「ALBERTO GIACOMETTI」 エスパス ルイ・ヴィトン大阪での風景(2023年) Fondation Louis Vuitton, Paris  © Succession Alberto Giacometti / Adagp, Paris 2023. © Jérémie Souteyrat / Louis Vuitton

アルベルト・ジャコメッティの彫刻作品7点を無料で見られる。それだけで僥倖といってよいはずなのに、それらが展示されている空間には自然光が入るようになっている。昼と夜とで、晴れの日と曇りの日とで、作品の見え方が違ってくる。そんなチャンスは、この日本では、そうそうあるものではない。

この展覧会、ジャコメッティに少なからず興味を持ち続けてきたキュレーターの視点で見ても、よくできている。7点というのは、展覧会の出品数としてはむしろ少ない。すると大事になるのがバランスだ。このバランスが、制作年、主題、ポーズの種類、どの点においても、本展はよくできている。

たとえば制作年順に並べたときに、最初にくる作品は《棒に支えられた頭部》で1947年。これはちょうど、ジャコメッティが、後にトレードマークとなる細長い人物像と格闘していた頃だ。そして最後にくる作品は《座る男の胸像》(ロタールIII)で1965年。ジャコメッティは1966年1月11日に亡くなるので、文字通り最晩年の作品である。確かに本展には、1920年代から30年代半ばまでのいわゆるシュルレアリスム期の作品は含まれていない。だから、ジャコメッティの回顧展とは言い難い。けれども、その結果、シュルレアリスムから離反し人体をいかに表すかを模索するようになったアーティストがどのように展開していったか、その変化に意識を集中することができる。

アルベルト・ジャコメッティ 《棒に支えられた頭部》 1947年 ブロンズと石膏 鋳造所不明(1952年鋳造、番号なし)Fondation Louis Vuitton, Paris © Succession Alberto Giacometti / Adagp, Paris 2023. © Fondation Louis Vuitton / Marc Domage

冒頭から話が専門的になりすぎたような気もする。ここではもっと基本的な、「ジャコメッティとは誰か」についても確認しておくべきだろう。

アルベルトは、1901年にスイスのボルゴノーヴォという小さな小さな村に生まれた。今だと、チューリヒから電車に乗って、保養地、観光地として知られるサン・モリッツへ行き、そこでバスに乗り換え、山を下り、渓谷を進んで、大体4時間くらいで辿り着く。そう遠くはない気もするが、バスの終点はキアヴェンナ、つまりイタリアということからもわかるように、そのあたりでは、ドイツ語のほかにイタリア語も通じる。ドイツ語圏のチューリヒやフランス語圏のローザンヌやジュネーヴなどとは全然違う雰囲気が漂っている。

小さな村に生まれた……というと、芸術に無縁の環境で育ったというように聞こえるかもしれないけれども、そうではない。アルベルトの父であるジョヴァンニは画家だった。スイスの公立美術館の常設(コレクション)展に行けば、必ずといってよいほどカラフルなジョヴァンニの作品を見ることができる。ジョヴァンニの従兄弟にあたるアウグスト・ジャコメッティも画家で、こちらも象徴主義的とも言える抽象作品を、スイス各地の美術館で見ることができる。そんな環境だから、と言ってよいだろう、アルベルトの弟のディエゴも彫刻家となり、もうひとりの弟ブルーノは建築家となった(彼はまた彫刻家でもあった)。

アルベルトが他の家族と違ったのは、彼がその拠点をパリにおいたことである。1920年代はキュビスム的な作品やシュルレアリスム的な作品を制作し、高く評価された。しかし1934年、友人だったはずのシュルレアリストたちに向けて「私はきみたちには裁かれない」と宣言して訣別。以降、人間を、見えるがままに(しかし人間として感じられるように)表現するという難題へと突入する。そして40年代後半には、今ジャコメッティの名を聞けば誰もが思い浮かべる、あの細い人物像の表現を確立した。1962年、ヴェネチア・ビエンナーレの彫刻部門で大賞を受賞。その頃には世界各地の主要美術館で展覧会が開催されるようになっていた。しかし1963年に胃癌の手術を受け、その後も制作を続けるも、1966年1月、スイスのクールの病院で没する。享年64歳。決して長い人生ではなかったが、今なお世界中の美術館の常設で、20世紀における、いや、美術史における人間表現を代表するアーティストとして、その作品が展示されている。

「ALBERTO GIACOMETTI」 エスパス ルイ・ヴィトン大阪での風景(2023年)《大きな女性立像 Ⅱ》1960年 暗褐色の緑青を施したブロンズ (1961年鋳造、エディション1/6) Fondation Louis Vuitton, Paris © Succession Alberto Giacometti / Adagp, Paris 2023 © Jérémie Souteyrat / Louis Vuitton

以上がごく一般的なアルベルト・ジャコメッティについての紹介である。でも、もしその紹介が日本でなされるのであれば、あるひとりの人物の名前を入れることを忘れるわけにはいかない。

矢内原伊作(やないはら・いさく)。1918年愛媛県生まれ。父親は、東京大学総長にもなった矢内原忠雄。「イサク」の名前は聖書からとられたという。サルトルなど実存主義を研究する哲学者となった矢内原は、大阪大学助教授であった1954年にパリに留学。翌年、同地でジャコメッティと出会う。そして1956年10月、帰国を2日後に控えてはじめてジャコメッティのモデルとなるのだけれど、ここからがすごい。矢内原は、帰国を惜しむ作家の言葉にあわせて出立を延期するのだ。しかも、その後何度も延期して、最終的には72日間もモデルを務めたという。それだけではない。一旦帰国するも、その後もモデルとなるためにパリに数回戻り、モデルとなった日は延べ230日にもなったという。これほどまでにジャコメッティのために時間を捧げた人物は、家族やパートナー以外にはいなかった。つまり、矢内原はジャコメッティにとって重要なモデルだった。

だから、日本でジャコメッティ展が開催されると、そこには必ずといってよいほど「ヤナイハラ」のパートが設けられることになる。矢内原をモデルにした油彩や彫刻はもちろんのこと、紙ナプキンや新聞に描かれた、つまり、カフェで寛ぐ一時に描かれたであろうスケッチなどが多数展示される。また矢内原は、哲学者らしく、アトリエでの体験を言葉にして出版してもいたので、それもあわせて紹介される。イメージとテキストとにより、ジャコメッティの制作プロセスを仔細に確認できるというのは、それはそれで興味深いものではある。しかも、20世紀の偉大なアーティストの営みに日本人が関与していたと知れば、日本のオーディエンスは悪い気はしない。
でも、あるひとりのモデルに一章を割くことで、観客の理解に対してバイアスがかかってしまうのも事実だ。矢内原がフィーチャーされた結果、矢内原以外のモデルの意味はどうしても薄れることになるし、矢内原がモデルとなっていた1956ー1961年が、ジャコメッティにとってもっとも重要な時期に見えてしまう。でも、少なくとも日本以外でのジャコメッティ展を見渡してみた時に、ひとりのモデルに章を割くケースはほとんどない。

今回の展覧会はどうだったか。日本の大阪で開催される展覧会であるけれども、そこに矢内原は一切出てこない。作品はもちろんのこと、展覧会のあいさつ文にもその名前は見当たらない。往々にして、国公立美術館でのそれには、作家と地元とを結びつけるエピソードが盛り込まれるから、この「不在」は、少なくとも日本のジャコメッティ・ファンには強く感じ取れる。しかも矢内原は、大阪大学や同志社大学で哲学を教えていた。来場者の大半を占めるであろう関西の人にとってその情報は、ジャコメッティに関心を持つフックとなる可能性は高い。でも、その名はどこにも見当たらない。

そうしたローカルな情報が盛り込まれていないのは、きっと本展が、フォンダシオン ルイ・ヴィトンならではのグローバルな視点に立ってキュレーションされているからだろう。本展は国際巡回の形式をとっていて、大阪の前にはソウル(2019年)や北京(2021年)のエスパス ルイ・ヴィトンで開催されていた。様々な都市を巡回する、しかしひとつの展覧会としていかにジャコメッティのエッセンスを伝えるか、そのことを念頭において本展はつくられたはずだ。その結果、先に述べたようなバランスのよい7点が選ばれ、あわせて掲示される情報も厳選された。矢内原の名前は出てこない。その一方で、ブロンズ作品の鋳造についての情報は掲載されていて、このあたりはさすがとも言える。近代以降の彫刻を扱う場合に、鋳造をどこがしたか、それが生前なのか没後なのかは相当重要な情報なのだけれど、これについて言及するケースは日本ではあまり見られない。

グローバルな視点に立つ本展は、構成も思い切りがよい。会場を入った人を出迎えるのは、高さ2.7メートルにもなる《大きな女性立像 II》だ。制作年は1960年。先に述べたように、出品作品7点のうち制作年が一番若い作品は1947年、つまりこの空間において作品は、時系列で並べられているのではない。たとえばこの入口の作品は「来場者を出迎えるのにふさわしい作品はなにか」といったような観点から選ばれている。

「ALBERTO GIACOMETTI」 エスパス ルイ・ヴィトン大阪での風景(2023年) Fondation Louis Vuitton, Paris © Succession Alberto Giacometti / Adagp, Paris 2023 © Jérémie Souteyrat / Louis Vuitton

《大きな女性立像 II》の向こうには、対照的に小さな《棒に支えられた頭部》(1947年)が見える。ちょっとしたユーモアさえ感じるこの作品は、日本で直近で開催されたジャコメッティ展、つまり2006年(葉山、神戸、佐倉)と2017年(東京と豊田)のそれには、記憶の限り出ていないから、日本在住のジャコメッティ・ファンにとっては嬉しい出会いとなるだろう。

後編につづく。

ALBERTO GIACOMETTI

会期|2023年2月23日(木・祝) – 6月25日(日)
会場|エスパス ルイ・ヴィトン大阪
開館時間|12:00–20:00
お問い合わせ|0120-00-1854
■休館日はルイ・ヴィトン メゾン 大阪御堂筋に準じます
■会場内の混雑防止のため、入場をお待ちいただく場合があります

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