
ワタリウム美術館で開催中の展覧会「加藤泉−寄生するプラモデル」。 加藤泉といえば、人間なのか精霊、あるいは呪霊なのか、不思議な面相と佇まいのヒト形を描いた絵や立体作品で、国内外で人気のアーティストだ。プラモデルを用いたシリーズをメインにした個展が彼の新たな境地を見せている。🅼
聞き手・文=児島やよい[インディペンデント・キュレーター]
プラモデルというと、世代的には乗り物とか戦闘ものとかのアレを思い浮かべるが、ここで使われているのは、それとはちょっと違うビンテージものが多く、一筋縄では行かないようだ。
「プラモデルが寄生する」とはどういうことなんだろう。
加藤泉とはどんなアーティストなのか?
個展会場を巡りながら、話を聞いていった。
スイスの建築家、マリオ・ボッタ設計のワタリウム美術館は、いわゆるホワイトキューブではなく不定形、縦に5つの階層が連なる独特な空間である。
窓からキラー通り越しに東京の風景が見える。
エレベータを2階で降りると、なんとも不思議な立体がお出迎え。
たちまち異空間へと誘われる。
立木の下部分はソフビでかたどった顔、枝にとまった人形、プラモデルの鳥、と異素材すぎる組み合わせだ。
奥に進むと森や草原、山などをイメージした木彫のようなジオラマにそれぞれ鎮座している石やソフビ、木の作品とプラモデルを立体的にコラージュしたシリーズが並ぶ。

「あえて素材感の違う異質なものを組み合わせると、複雑さが出る。最初は木彫にプラモデルの鳥をくっつけてみたりする程度だったのが、だんだん広がっていった」
もともとプラモデル好きだった加藤、パンデミックで外出制限、展覧会もキャンセルや延期という時期に、スタジオで作り始めた。
ネットで調べて、1950〜70年代くらいの外国製や国産プラモデルに動物や昆虫などおもしろいモチーフを見つけ、買いあさるようになったという。
特異に感じるのは、スケルトン様式の動物や人体のプラモデルが多いこと。
教材として作られたのではないか、と言うが、筆者は初めて見た。

そういえば加藤の作品は、ペインティングやドローイングなど平面作品にしても、木彫やソフビ、そして石を組み合わせた立体作品にしても、人体を強く感じさせる。
異形とも精霊のよう、と形容されることもあるが、もしかしたら人の内面をスケルトンにして抽象性を高めた表現なのかもしれない。
また、木彫に彩色し装飾的な石を付けたり、古い家具と組み合わせたり、木彫をいくつも積み重ねたりと、あえて要素を多くして、佇まいは不気味だったりユーモラスで愛らしかったり、複雑なレイヤーを持たせている。
吹き抜けの大きな壁には、フランス、ノルマンディー地方のル・アーブル市から依頼され制作・設置した高さ7mのブロンズ彫刻作品の写真が拡大されて貼られている。
緑の中に佇む迷彩柄の裸の巨人?に蜂が止まっている作品は、日本だったら物議を醸しそうなインパクトだ。
「海外で発表すると、日本人だから自然と一体になっているのか?とか、万物に神様を見る自然観とか、日本独特の思想と結び付けて受け止められることが多い。みんな楽しそうに見てますね」
窓から見える通りの向かいの空き地には、宮城県石巻で制作した大きな石の作品が横たわっており、暗がりで見ると不穏な現場の様相だが、素朴で涅槃仏のようだ。

3階には小さな立体作品が並ぶ。
大きなカエルや昆虫に乗るヒト、飛行機と一体となったヒト・・・? 色彩豊かなヒト型木彫やソフビに、プラモデルの鳥や蝶、昆虫などが乗っかったりくっついたりと、バリエーション豊かで楽しい。
抽象的な造形とプラモデルの写実的な表現、コラージュの妙だ。
4階の壁にはおびただしい量のビンテージプラモデルの箱と、加藤の平面作品がコラージュのように展示されており、目を奪われる。

「レコードはジャケ買い、プラモデルは箱買い。ビンテージプラモデルの箱絵は本当におもしろくて、全部良いんだけど、気に入ってるのは、このコアラとかバッタのやつ、顔の表現とか切り取り方が独特。サイン入りだから絵描きが描いてると思われるのもあるし。でも、絵と中身が全然違うのもある。謎プラモ、こまどりそのものではなくて、剥製の(!)プラモとかね。スケルトンのシリーズはアメリカから金型を輸入して日本で作ってるのがあって、日本では名前を変えて『忠実な犬』とか『乳牛の秘密』となってる。絵もよくわかんないけどおかしい。本当におもしろい」

また、精緻に描かれたプラモデルの組み立て説明書の絵を切り取って、加藤の絵とコラージュした木版画は、由緒ある浮世絵の工房で制作されたというが、とても趣がある。
なんという、めくるめくコラージュ・コラージュの世界。

さらに、前代未聞のプロジェクトが展示されている。
加藤の作品のオリジナル・プラスティックモデル。
石をプラモデルにしたものは見たことがない、とプラモデル製作会社のプロも唸る。
箱絵はもちろん加藤のオリジナル、箱のサイズ、仕様も徹底してデザインした。
「アート作品としてのプラスティックモデル」である。


さて、展覧会タイトルの「寄生するプラモデル」だ。
「最近自分で気付いたんだけど、僕の作品の作り方として、素材と相談して作る。
『俺がやりたいように言うことを聞かせる』じゃなくて、やりとりしながら作るんです。
そうすると、僕が作ってるんだけど、プラモデルから、ここに置け、色を塗るな、とか言われてる感じがする。
そういうところが、プラモデルが僕に寄生する、という感じなんです。
寄生されてる感覚の時は、調子が良い。
絵を描いていて、一手置いた時に、こうしたほうがいい、と手が言ってる感じがするとうまくいく
(加藤は筆を使わず、手と指に絵の具を取り、画面に直接描く)。
たぶん僕が決めてるけど、絵の具を見てジャッジしてる。
描きながら自分が決めてるのか、誰が描いてるのかわからなくなる。
それはおそらくアスリートがゾーンに入った、みたいな状態で、考えなくてもできちゃう。
石は情報が多くて、最初から絵が描いてあるような状態なので何もやる必要ないんだけど、その上に僕が絵を描くので、全体には色を塗らない。
そういう考え方が日本人特有なのかな。
西洋の人は素材に言うことを聞かせて思い通りに扱おうとする。
日本のアーティストは、そこにあるものと相談しながら作る。
僕はその方が合ってるけど、世界から見たらそういう作り方をする人はあんまりいない」
西洋の伝統的な世界観では、人間が一番優位に立ち、自然をも支配すると考えられてきた。
19世紀、ヨーロッパでジャポニスムがブームになったのは、彼らとはまったく異なる畏怖や崇敬、親しみをもって自然に対する日本の世界観に依る芸術が衝撃を与えたからだが、21世紀に同様の衝撃を加藤はもたらしているのかもしれない。
「僕は島根県出身で、八百万の神がいるところで育ったんですよ。石も木も、みんな神様。
子どもの頃は毎日釣りに行って、外遊びが好きだった。
でも雨の日の遊びはプラモデル。雨が多いんで。それが辻褄があってきているというか、熟成されてきた。いい感じですよ、寄生されるのは」
以前、絵と対等の関係でいたい、支配したりコントロールするのでなく、と語っていた加藤。
なるほど、人間もヒト型のものも動物も昆虫も、石も木も布も紙もアクリル絵の具もソフビもプラモデルも、等しく存在し加藤と「やりとり」する。
それはともするとモノに支配されがちな現代日本の私たちにとっても驚きであり、新鮮かつ懐かしい世界観ではないだろうか。
ところで、ヨーロッパ、アメリカ、アジア、各地で引っ張りだこの加藤だが、世界のどこで作品を発表するのも
「自信があるんで大丈夫です」
と言い切る。
それが全然嫌味でなく、爽やかなのは何故か?
「実は高校までサッカーをやっていて、大学でもサッカーを続けるつもりだったのが、紆余曲折あって東京の美大に入った」
という。垣間見えるアスリート思考はたとえば
「スランプも経験して、自分で練習して乗り越えて、実ってきている。
海外のアートフェアに出ても、僕の作品に似たのはない。
アーティストはお互いに見ればすぐわかる、実力がどのくらいあるか。
生意気ですけど、レベルがある。ジャンルはないけど、強度が違う。負けてないと思う」
という言葉にも表れる。

折しもW杯で日本チームが大健闘。
表現の体幹を鍛え、次々と切り拓いている加藤泉の新しい景色を、共に見続けることができる幸運を想う。
忘れてはいけない。地階では加藤がドラマーを務めるアーティストバンドTHE TETORAPOTZの関連展示も行われている。彼らの活動も、加藤の世界をより深く、身近に知る為に欠かせない。
会期|2022年11月6日(日)- 2023年3月12日(日)
会場|ワタリウム美術館[東京都渋谷区神宮前3-7-6]
開館時間|11:00 – 19:00
休館日|月曜日[ただし1/9は開館]・ 12月31日 – 1月3日
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