アンリ・マティス 《座るバラ色の裸婦》 1935-36年 ポンピドゥー・センター/国立近代美術館蔵

現在、上野の東京都美術館で、日本では約20年ぶりとなる「マティス展」が開催されている。本展は、世界最大規模のマティス・コレクションを擁するフランスのポンピドゥー・センター/国立近代美術館の所蔵作品を中心に約150点で構成され、20世紀美術を代表する画家アンリ・マティス(1869-1954)が生涯を通じて探求した造形的な冒険が多彩な作品を通して辿られる。

昨年、国立西洋美術館での「ピカソとその時代 ベルリン国立ベルクグリューン美術館展」の際にも、ピカソと比較しながら、マティス作品について語っていた杉戸さん。今回、出品作すべてがマティス作品、そしてフォーヴィスムの時代から最晩年の切り紙絵まで、各時代の代表作が結集している本展を機に、画家である杉戸さんは何を思ったのか——偶然訪れたばかりだったという南仏での記憶とともにマティスを語る。

(ちなみに杉戸さんは今回のマティス展を、時代を追って最初からではなく、「最後から逆順で見た方が新たな発見があるのかなと思って」と、最終章「ヴァンス・ロザリオ礼拝堂」からスタート)

聞き手・文=水田有子[東京都現代美術館 学芸員]




——はじめに、展覧会の最後で上映されているヴァンスのロザリオ礼拝堂の映像を、通しでゆっくり見ていましたね。

じつは先週、アルルでグループ展の搬入があって、ついでに南フランス、プロヴァンス地方を車で回ってきたんです。そのときロザリオ礼拝堂にも行ったんだけど、ちょうど改装中で…しかも行ったのは真夜中(笑)。光があるときに中に入ったらこうだったんだなと思いながら見ていました。

Photo/ Hiroshi Sugito

——展覧会を2往復するなかで、最初の方はドローイング、最後の方は彫刻をじっくり見られていたように思います。今回は、初期の絵画から、最晩年の切り紙絵やヴァンスの礼拝堂までを通して展覧するマティスの回顧展でしたが、どんなことを思って見ていたのか、特に印象に残っている作品などもあわせて聞かせてください。

今回、立体が面白かったですね。描き潰して苦戦している絵っていうのも、1章と2章の彫刻の近くに集まっていて、立体物をぐるぐる360度回るように観ながら、まわりの絵画、クロッキーやデッサンと重ねて眺めていくと、マティスが求めていた線や空間のことがよく理解できました。

《マドレーヌⅡ》1903年 とか、この辺りの彫刻に現れる、稲妻やスパイラル、ちょっと絞って捻ったような形。立体物の土台や根元の部分を眺めていると、フォルムとバランスを探りつつ、特に神経を使って、平面に置き換えるときの確認もしているのがピリピリと伝わってくる。

そのフロアの最後にあった4点のレリーフでは、時間をかけて、半立体的に抽象化しながら、ほぐしていくというか、制作過程における節目に同じモチーフを用いて自己確認しているようで……例えると、リンゴを刻みながらも、実はリンゴとしての元の形を探し続けているみたいな感じかな。最後の《背中IV》(1930年/下の作品画像右端)は、まるで千個のリンゴを縦に切り込みながら縦に1回、半分に割るだけで済む理想のリンゴの形を見つけたみたい。

それとも、一からやり直す為に戻している行為なのか。このレリーフが作られた期間の絵画作品の展示を、縦軸の事だけを意識してもう一度見直させられました。

マティス展 展示風景

——《マドレーヌⅡ》などの彫刻が展示されていた少し後、《コリウールのフランス窓》1914年、《アトリエの画家》1916-17年《窓辺のヴァイオリン奏者》1918年 など、第一次世界大戦のころの絵画を見て、「やっぱりピカソの黒と全然違う」というお話もされていましたね。

前回、国立西洋美術館での「ピカソとその時代 ベルリン国立ベルクグリューン美術館展」を見て、ピカソの黒の使い方が面白かったので、マティスはどうなっているかなと思いながら見ていました。
ピカソは、黒い線で絵をまとめるというか、仕留めるというか、確実に絵を支配するマッチョさが心地よい。マティスも、黒い線で形を引き出すのだけど、逆に絵の空間全体をほぐしているように見えて、狩りの譬えでいうと、ピカソみたいに「槍で仕留める」のではなくて、「網でそっと捕まえる」感じの黒なのかな。

マティス展 展示風景

そういえば最初に話した今アルルでやっているグループ展では、1920年代当時、西洋画を学ぶためにフランスに渡った画家の一人、児島善三郎*の絵も展示したんです。かつて南フランスの地で描かれた絵を、100年経っても当時とほぼ変わらない中世の街並みを残す光り鮮やかな環境で観るのは、画家と同じ時空にいるようで感動的でした。

*児島善三郎(1893 – 1962)
福岡市に生まれる。県立中学修猷館卒業後上京し一時、本郷洋画研究所で研鑽を積む。大正10年二科展に初入選し、翌年二科賞を受賞。同14年渡仏し、昭和3年に帰国。西洋の模倣ではない日本人の油絵を目指し、南画や琳派の作風を取り込んだ装飾性の高い独自の絵画を確立した。

でも、曇りの日にプロヴァンス地方の空を眺めていると、日本の田園風景とそれほど変わらない気もして、小倉遊亀とか前田青邨といった戦前の日本画家の絵が無性に見たくなった。マティスの線を見ていると、日本画の大下図で行われる作業を説明してくれているようで、当時の日本人画家たちのことにも思いを馳せながら、この展覧会を見終えたような気がします。


——フランスでは、改修中で見られなかったロザリオ礼拝堂以外も色々見て回ったんですか?

展示のあと何日か、ロサンゼルスから来た友人と何のあてもなく、アルルから東の方角に向かって……セザンヌの愛したサント・ヴィクトワール山を通りながら、「美術館なんか見ていないで風景をもっと見なさい」と言われているような気がして、朝から晩まで何でもないところを車で走ってました。ニースのマティス美術館も通り過ぎてしまって、最後はモナコの公道で行われるF1グランプリのコースを走ったのが旅のクライマックス(笑)。フォーミュラーカーの辿る道のラインを想像しながら、マティスのデフォルメしていくラインを思い起こしたりもして。

田舎道を走っていると、家の屋根はみんなテラコッタ色。壁は分厚く、窓は奥に深くに窪んでいる。空は真っ青で、緑は清々しく軽やか、土は乾燥していて薄黄色なダンボール色…… どこを見てもセザンヌの世界なんだよね。赤い色は風景の中には見あたらなくて、赤い絵の具を使う出番がない。マティスは、あれだけ赤を好んで室内風景を沢山描いたけど、最後ロザリオ礼拝堂では赤を使っていないんですよね。でも今回の展示映像を見てると、青、緑、黄色のステンドグラスと太陽の光を利用して白い大理石の床に反射させることで、赤を引き出してる。マティスはこうやって窓や壁を薄っぺらく見えるようにしたんだなと分かってくるような風景をいっぱい見てきた気がします。

マティス展 展示風景

——今回、沢山のマティス作品を改めて眺めながら、「これは一体何なんだろう」と思わせるような、造形的な要素の処理というか不思議な絵画空間というか、そういうものに視線がずっと引き込まれいくような感覚がありました。最後に杉戸さんが今回、マティスの絵画について考えたことを改めて聞かせてください。

マティスの絵は空間の中にある時間が長いよね…。フランスの展示中も食事に誘われると、ともかく食事に費やす時間が長かった。昼、午前中11時くらいに集まって1時間くらい会場で展示の準備したら、昼に2時間の食事タイム。3時頃に再開して5時までやったら作業は終わり。アペロの時間があって、そのあと、7時からまた食事で3時間(笑)。そんな感じで、マティスの絵も一見、イメージはパッと入ってくるのだけど、絵全体として見させてくれるまで非常に長い時間がかかり、焦らされる。

——そういえば20年前の国立西洋美術館の「マティス展 プロセス・ヴァリエーション」でも、一見シンプルにも見えるマティス作品が、熟慮と試行錯誤を経た制作を経ていること——制作のプロセスや主題の変奏に光が当たっていましたね。

今まで知らなかったんだけど、フランスでの食事では、前菜から始まって、メインがあって、メインとデザートの間に「チーズタイム」っていうのがあるんですよね。マティスの絵の中にも「チーズタイム」があって、ひょっとしたらそれが秘密なんじゃないかなって。

フランス料理は上品で繊細。でもチーズって臭いじゃない? 僕は飲まないけど、ワインを飲む人にとってはチーズがないと食事した気がしないみたいで、必要なものなんですよね。日本の懐石料理でも箸休めとかがあるけど、マティスの絵には、目で追いかけていくうちに味わえる、そういうどこか贅沢な時間みたいなものがある。

でも、描いている本人は同じテーブルで一緒に食事をしていないんだよね。レストランでいうと、「本日のメニューは…」と上品に説明する表の人でもなく、裏方で懸命に料理をつくる人。マティスの絵を見ていると、フランス料理をいただいているような感覚があるのと同時に、次に出てくるメニューとの間に、奥の厨房で必死に作っている人の姿もどこかで想像させられる。今回も、表舞台と裏舞台、その両方をリアルタイムに、今まさに出来たてホヤホヤの状態のように感じられる展示だったと思います。

展覧会の後の特設ショップにあったマティスグッズの豊富さ、そしてマティスのブロンズ作品からインスパイヤーされた「ブロンズみたいな黒蜜のかりんとう」という商品は衝撃的で、ぶっ飛んでしまったんだけど(笑)。マティスの絵にはあるけど、普段ごはんを30分で済ませている自分にはないな、改めてチーズタイムって何なんだろうって……そんなことを思いながら、かりんとうを仕事の合間に間食してます。

左|アンリ・マティス 《貝殻のヴィーナス》 1930年 ポンピドゥー・センター/国立近代美術館蔵

アンリ・マティス 《緑色の大理石のテーブルと静物》 1941年 ポンピドゥー・センター/国立近代美術館蔵

マティス展

会期|2023年4月27日(木) –  8月20日(日)

会場|東京都美術館 企画展示室

開室時間|9:30-17:30[金曜日は9:30 – 20:00]入室は閉室30分前まで

休室日|月曜日、7月18日(火)[ただし、 7月17日(月・祝)、 8月14日(月)は開室]

お問い合わせ|050-5541-8600[ハローダイヤル]

■日時指定予約制

 当日券あり。ただし数量限定につき、ご来場時に予定枚数終了の場合あり

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アートプロデューサー
RealTokyo ディレクター

住吉智恵