美術史の豊かな知識を土台にして、当代一の画力を武器にどこにもない絵を生み出す。そんな人気画家、山口晃ガハクは夫婦揃って食いしん坊。日常で、旅で、制作中の日々で、散歩の途中で何を食べてるの? ガハクが日常を描くコミックエッセイ『すゞしろ日記』に「カミさん」として登場するガハク妻による食事帖。
ジェラート初体験の感動から、熱中症SOSのアイスまで、今回は氷菓の話。
絵/山口晃
高校生の時、女子たちの間で通学路途中の地下街に新しくできたアイスクリーム店のことが話題になった。単なるアイスクリームではなく「ジェラート」というものだそうで、その目新しさが注目されたのだ。ウワサを聞きつけてきた友人に、それって一体どう違うのかと尋ねると、「味や食感がすごく濃厚らしいよ」とのこと。
実は私はガハクと一緒になるまで、「食」に対してあまり興味がなかった。消えてなくなる食べ物より、本やCDなど形が残るものに価値を見出していた。なので、高校、大学の頃もスイーツ食べ歩きや飲み会以外でおいしいものにこだわったという経験が、あまりない。
ただ、珍しいものは気になる性分だ。アイスクリームなのにジェラート、という難しげな名を名乗り(当時イタリアの食べ物だと認識していたか記憶はあいまい)、常識をくつがえすほどおいしいものであると聞くと、試さないわけにはいかない。早速、学校帰りに数人で連れ立って行ってみることにした。
絶対のおすすめはミルクとチョコレート、という触れ込みにしたがって、自分の普段のチョイスとはちょっと違うなと思ったけれど(たぶんミルクは選ばない)その2種盛りを食べた。
聞いていた通り、非常に味が濃くてまるで素材そのものようであり、アイスクリームとは異なるクリーム状ともムース状ともいえないねっとりした食感に、10代だった私は友人たちと歓喜し、好奇心は十分に満たされた。
アイスクリームというと、そんな思い出もあったりして、ちょっと特別なデザートのひとつといえるだろうか。
この食べ物は、常温ではとっておけず冷凍状態での移動・保管が必要で、さらには溶けないうちに素早く食さねばならない。
そういったやや負荷のある点が、特別感をかもしだすように思うのだ。
先ほどのジェラート体験ほどでなくとも、ドライブインなどレジャー先でのソフトクリームや、夏休みのおやつのカップアイス、お風呂上がり用の小さい棒アイスなど。
いずれにせよアイスクリームとは心身の余裕がある時に、甘さと冷んやりした感覚を楽しむためのものだった。
さて先日、山口ヒゲ画伯こと夫(以下ガハク)と、夏の京都に行ってきた。
目的は祇園祭で、7月17日の山鉾巡行前祭の行われる時期にあわせ3年連続での訪問だ。
一度行ってみると、興味深い行事が多々あることが分かって、ガハクの関心も高くなり、こうして続けて行くことになった。もちろん、それでもごくごく一部の行事しか見学していないので、観光客としてちょっと頑張ってみた程度のことである。
今回は夜の祭事を重視し、日中は極力街中に出ないよう心がけた。
しかし、祇園祭といえば……の山鉾巡行は日中に行われる。時間の目安は朝9時スタートで昼過ぎまでになっているが、午前といえども十分に気温は上がる。
最初に訪れた年も巡行の日は暑かったけれど、建物内に出たり入ったりする見学の仕方で乗り切った。
翌年は大雨。大変さポイントは暑さより雨宿りであった。
これまでがそんな感じで、やや不完全燃焼的であったため、今回はガハクも鉾や山の迫力のある様子を間近で見よう、と気合を入れていた。
「これは取材なんだからね」
ガハクは仕事柄、見るもの聞くものすべてが取材対象というわけだ。
普段は朝が大の苦手であるにもかかわらず、早起きして老舗ベーカリーでしっかりモーニングまで食し、準備万端。ガハクもやればできる。
9時半頃、とある鉾の出発を見に行く。各町内にある鉾や山は順番に移動して巡行ののスタート地点に着き行列に加わっていくのだが、正規ルートへと向かう道中は見物客も比較的少ないので、方向転換する「辻回し」を見るにはわりと穴場なのだ。
鉾がこちらに迫ってくるところが間近に見えるベストポジションには、日光が強烈に降り注いでいた。
がんばってそこに待機していたけれど、5分もしないうちにガハクが耐えかねて言った。
「無理、日陰の方に移ろう」
「見えるのが遠くになっちゃうよ?」
「いいよ。ここにはいられないって」
この時点で相当暑く、空気に重みを感じる。気温についてはあえて考えないようにしていたが、おそらくすでに30度を超えていたのではないだろうか。
道路はもう封鎖されて反対側には渡れず、ガハクと一緒に地下道を通って急いで移動した。
見どころのひとつを無事クリアしたので、地下鉄を利用してホテルに戻り一旦休憩。今のうち十分に冷房に当たって身体を冷やしておく。
そうして、いよいよ正規の巡行ルートの沿道にて、それぞれに趣向の凝らされた山と鉾の行列の見学だ。
先頭を行く鉾を御池通にて待ち受けようと、アーケードのある商店街の中を通りぬける道すがら、改めてこのアーケードってなんてすごいんだろうと感心した。日陰を作ってくれるだけで、暑さが全然違うのだ。
これなら屋外にだっていられそう、と思った瞬間、大通りに出てアーケードが終わり、もわっと熱気に包まれた。
でもまだ身体に冷房貯金が残っている。
沿道の最前列には有料の観覧席がしつらえてあり、一般の観客はその背後や席のないエリアで適当に見学するという状況で、前にいる人々の頭でよく見えないな、とは感じるが、身動きできないほどの混雑ではない。
けれども、先頭の鉾の進行に一緒について回って行く人々がおり、その集団を避けようとあちこちに動いているうち、いつの間にかガハクとはぐれてしまった。
人混みとはいえ、居場所も限られているし見つけるのはそんなに難しくないはず。
だが、しばらく辺りを見回してもいないので、少し移動して探すことにした。
そして、ビルとビルの合間に出来た陽のよく当たる場所に足を踏み入れた途端、異変を感じた。
あれっ? これは……。
熱気と日差しのせいか、急に視界が真っ白になった。なんだか目の玉がグラグラ茹だるように熱い。ついでに頭の中も脳が一気に蒸発してシューッと出ていってしまったような感じがする。
これまでは、「暑いけど、まあなんとかなりそう」とやり過ごせてきたけれど、ちょっと次元が別物だ。たった一歩、日なたに出ただけなのに目がまわる。
これ、危ない状態だ。自分の中のアラートが発動した。
普通に歩くと転んでしまいそうで、ゆっくり地面を踏みしめるように進み、陰の中へ入りようやく目の焦点があったところで急いでガハクに電話をかけた。
「どこにいるの?」
「あなたのいるところから進行方向にちょっと行った所だよ」
なんだ、私は置いていかれたのか。そのうえ、居場所も見えている?
よたよたと私が進んでいくと、建物に沿うような場所でガハクはのんきに立っていた。
私は日に当たってすごくクラクラしていたのだと訴えたが、ガハクは巡行の方に気を取られていて、さほど深刻に受け止めていない。あの辺りの日陰スペースが見やすいかな、などと言ってキョロキョロしている。
さきほどから、遠くに救急車のサイレンが聞こえたり、救急隊と思しき制服のスタッフが無線で連絡をとりながらバタバタと駆けていく姿を見かけたりもした。現在の気象状況はきっと恐ろしいことになっているに違いない。
私の方は気が気ではなくなってくる。
「ねえ、この暑さ、危険だよね。アイス買う……コンビニ見つけて行ってくる。あなたもほしいよね?」
「え? オレは別にいいよ。平気だけど」
写真撮影に夢中で生返事をするガハクのことを、私も半分無視してスマホで地図を開き店を探した。ありがたいことに、ほんの10メートルほど先にコンビニがあった。
店内はほどほどの涼しさで、飲み物を買うお客さんの列が出来ていた。
私は冷凍のショーケースを見つけると、冷えそうなアイスはどれかと探る。
こういう時はやっぱりアイスキャンディーとか氷っぽいものがいい。
ガハクには食べやすいカップ状がよかろうと、スライスレモン入りのライチのかき氷を、自分にはパイナップルのアイスキャンディーを手に取った。朦朧としながらも、我ながら適切なチョイスができたと思う。
小走りにガハクのいるところへと戻り、「いいからあなたも食べておきなさいよ」とカップを手渡すと、私の方は冷たい氷菓に即座に歯をたてる。
固く凍ったアイスキャンディーは、強く噛むとやや軋むようないやな感触が歯に反響するが、そんなことは気にしていられない。
できるだけ急いで、ガジガジと噛みついていくが、もうそのひとくちひとくちが、冷気と生気の補充となり、飲みこむごとにまさに生き返っていく思いだった。
「食べてから気づいたけど、この冷たさ、身体が必要としてたみたい」
ガハクがかき氷状のアイスをカシュカシュとスプーンで音を立ててくずしながら、我に返ったように言った。
「写真撮るのに集中しちゃって……危ないところだったかも。ありがと、買ってきてくれて」
めずらしくガハクの態度も殊勝だ。
ふたりとも正気を取り戻すと再び見学を続け、お昼どきになった頃、ご飯でも食べに行こうかと巡行の場を後にした。
この日はそれで終わらなかった。
山鉾巡行という露払いが終わり、夕方からは御神輿が街に出る。
この「神幸祭」の見学は初めてで、ガハクが重要視していた行事だ。
その様子を、目の前にて大迫力で、というわけにはいかなくとも、ほどほど空いている場所にてしっかり見ておこうと思っていた。
行事の始まる午後6時過ぎ、まだ空は明るく、さすがに日差しは弱まるけれど、日中の暑さが残っている。
歩道で見守っている観光客に負けじと、威勢のよい大勢の担ぎ手たちで道路が埋めつくされる。そこにあふれる、ものすごい活力にはただ圧倒されるばかりだった。
御神輿が街中へと移動してしまい、ガハクと私は裏道を選んでぼちぼちと歩き帰路につく。すると、暑さと湿気、午前からの立ちっぱなしだったり歩き回った疲労……それらが一気にまた私を襲ってきた。
「めまいがする。ゆっくりしか歩けない」
「大丈夫? どこかのお店に入って休む?」
といってもこの通りにはお茶をするに適したお店は見当たらないし、座って気を抜けばすっと血の気が引いてむしろ動けなくなりそうだ。
「いい、早く帰る」
まるで仲よしカップルのようにガハクの腕につかまって、それを支えによたよたと歩く。
この感じ、あまりよくない。(体調のことです)
「アイス……アイス食べる」
「え、また?」
「どこか、どこかコンビニ」
光に吸い寄せられる虫のように、見つけた店にふらふらと入っていく。
あまり選択肢のない中でスイカを模した形状のアイスキャンディーを買い、内側から身体を冷やそうと試みた。
ガハクの方は元気だったようで、一口どうかと勧めても、これから夕飯が食べられなくなったらいやだからと断ってきた。
私の方は、夕飯も大事だけれど、その前に体力を回復させるため、もはや薬だと思ってスイカではないアイスを食べた。
「はー、アイスには救われた。今日はアイスがなかったら大変なことになっていた」
夕食の席で、一日を振り返って私は感慨深かった。
「暑い時にアイスが効く、というのはローマに行った時から分かってたよ」
ガハクは、2年前のイタリア旅行のことを指して言った。
旅をした6月の終わりは気温が上がって真夏のようで、石畳の上を歩いているうちどんどん疲労がたまり過酷だった。
「あの時さぁ、急にあなたがジェラート食べる、って言い始めて、この暑い中甘ったるいもの食べたらよけい喉も乾くだろうし、やだな、って正直思ったんだけどさ……」
ふーん。意外とガハクは心の中では私の行動を否定しているようだ。つい最近もそんなことがあったような。
*先月回「ヒゲまで食べる、とうもろこし」参照
「……食べたらすーっと暑さと疲れが引いて、これはよい! って考えを改めたよ」
ジェラートかぁ、高校生の時に初めて食べたのは素敵な思い出だったけれど。
今年の夏で、氷菓全般は暑い時の危機回避と生命維持のための食べ物である、としっかり刷り込まれてしまった。
もう優雅な気持ちでジェラートは食べられないし、アイスキャンディーを食べるのは切羽詰まった時でしかない。フレンチでソルベが出てきても、暑い中助けられたことを思い出してしまうのだろうな。
■次回「ヒゲのガハクごはん帖」は9月第2水曜日に公開予定です。
●山口晃さんってどんな画家?
1969年東京都生まれ、群馬県桐生市に育つ。96年東京藝術大学大学院美術研究科絵画専攻(油画)修士課程修了。 2013年『ヘンな日本美術史』(祥伝社)で第12回小林秀雄賞受賞。
日本の伝統的絵画の様式を踏まえ、油絵で描く作風が特徴。都市鳥瞰図・合戦図などの絵画のみならず立体、漫画、インスタレーションなど表現方法は多岐にわたる。
主な個展に、2015年「山口晃展 前に下がる下を仰ぐ」(水戸芸術館現代美術ギャラリー、茨城)、18 年「Resonating Surfaces」(大和日英基金ジャパンハウスギャラリー、ロンドン)、23年「ジャム・セッション 石橋財団コレクション×山口晃 ここへきて やむに止まれぬ サンサシオン」(アーティゾン美術館、東京)など国内外展示多数。
2019年 NHK大河ドラマ「いだてん 〜東京オリムピック噺〜」のオープニングタイトルバック画を担当し、22年善光寺(長野)へ《善光寺御開帳遠景圖》を奉納。
25年には漫画雑誌連載作『趣都』(講談社)、本連載の17のエピソードをまとめた単行本『ヒゲのガハクごはん帖』を刊行。
ZENBI―鍵善良房―KAGIZEN ART MUSEUM(京都)にて開催中の
鍵善良房コレクション『京の菓子屋の舞台裏—黒田辰秋から鈴木悦郎、山口晃まで
へ出品。会期は11月3日まで。
山口晃 《好きなカフエーのおじいさん》 2013年 ©︎YAMAGUCHI Akira, Courtesy of Mizuma Art Gallery
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