌ?!
まず、セクション1「抽象芸術の源泉」の導入となる作品は、同館が「抽象の祖」と目するセザンヌの《サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール》(1904-06年頃)だ。マネ、モネなどの印象派、セザンヌとほぼ同時代のゴッホやゴーガン、ルドンの作品も並ぶ。
視覚に映る光と色の様相を感覚でとらえ、独自の表現形式で再現しようと試みたセザンヌらの奮闘について、手練れの画家であり、唯一無二のユニークな美術史観を表明する現代美術家・会田誠はこのように綴ってくれた。

セクション1 展示室にて
ポール・セザンヌ 《サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール》 1904-06年頃 石橋財団アーティゾン美術館蔵

クロード・モネ 《黄昏、ヴェネツィア》 1908年頃 石橋財団アーティゾン美術館蔵
セクション1、特にセザンヌについてコメントを求められたので、変なものになりそうだけど書いてみます。セザンヌの初期作品は露骨に下手クソです。例えばこんな思考実験をしてみましょうか——西洋写実油彩画の歴史的本丸を「17世紀初めのルーベンス工房」だと仮定して、生まれ持った資質をそのままに、それぞれ二百数十年前に生まれたとしたら、マネやドガは言うまでもなく、モネも、そしておそらくゴッホであってもぎりぎり、ルーベンス工房の働き手になれたでしょう。でもセザンヌだけは工房の足手まといになるだけだから、何度懇願しても門前払いされたでしょう——そういう奥深い不器用さ、自分の描き方しかできない融通の利かなさがセザンヌにはあります。サロンに落選し続けたり絵があまり売れなかったりと、人生の大半が不如意だった理由はそれでしょう。
しかし鈍臭い芋虫が華麗な蝶になるように、セザンヌはあの時代において最高品質の絵肌を作ることに、結局は成功します。この最晩年の《サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール》の輝きも本当にスゴいですよね。ほぼ同時代人であるゴッホと同じレベルで、しかし内容はかなり違う、歴史的評価におけるめくるめく敗者復活劇・下克上だったと思います。
話は飛びますが、第一次世界大戦中にニューヨークで暮らし始め、作品を次第に発表しなくなったデュシャンは、自分が蒔いた種の発芽である当地のコンセプチュアルな現代美術を、必ずしも認めていませんでした。同じように、もしセザンヌがすごく長生きして、自分に影響を受けた後輩画家たちがやっているキュビスムなどを見たら、「よしよし」と思ったでしょうか? 思わなかったんじゃないか‥‥そんな想像を僕はこの会場でしました。「確かにワシは自然を球と円筒と円錐に基づいて把握せよと語った。しかしそれをそのまんま描いてどうする!」と怒り出したりして‥‥とか。だってキュビスムって、なんか無理のある、理論で痩せ細った、失敗した美術運動じゃないですか? 僕がそう思う根拠のほとんどが、あの王者キャラのピカソが途中で飽きて、厳密な意味でのキュビスムをやめちゃった点なんですが。
なので僕は抽象画は、きっぱりと「この世にモチーフはない」と断言する、カンディンスキーあたりからの態度の方が明解で安心できますね。[会田誠]

ポール・セザンヌ 《サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール》 1904-06年頃 石橋財団アーティゾン美術館蔵

会田誠 《美術と哲学2 フランス語、ドイツ語、英語》より 2011年 ビデオ(フランス語:15分26秒) ©︎ AIDA Makoto Courtesy of Mizuma Art Gallery フランス人画家、ドイツ人画家、アメリカ人画家それぞれの抽象画家に扮し、彼らをタイポロジックに揶揄する作品。■本展には出品されていません
序曲としてのフォーヴィスムとキュビスム
続くセクション2では、マティスやドランらによるフォーヴィスムと、会田が「痩せ細った運動」と評するピカソやブラックによるキュビスムを紹介する。同館はこの2つの芸術運動を、「抽象絵画の覚醒」に先駆ける重要な分岐点ととらえる。
フォーヴィスムの展示をみると、伝統的な絵画の遠近法をほぼ無視して、奔放に躍動する色彩と造形を平面に「置いていく」手法にはたしかに抽象絵画の萌芽が見える。
一方、絵画空間を解体し再構築したキュビスムのイメージは、革新的かつ怜悧な理論に裏付けられながら、抽象表現として見ると(会田評に引っ張られたわけではないが)やや不自由さ窮屈さに縛られているようにも思える。
そこで、自身の絵画とインスタレーションにおいても、時空やスケールを自由自在に変容させてきた画家・杉戸洋に「具象と抽象のあいだ」について訊いた 。

アンドレ・ドラン 《女の頭部》 1905年頃 石橋財団アーティゾン美術館蔵【新収蔵作品】

ジャン・メッツァンジェ 《キュビスム的風景》 1911-12年 石橋財団アーティゾン美術館蔵【新収蔵作品】
抽象の原点がどこにあるかというのは、あまり意味がないというか、平面にイメージを写すときに、具象と抽象のあいだを行き来しながら、その振り子をどこで止めるかであり、それが抽象か具象かは作家にとっては関係のない事。ただそれぞれの新たな方法論を成立させるために必死にもとめて来た歴史が観て分かります。
フォーヴィスムあたりまでは、そこに夢と希望があります。その先はちょっと苦しい。絵画の逃げ道を塞がれ理屈づけが求められていく。まるで、フォーヴィスムが(放埓な)ジェリービーンズなら、キュビスムは(かっちりとした)お節料理のようですよね。[杉戸洋]
杉戸の洞察は、平面作品のみならず、展示空間のなかで絶妙なアクセントとなっている立体作品にも注がれる。
このセクションではないけれども、コールダーの《単眼鏡》については、作品のまわりを何度も回って、違う角度から眺めていた。

セクション7 展示室にて。コールダー 作品を観る杉戸
展覧会を逆戻りしながらもう一度観ていくとこのコールダーの立体は黒い鉄を素材に作っていて、展示を黒い鉄板の上のお好み焼きととらえてみると、いろいろと見えてきます。この筆づかいはマヨネーズかな、この表面の傷は鰹節、赤い絵の具は紅生姜か明太子かな。アクリル絵の具の登場で、素早く描けるようになって、色数や素材もどんどん増えてきます。カンヴァスを床に降ろして上から描く作家が現れて、まるでもんじゃですね。[杉戸洋]
「どうやって観ればいいか分からない」と難しく構えがちな抽象芸術を、シンプルな鉄板(画布)に好みの素材(色や形)を自分の手順でのっけていく「お好み焼き」に喩え、鮮やかにほぐしてくれた杉戸の思考の自由さ・柔軟さに救われる。
「様々な作家たちが並ぶなか、コールダー先生だけは力の抜けた素直な抽象に観えてしまいました」と杉戸。
さらにコールダーの「黒」を注視する一方、彼は新たに「シルバーグレー」という色の位置付けからも気づきを得た。
ポロックの作品が2点並んでいて、片方はシルバーを使っており、コールダーの黒い鉄板に傷をつけていくと銀色が出てくる様に一気に何かが変わり始めていて、馬鹿げた例えも黙らされます。シルバーグレーのトーンを基準に置き、戻りながら展示を見ていくとたとえばキュビスムでも、ブラックは白と黒のあいだに使っていなくても銀色的な空気を吹き込んでいる。
冒頭のセザンヌにも小刻みのキャベツのような銀の存在を感じるし、モネが大切にした光を反射する銀色とも循環しています。マティスもセザンヌを踏まえて、カンヴァスの余白に。抽象と具象の振り子の中心軸を片目をつぶってコールダーは観ていたのかな。[杉戸洋]

セクション2 展示室にて。ブラック作品に銀色を見つける

左|アンリ・マティス 《画室の裸婦》 1899年 石橋財団アーティゾン美術館蔵
右|アンリ・マティス 《コリウール》 1905年 石橋財団アーティゾン美術館蔵
抽象表現が欧米各地で同時多発的に発生する
セクション3「抽象絵画の覚醒」では、発生の時期と場所の異なる、多様な抽象絵画の起点が紹介される。オルフィスム、未来派、青騎士、バウハウス、デ・ステイル、アプストラクシオン゠クレアシオンなどなど、欧米各地で同時多発的に発生した抽象表現を網羅している。
色彩や線の自律的運動のコンポジションを探求したカンディンスキー。神智学、哲学、自然科学の探究を抽象絵画に展開したクプカ。科学的な色彩理論に影響を受けたドローネー。抽象化に音楽的共感覚を見てとるアポリネール。象徴主義的風景画から抽象表現に向かったモンドリアン。都市のダイナミズムや機械化のスピードを抽象的に表現した未来派。
またここでは、写真表現と自然環境に触発され、木の葉など有機物をクローズアップした神秘的・官能的イメージを抽象化したオキーフに着目していることが興味深い。

フランティセック・クプカ 《赤い背景のエチュード》 1919年頃 石橋財団アーティゾン美術館蔵【新収蔵作品】
日本にも抽象絵画の波がやってきた
セクション4「日本における抽象絵画の萌芽と展開」では、明治末から大正期、ヨーロッパへの留学などを機に、一気に西洋近代美術の潮流を浴び、それらを技術の生真面目な模倣と自己解釈による前衛表現に展開していった日本の画家を紹介する。
なかでも、岩手で電灯会社の代理店を営みながら、絵画制作に没頭したという萬鉄五郎の《もたれて立つ人》(1917年・写真右)は象徴的だ。怒涛のように流入した西洋美術の情報にインスパイアされ、キュビスム的造形の独自解釈による表現主義的抽象画を独学で確立しているのが手強い。

セクション4 展示風景。恩地孝四郎作品と萬鉄五郎作品
熱い抽象とは? 叙情的抽象とは?
セクション5では、第二次世界大戦後、力強く激しい抽象表現のうねりが世界各地で起こるなか、フランスで生まれ、「熱い抽象」「叙情的抽象」と呼ばれた抽象絵画を紹介する。
ヴォルス、デュビュッフェ、フォートリエ、マチューなどはもちろん、ザオ・ウーキーや堂本尚郎といったアジア圏から移住し、フランスで活躍した画家の作品も観ることができる。フランス抽象絵画の最先鋭であったこの潮流は日本にも紹介され、「アンフォルメル」と名付けられた。

セクション5 展示風景。フォートリエ 作品が並ぶ
ここでは、1950年代、ともに新進画家としてフランスに渡った堂本尚郎と毛利眞美のあいだに生まれ、編著『ふたりの画家、ひとつの家 毛利眞美の生涯』を出版したばかりの画家・堂本右美に話を訊く。
我が家では週末ともなると前衛芸術に関わる人々を迎えて、「堂本サロン」と私たちが呼んでいた賑やかな集まりが行われていました。お酒が進むと激論を闘わせて、ときには喧嘩になるので、母が仲立ちに入っていた記憶があります。子どもの私には禁断の世界で、翌朝父と母が起きてくる前に、アトリエで干からびた残り物をつまむのが楽しみでした。
芸術が抽象に向かっていた時代、さまざまな枠を取り去った、もっともピュアで剥き出しの「熱い抽象」をパリで仕掛けたのがミシェル・タピエでした。父・堂本尚郎はタピエと関わりが深く、日本の芸術運動「具体」を彼に紹介したことでも知られています。
とはいえ父はグループに属するのが嫌いで、パリの画家たちからも、日本のもの派や具体からも誘われましたが、一匹狼でいるのが性に合っていたようです。
ピエール・スーラージュからもグループへの誘いがあったと聞きますが、彼とはお互いに引き寄せ合うものがあり、憶測ですが相互に作品への影響もあったのではないかと思います。父は生活の端々で目に入ってきたものをパッと取り込むことが得意でした。スーラージュの絵画空間から、絵よりも遙かに美しく混ぜ合わされた絵の具の色をそのまま平面にのせる手法を参考にしたのではないでしょうか。[堂本右美]
当時、ロサンゼルスからパリに拠点を移していた画家サム・フランシスとの交友関係も始まっていた。彼の離仏後、堂本夫妻がそのアトリエを譲り受け、ふたりが同じ空間で同時に制作している写真が残っている。
1959年に撮影されたこの写真に写る堂本尚郎の作品が、今回、アーティゾン美術館の展覧会に出展されている《集中する力》(1958年)である。

堂本尚郎、毛利眞美夫妻、パリ・ティファヌ通りのアトリエにて。1959年 撮影/阿部徹雄

セクション5 展示室にて《集中する力》を観る、堂本尚郎と毛利眞美夫妻の娘で画家の堂本右美
毛利眞美の傍にある赤い裸婦像《無題》(1957年)もまた、書籍の出版を記念して京橋の南天子画廊で開かれた「毛利眞美 出版記念展」(5月22日 – 6月17日)で展示された。
一葉の写真のなかに、本書『ふたりの画家、ひとつの家』のタイトルの真意を読み解くことができる。
ふたりの画家はそれぞれ戦後の日本からフランスに留学し、ともに絵画制作を研鑽する。夫・尚郎が国際的に名声を築いていく一方で、妻・眞美は夫の成功を優先させるためと自分を納得させ、創作活動を断念する。
この写真の背後には、芸術家同士のカップルがひとつのアトリエで制作すること、そして、夫や子のケアを担う女性作家が創作活動を続けていくことの困難さが潜んでいる。
近年、カンディンスキーに先駆けて抽象絵画を生み出したといわれるヒルマ・アフ・クリントの研究が進むように、男性社会の陰で封印された女性芸術家の実績をもはや無視することはできないだろう。
毛利眞美は、最盛期に身を切るように筆を折ったが、娘・右美を見事に育て上げ、後年画業を再開し、2022年に亡くなった。右美による「母・眞美の生き方——終章にかえて」には、生来のおおらかなポジティブさと誇り高さで困難を乗り越え、充実と幸福のなかで生涯を全うした画家・毛利眞美の「アール・ド・ヴィーヴィル(人生美学)」が綴られている。
父は個展のためニューヨークに招聘され、アメリカで台頭した抽象表現主義と世界中から集まる多国籍の作家たちとの出会いから刺激を受けて、パリを離れ、独自の抽象絵画を探究するようになります。
芸術家の一族に生まれた父は、コンセプト剥き出しだけでは制作が成り立たないことや、造形的に美しいものを作ることの重要さを、育った環境を通して心得ていたと思います。
母の作品は最期まで自己表現そのものでした。男性社会で「女流」作家に求められるイメージに反して、生涯ずっと内向的でドロドロした女性の裸婦像を描き続けました。彼女の圧倒的に強い作品群は、男性ばかりの画壇からは厳しい評価を受けたようです。ひとつのテーマを深く追求するアーティストを好む、息の長いマーケットが存在するパリの方が、母には向いていたのかもしれません。[堂本右美]
美術の中心地はパリからニューヨークへ
セクション6は、「トランス・アトランティック-ピエール・マティスとその周辺」と題されている。
2度の大戦によって、前衛芸術家たちはヨーロッパからアメリカへ拠点を移し、抽象絵画を含む近現代美術の中心地はパリからニューヨークへ移る。
アンリ・マティスの息子ピエール・マティスは、自らの名を冠した画廊を開き、ヨーロッパの前衛芸術を積極的に新大陸へと伝えた。アメリカの個人コレクターと美術館のコレクション形成に大きな役割を果たした、現在のギャラリストの原型ともいえる象徴的な人物である。
このセクションでは、マティスによりアメリカに紹介されたミロやデュビュッフェらの作品のほか、彼らに先駆けて第一次世界大戦を機に大西洋を渡り、ニューヨーク・ダダを展開したマルセル・デュシャンによる持ち歩ける美術館、《マルセル・デュシャンあるいはローズ・セラヴィの、または、による(トランクの箱)シリーズB》も展示されている。
第二次世界大戦後、ヨーロッパで同時多発的に芽吹いた抽象絵画は、アメリカで興った抽象表現主義と融合し、新たな展開を見せるのである。

セクション6 展示風景。赤い壁に映えるミロ作品
会期|2023年6月3日(土) – 8月20日(日)
会場|アーティゾン美術館 6・5・4階展示室
開館時間|10:00 – 18:00[8月11日を除く金曜日は10:00 – 20:00]入館は閉館の30分前まで
休館日|月曜日[7月17日は開館]、7月18日
お問い合わせ|050-5541-8600 (ハローダイヤル)
■日時指定予約制
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