
父サム・フランシスの作品の前に立つ画家のフランシス真悟。左はクリフォード・スティル作品
東京・京橋のアーティゾン美術館で、全館すべての展示室を使った大規模な展覧会「ABSTRACTION 抽象絵画の覚醒と展開 セザンヌ、フォーヴィスム、キュビスムから現代へ」が開催されている。 20世紀美術のもっとも重要なムーヴメントのひとつである抽象絵画の歴史を、その発生から1960年代に至る展開に沿って、約 250点の作品で一挙に展観する本展。 セザンヌを筆頭とする印象派を抽象絵画の起源ととらえ、フランスを中心とするヨーロッパ、アメリカ、そして日本のアーティストによる作品を通して、その壮大なコンテクストを紐解こうとする。 12のセクションにわたる本展について、いくつかのセクションの芸術運動にとりわけ関心やゆかりの深い画家や編集者に語っていただいた。 抽象絵画とは、どのような手法や芸術運動に影響を受けて誕生し、また、後世の芸術家たちにどんな影響を与えたのか。
より強く、より大きく、より自由に
セクション7では、第二次世界大戦後、経済的にも文化的にも世界の中心となった超大国アメリカで誕生した「抽象表現主義」を紹介する。
ジャクソン・ポロック、マーク・ロスコ、クリフォード・スティル、アド・ラインハート、ジョアン・ミッチェルといった作家たちによって展開された新しい絵画の潮流は「ニューヨーク・スクール」とも呼ばれる。アメリカが初めて創造し、世界に誇ったアート・ムーヴメントであり、「強く」「大きく」「自由な」近代文明を象徴するものといえるだろう。

ジャクソン・ポロック 《無題(縦にされた台形のあるコンポジション)》 1943年頃 個人蔵
ここでは、抽象表現主義を代表する画家のひとりであるサム・フランシスを父に持ち、彼自身も才気溢れる独特の抽象表現を追求する画家・フランシス真悟に話を聞く。当時まだ少年だった彼は、世界に大輪の花を咲かせたこのムーヴメントをどのように体感し、その花粉を浴びたのだろうか。
展示作品のクオリティが素晴らしくて、びっくりしました。抽象表現主義のコンテクストを、根っこから枝葉まで、一言では表わせない広がりとして紹介しています。
なかでも、クリフォード・スティルの赤い作品はインパクトがありました。ヨーロッパで生まれた分析的な抽象表現から、アメリカ特有の芸術としてスケールを大きく変化させていく、その「ジェスチュア(身振り)」を象徴する作品です。
アメリカの自然の雄大さにも通じるような、ダイレクトで少し荒いマチエールと色によって、「じっとしていないで、感じよう」と、戦後の気分をアゲていこうとする精神がドラマティックに表現されています。
いまの時代も同じように、パンデミックで社会の繋がりが一時は分断されましたが、ようやく元に戻りつつあります。若いアーティストは真面目で慎重な人が多いけれど、もっと交流して、楽しんでいいと思います。[フランシス真悟]
彼が拠点とするカリフォルニア州では、コロナ禍で長期にわたる厳しいロックダウンが施行された。戦時下をも彷彿させる閉塞した状況を自身も体験したからこそ、戦後、父親と同時代の画家たちが表現しようとしたスケール感やダイナミズムをより切実に追体験できたのかもしれない。
父であるサム・フランシスは、カリフォルニア州出身で、第二次世界大戦下の兵役期間中の入院をきっかけに絵画に関心を持つようになり、大学で絵画と美術史を学んだ後、パリに移住している。
在学中、クリフォード・スティルに師事していて、卒業後ニューヨークへ行きたいと相談したら、『君にはニューヨークは合わない。パリ(の勢い)が戻ってきたから行きなさい』とアドバイスを受けたそうです。もしパリでなくニューヨークへ行っていたら、どんな作風になっていたんでしょうね。
父はパリに対して、マティスやゴーギャンのヴィヴィッドな色彩から先入観を持っていました。ところがカリフォルニアから移り住んでみたら、デュビュッフェやジャコメッティなど当時の作家たちの作品も、街並みや冬の空もグレーで、パリは「色のない街」だったそうです。お金がなくて絵の具をあまり買えなかったし、自分も白の濃淡でやってみようと描き始めました。そのうちに微妙なグリーンやブルーが入って、だんだんヴィヴィッドな色づかいに変わっていきます。[フランシス真悟]
(前編で登場する)堂本家のサロンにもフランシス親子はよく訪れた。(真悟少年にとって堂本右美は幼馴染のお姉さんだった) 常に芸術家や文化人たちが真剣に議論していて、お酒が入るほどにタバコの匂いがたちこめ、うるさくなっていった、と記憶しているという。
本展には、サム・フランシスが27歳の頃、パリで描いた作品《ホワイト・ペインティング》(1950年)[トップ画像右・下の画像左]が出展されている。最初期の作品でありながら、美術史に彼の名を残した記念すべき作品である。

セクション7展示風景。左はサム・フランシス作品。右はマーク・ロスコ作品
ピカソは他の作家から手法を盗むのが巧かったことで知られていますが、「(他者の創作から)何かを取り込むことはフェアプレイだ。パブリックに発表すればすぐに盗まれるから気を付けろ」と父が言っていたのを覚えています。
当時、芸術運動に参加することは、集団の強みや勢いを借りるというメリットはあったけれど、父は葛藤していました。ひとつの箱の中に収まるのは嫌だったんでしょう。
誰が見てもすぐにサム・フランシスの作品とわかる、光が入る軽やかなタッチは、パリでは「ライトハンド」と呼ばれました。アンフォルメルとも抽象表現主義とも違う自分のオリジナリティをどう出すか、ハングリー精神をもって探求していたんですね。
アンフォルメルか、抽象表現主義か。父は同時進行で起こったふたつの運動に跨る形で活動していて、どちらの影響も強かった。彼のアイデンティティは両方にあったとしか言いようがないと思います。[フランシス真悟]
日本文化との深い関わりを持ち続けたサム・フランシスは、アンフォルメルや具体といったパリと日本の美術動向を繋ぐ役割も果たした。また同時期、パリやアメリカから帰国した日本人芸術家たちが、前衛的な抽象表現の「種子」を持ち帰り、日本特有の土壌に着床させる。
世界に誇る戦後日本の抽象絵画
セクション8から10では、戦後日本の抽象表現を一気に通観することができる。
セクション8では、戦後間もなく国内外を舞台に個性的で自由闊達な芸術を展開した、山口長男、オノサト・トシノブ、草間彌生といった画家たちによる1960年代までの作品を紹介する。
続くセクション9では、近年、国際的に再評価が進む日本の芸術運動「具体美術協会」を紹介する。吉原治良、白髪一雄、田中敦子、金山明、村上三郎らの代表作が並ぶ、圧巻の空間だ。国際性を標榜しながらも、戦後日本の風土や社会環境でしか発芽し得ない独自のムーヴメントが力強く結実したことを確かに目の当たりにするだろう。
さらにセクション10 では、4F展示室の一角に設えられたガラスの展示ケースに、同時代にシュルレアリストとしても名を残した詩人・美術評論家・造形作家、瀧口修造の主導により展開した「実験工房」の抽象表現を紹介している。
ここでは、1938年からフランスに滞在してマティスの指導を受け、戦後1955年には再び渡仏を試みたが道中でニューヨークに魅了され、そのまま居着いて20年ものあいだ彼の地で創作した画家・猪熊弦一郎にフォーカスする。猪熊の活動歴に造詣の深い編集者・岡本仁が綴ってくれた。

セクション8 展示室にて、編集者の岡本仁。手前が猪熊作品
2021年に〈丸亀市猪熊弦一郎現代美術館〉で開催された『いのくまさんとニューヨーク散歩』という展覧会の企画・監修を、友人の河内タカさんと担当する機会があった。1955年にニューヨークに渡り、20年間を当地で過ごして絵を描き続けた猪熊が、ニューヨークの何に惹かれたのかを探るというのが、展示のテーマだ。その際に猪熊弦一郎がニューヨークで個展を開くまでの経緯を、日記などの資料から追った。ぼくはそれまで、猪熊はパリに行く途中、吉村順三の薦めに従ってニューヨークに寄ったのだと理解していたが、彼はアメリカに到着後に展覧会を開くつもりだったが、到着後に自分の絵が「弱く小さく、且つきめが細かすぎる」と思い、日本から送った絵の到着が遅れたこともあって、新たに描いた新作をふたつの画廊に見せたようだった。ウィラード・ギャラリーとベティー・パーソンズ・ギャラリー。ベティーを猪熊に紹介したのは、東京美術学校(現・東京藝大)西洋画科の同級生だった岡田謙三だったそうだ。彼は1950年に渡米し53年にベティー・パーソンズ・ギャラリーで個展を既に開いていた。猪熊は悩んだ末、1956年4月にウィラード・ギャラリーで最初の個展を開催する。
第二次大戦を挟んで、芸術の都はパリからニューヨークに遷都したようだ。岡田も猪熊も戦前にパリに渡っているが、1950年代には抽象表現主義が展開するニューヨークを目指す。川端実も戦前にパリに渡っている。そして1958年には渡米、1960年にベティー・パーソンズ・ギャラリーで初個展を開催する。ちなみに彼の祖父は川端玉章で、岡田は玉章の川端画学校に通っていた。川端実をベティー・パーソンズに紹介したのも岡田であったろう。
ぼくは1950年代に日本からニューヨークに渡った作家たちの作品が好きだ。最初は川端実だった。川端はぼくが敬愛する人物の絵の先生だった。その人から「ブリヂストン美術館(アーティゾン美術館の前身)に川端の絵がありますよ」と教えてもらったことが、彼らの作品を愛する、そしてアーティゾンへ通うようになったきっかけなのである。[岡本仁]

川端作品を観る岡本。セクション8 展示室にて

セクション9「具体美術協会」展示室にて。右は田中敦子作品

セクション10「瀧口修造と実験工房」
福島秀子 《MP》1950年 石橋財団アーティゾン美術館蔵(寄託作品)@Kazuo Fukushima
「幾何学的ではないし、何かを表現しようとしたことはない」
セクション11では、戦後パリのアンフォルメル=「熱い抽象」を代表するアーティストであり、石橋財団コレクションと強い結びつきを持つ3名の作家、アンス・アルトゥング、ピエール・スーラージュ、ザオ・ウーキーに光を当て、巨匠たちの抽象表現が発展を遂げたその成果を紹介する。
ドイツ出身でありながら戦時下ではフランス外人部隊に参加し、生涯にわたりフランスを拠点に、多彩な手法のダイナミックな大型絵画を発表し続けたアルトゥング。
杭州で教鞭をとりながらも、フランス近代絵画への憧憬を募らせて渡仏し、書や水墨画など東洋的な造形を感じさせる深奥な絵画でパリ画壇に立場を築いたウーキー。
故郷のフランス中南部でケルトやロマネスクの遺跡に刻まれた抽象記号に惹かれ、光を反射する黒の色彩と、独特の筆触やテクスチュアを追求したスーラージュ。
展示室のモニターで上映されている晩年のスーラージュへのインタビュー映像が興味深い。
アンフォルメルと抽象表現主義の立ち位置から自らが一線を引き、自身の創作について「幾何学的ではないし、何かを表現しようとしたことはない」と語る。戦後から現代に至るまで、「抽象」といえばカラーフィールド・ペインティングやアクション・ペインティングといったニューヨーク・スクールの大型絵画に集約されてしまう偏見をバッサリ斬る、痛快なひと言だ。
さらにスーラージュは、絵画のリアリティを成立させるのは、「画家」「絵画という〈もの〉」「〈もの〉を見てそこに意味を見出す人」、この三者の関係性であると論じる。絵画の現実とは「見る人が絵画を変える」ことにあるというのだ。
スーラージュ伯父貴が展開する明快かつ普遍性を持つ絵画論は、(前編で)杉戸洋が展示作品をお好み焼きになぞらえたように、一見「見る人」を突き放すかのように思える抽象絵画の仕組みを、明晰かつ軽快に解きほぐしてくれる。しかも、抽象絵画だけでなく、あらゆる芸術表現に通ずる視点といえるのではないだろうか。

「ピエール・スーラージュへの6つの質問 2011年3月23日、画家のアトリエ(パリ)にて」を見る画家・杉戸洋[このコラムの前編に登場]
新たな方法論をどう成立させるか——現代の作家たち
セクション12で、抽象絵画の枠に収まらないアプローチを見せる現代作家7名の展示も、このやり方で見てみるとストンと腑に落ちる。
リタ・アッカーマン、鍵岡リグレ アンヌ、婁正綱、津上みゆき、柴田敏雄、髙畠依子、横溝美由紀。
現代作家ならではの、手法も素材も複雑かつ多岐にわたる彼らの作品は、いずれも独自の「抽象性」を持っているが、「抽象絵画」を目指してはいない。
(前編で)杉戸が語ったように、「平面にイメージを写すときに、具象と抽象のあいだを行き来しながら、その振り子をどこで止めるか」。本質はそこにあるのかもしれない。近現代美術史は、そこに名を残したあらゆる作家たちが、自分の振り子の中心軸を定めようと懸命に追い求めてきた軌跡である。
あらためて抽象絵画のたどってきた道のりを眺めれば、それぞれの時代、画家の鮮烈な発見が「見る人」を動かし、作品を成立させる「存在意義」を出現させてきたことが理解できるのだ。

セクション12 展示室にて
髙畠依子 《CAVE》2023年 作家蔵
会期|2023年6月3日(土) – 8月20日(日)
会場|アーティゾン美術館 6・5・4階展示室
開館時間|10:00 – 18:00[8月11日を除く金曜日は10:00 – 20:00]入館は閉館の30分前まで
休館日|月曜日[7月17日は開館]、7月18日
お問い合わせ|050-5541-8600 (ハローダイヤル)
■日時指定予約制
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