
レンズ状のガラスの塔で知られるプラダ青山店のてっぺんで、サイモン・フジワラの個展「Who the Bær」が開かれている。フジワラが創り出したキャラクター、Who the Bærの自分探しの旅というべきこの展覧会あるいはおとぎ話は、コロナ禍によるパンデミックやSNSの急速な広がり、民族の対立や気候変動といった社会の大きな変化に直面した私たち自身にとっても、来し方行く末を自問させるビルドゥングスロマン(自己形成小説)である。🅼
Whoは特定のアイデンティティも国籍も、ジェンダーもセクシュアリティも持たない。
Bærとあるとおり、どうやら熊さんのようだが、なにしろアイデンティティがないので、旅の途中で遭遇するものごとにいちいち自分を変容させてしまう。
展示は5つの章に分けられ、Whoの冒険譚を追っていく構成になっているのだが、まずはWhoの産みの親、サイモン・フジワラについて紹介したい。
1982年生まれのフジワラは、日本人の父とイギリス人の母との間に生まれ、生後数年を日本で過ごした後、母の母国イギリスのセント・アイヴスで育った。
両親の離婚、アジア系の住人がほぼ皆無だったという環境、そして幼少時にゲイを自認した経験が、フジワラの作品に一貫する「世間の常識」をはじめ社会を安定させるために張り巡らされたシステムの存在への批評的な視点を養うきっかけとなったことは想像に難くない。
キャリアの初期には、自らの生い立ち、家族の歴史を題材としつつそこにあきらかなフィクションを交えることで「真偽」のあいまいさを問うインスタレーション作品を発表し、はやばやと国際的な評価を得たフジワラ。
2016年には筆者が所属する東京オペラシティ アートギャラリーで日本の美術館における初めての個展を開催したが、この時期はちょうど題材が自分と家族の歴史から、他者あるいは社会一般に共有されるイメージへと変化していった時期でもあった。
SNSの広がりによってあらたなフェーズに入った情報化社会、それにともなう資本主義における新しい価値の創生をふまえ、私たちに「本当の豊かさ」とはなにかを考えさせる作品制作は、今回の展覧会「Who the Bær」 に引き継がれ、見事に結実したといえる。
前置きが長くなったが、Whoの旅の物語を順を追って見てみよう。
「Whoの紹介/Introducing Who?」
Whoがキャラクターであることをことさら強く感じさせるアニメーション《Hello Who?》。Whoはなにものでもないことが語られ、産み落とされたばかりの目でこの世界に「なぜ?」を問う。
Whoは男? 女? それともノン・バイナリー?
Whoは古き良き時代の再来を望んでいる?
Whoは自由?
クエスチョン・マークだらけの自己紹介は、世界の状況、問題に日々直面すれどそれぞれの常識や都合で片付けてしまいがちな私たちの無意識にゆさぶりをかける。

サイモン・フジワラ Book of Who? (An Introduction), 2022 Courtesy of the artist
「Whoの成り立ち/Becoming Who?」
Whoは自分の誕生の経緯を知りたくなったようだ。
伝統的な「手順」によれば、生命は男女の営みによって生産され、家族制度や性差に基づいた役割が与えられてきた。
アルブレヒト・デューラーの《アダムとエヴァ》に変身したWho。切り貼りされた原画の欠損部分にはオリジナル以上に男性性、女性性を強調された身体が加筆されている。まるで撮影した画像をSNS用に見栄えよく加工するかのように。
こうありたいという自分と求められる役割は、一致しているのだろうか。私たちは知らず知らずのうちに、求められるイメージに自分を寄せてはいないだろうか。
アダムとエヴァが持つ果実は、「善悪を知る知恵の実」である。神に禁じられていたこの実を食べたことにより、二人は無垢を失って楽園を追われることとなった。
この楽園追放について、2016年のオペラシティでの個展の際、フジワラと交わした会話がある。
「人類にとって無垢を失ったことは不幸だったと思う?」
神との約束を破った代償として、男には生きるための労働が、女には産みの苦しみが課された。
しかし「労働」はいまや性差を問わず行うもの、そして私たちはそこに生きがいを感じることもあれば、それによって自身のアイデンティティを見出すことだってある。
そう、作家活動も展覧会企画も、労働だ。不遜は重々承知ながら、若かりしフジワラと私にとって聖書のこの逸話はさまざまな問いを抱かせるあまりにも魅力的な題材だったのだ。

デューラーの《アダムとエヴァ》に変身したWho、《The Original Sin by Who?》の前にて。左は筆者、右はサイモン・フジワラ氏
「Whoの世界/Who’s World?」
続いてWhoは、世界には強者と弱者が存在することを知る。
かつて西洋列強は植民地化した地域の美術工芸品を自国に持ち帰り、その多くは美術館のハイライトとして展示されている。異文化を盗用し、さらにそれを単純化する支配者と被支配者の関係を、Whoはその両者および遺物になりきることであぶりだす。
これはなにも過去にかぎった話ではない。あふれるモノや情報の海に生きる現代の私たちは、既存の創造物からまったくの無関係で生きられるのか。
なにものでもないといいつつ、どこかで見たことがあるようなキャラクターであるWho自身も、このパラドックスを体現する存在なのだ。

サイモン・フジワラ Vodoo Who? (from the collection of Humboldt Who), 2021 Photo: Andrea Rosetti
「Whoの博物館/Who’s Whoseum」
オリジナリティを巡る問題を考えるに、芸術作品は格好の材料かもしれない。
名作と呼ばれる作品は、人々に好まれれば好まれるほどそのイメージはわかりやすく表層化され、共有されていく。
名画に入り込んだWhoの姿はユーモラスであるが、これが広く知られる作品でなかったら?
共有されたイメージであるからこそWhoのなりきりのおもしろさが通用する訳で、ついには美術館をも乗っ取って「Whoジアム」としてしまったWhoの姿は、芸術さえ消費の対象をまぬがれることができないハイパー資本主義文化を表しているといえよう。

サイモン・フジワラ Nymphéas de Who? (Evening Reflection), 2022 展示風景
Courtesy Esther Schipper Gallery
Whoが入り込んだ「名画」は、フジワラ自身が描いたものだ。これまでは大がかりなインスタレーションや映像作品を、専門の制作会社や大勢のスタッフを動員して制作することが多かったフジワラが、自ら絵筆をとって「画家」になった。
オペラシティの個展で展示した初期作品《ミラー・ステージ》(2009-2013)、先述のとおり自伝的要素の強い作品が思い出される。
フジワラは11歳の時、地元に開館したテート・セントアイヴスの開館記念展を訪れた際に初めて出会った現代美術作品、パトリック・ヘロンの《水平のストライプの絵画:1957年11月ー1958年1月》によって、自分がゲイであることを悟り、そして芸術家になることを決めたという。
今回ひさしぶりに会ったフジワラに、少しふざけて「あなたとうとう『芸術家』になったのね」と言ったところ、「そう、l’artiste(お芸術家)になったよ」と笑いながら返された。
コロナ禍で今まで通りの制作ができないなか、自分で描くというもっともシンプルな方法にたどり着いたフジワラは、すでに充分実現させているとはいえ、幼い頃の夢を叶えたのかもしれない。
「Whoの過去と未来/Who’s Past? Who’s Future?」
第2章「Whoの成り立ち」と密接にかかわりのあるこの最終章は、ノスタルジーをかき立てるおとぎ話のワンシーンを描いたシリーズだ。
舞踏会に出かけるシンデレラ、魔法のランプに呪文を唱えるアラジン、人待ち顔の人魚姫……。これらに変容したWhoは私たちに語りかける。人種や性別のステレオタイプを強調された登場人物が、アイデンティティなし、ジェンダー、セクシュアリティなしのWhoに置き変わった場合、昔懐かしい物語は成立するのだろうか。
展覧会は歌うロボット《Who’s Only Whoman?》で幕を閉じる。金属に見えるが実は塗装された段ボールで作られた『オズの魔法使い』の木こり、になったWho。『もしも心があったら』の劇中歌が流れるにつれてロボットの胸の扉はひらき、小さなスクリーンにハートのアイコンが現れる。しかしそれは木こりが望んでいた本当の「心」なのだろうか。スクリーンの下には、SNSにおけるさまざまなリアクションマークが万国旗よろしく並んでいる。
「いいね」の数を求めるはりぼての身体ほど、イメージのみの存在でアイデンティティを持たないWhoが乗り移るにふさわしい存在はないだろう。

サイモン・フジワラ Who’s Only Whoman?, 2021 Image courtesy: Jörg von Bruchhausen
ふと振り返れば、この章の壁面には全身が映る鏡があることに気付く。そこに映し出された自分の姿が、この展覧会の最後の作品なのかもしれない。
展覧会をWhoの自分探しの物語として「おしまい」にするのではなく、私たちそれぞれが会場を出たあとも自分らしく過去と未来を探し続け、生きること。
それがサイモン・フジワラがWhoに託した私たちへの呼び掛けではないかと思いながら、ガラスの塔を後にした。

左|サイモン・フジワラ「Who the Bær」 会場の筆者
右|プラダ 青山店 Courtesy of PRADA
会期|2022年10月15日(土) – 2023年1月30日(月)
会場|プラダ 青山店 5階 [東京都港区南青山5-2-6] 入場料無料
開場時間|11:00 – 20:00[12月31日は11:00 – 18:00]
休館日|1月1日(日・祝)
お問い合わせ|0120-45-1913 [プラダ クライアント サービス]
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