美術史の豊かな知識を土台にして、当代一の画力を武器にどこにもない絵を生み出す。そんな人気画家、山口晃ガハクは夫婦揃って食いしん坊。日常で、旅で、制作中の日々で、散歩の途中で何を食べてるの? ガハクが日常を描くコミックエッセイ『すゞしろ日記』に「カミさん」として登場するガハク妻による食事帖。 日々の中にも奇跡はある。季節が整い、天気が良くて、暑くもなく寒くもなく、微風が通り過ぎる。そんな夕暮れには……
絵/山口晃
山口ヒゲ画伯こと夫(以下ガハク)は、基本的に家にこもって絵を描いているのだが、たまに仕事で外に出る機会もある。
春と夏の狭間ともいえるこの季節に、夕方近くになって外出から戻ってきたガハクが、うがい、手洗いもそこそこに、開口一番「『今日』じゃない?」と言った。
「『今日』ってこと?」
「そう、今日が『今日』の日かも」
毎年5月も中旬に差しかかる頃になると、「今日」がいつ来るのか、ガハクと私はそわそわし始める。
「今日」とはこの時期にのみ通用する、ふたりの間での符丁のようなものだ。
それは理想の夕暮れが訪れる日のことで、もちろん天気は晴れ。長袖シャツ一枚で快適に過ごせる暑くも寒くもないまさにちょうどよい気温で、さわやかな微風が感じられ、少しの蒸し暑さもないことが必須である。
蚊が出始めてしまったらもうシーズンは終わりで、翌年に持ち越しとなる。
秋にも同じようなよい気候はあるけれど、ここはやはり春から夏に向かうという浮き立つ気持ちも加味される必要がある。
以上のような気候的な条件が整い、ガハクと私がふたりして、屋外にてゆっくり一杯飲む(夕食はとらない。これはあくまでもアペリティフでゆとりなのだ)、という時間が取れた時に初めて、「今日」という状況になり得る。
そんな日はいくらでもあるでしょう、と言われるかもしれないが、完全に完璧な条件がちょうどよく揃う日は、本当に一年に一度あるかないかだ。
気温に関していうと、飲み始めた時は快適だったけれど、空が暗くなる頃には肌寒くなってしまった、もしくはその逆で飲んでいるうちに少し汗ばむ、などというのは許されない。ちょっと風が強くても、湿度を感じてもダメなのである。
また1匹でも蚊が出たら、血液型O型のガハクが真っ先に餌食になってしまうので落ち着けなくなってしまう。(蚊に刺されやすい血液型の説はガハクによってかなりの確率で実証されている)[編集部注:科学的、医学的に証明されているわけではありません]
楽しく飲んでいる間、身体的なストレスは一貫してゼロでなければならない。
しかし、それらしき天候の日が来たとしても、ガハクと私、ふたりして夕食前に都合よく出かけられるとは限らない。
ガハクが作業の手を止めて窓を開け「うーん、さわやか。ちょっと、これは『今日』なのかもよ」と問いかけてきたとて、制作がままならなかったり、提出物の締め切りの直前だったりすると、私は「そんな時間あるの? 今、1秒も無駄にできないんじゃないの?」と釘を刺さすように返答しなければならない。(これはガハクによく起こる一種の現実逃避。自分でも無理と分かっているのに希望を持ちたいのだ)
私の方も、フルタイムで働いていた頃は自由に仕事を切り上げるなど無理だった。今でこそ就業時間に囚われることは無くなったが、何らかの仕事で手一杯であったり、用事があったり、体調がすぐれなかったりと、いろいろ事情もある。
「今日」という場が実現するための一番のハードルは、ガハクと私とのスケジュール調整かもしれない。
「今日」が初めて出現したのは……遡って調べてみたところ、それは2018年の5月のある日のことだった。今が2026年だからもう8年前になる。
私はまだ雇われの身で、終業は午後6時だが定時で帰る日がまれだった。
窓のないオフィスにいた私は知るよしもなかったけれど、その日はとても気持ちのいい午後だったそうで、陽気に誘われたガハクは居ても立ってもいられずに夕方早い時間に散歩に出たらしい。
上着は必要なく、いくら歩いても汗をかくこともなく、道ゆく人々や犬だとか、小鳥とか、木々の緑や建築物を眺めながら、ガハクはその清涼な空気を存分に味わったことであろう。
すっかりよい心持ちになったガハクは、私に電話をかけてきた。
「散歩しようよ。仕事は早く切り上げてさ」
私があくせく働いている最中にそんな呑気な提案をしてくるガハクに対し、多少いらつきを覚えつつ、約束があればそれを口実に皆が残業をしている中でも気兼ねなく退社できるな、とも考える。
幸い、この日は一刻も早く終わらせなければならない重要案件もなかった。
「えー、何? いいよ。分かった」
同僚たちの聞き耳を気にしつつ、ややぞんざいにガハクに返事をする。
私の職場は家から歩いて通えるところにあり、終業時間を見計らってガハクが「近くに着いたよ」と電話をしてきた。やった、定時ですんなり帰れる。
いそいそと裏口から出てきた私を見て、さっきは「この忙しい時に何だよ」的な対応で、仕方ないから付き合ってやるかという態度だったにもかかわらず、このいかにもうれしそうな様子はいったいどういうことなのか、とガハクは少々あきれていたらしい。
「それで、どうするの?」
私はガハクに何かプランがあるのか聞いてみる。
「遠回りして家に帰ろう。途中、どこかで冷えた白(ワイン)を一杯飲むなんてどう?」
「わぁ、いいね」
そうして、まだ暮れきらない薄青い空の元、てくてくと家とは反対の方向へと歩き始めた。
確かに、ガハクがわざわざ呼び出したくなるのも分かる。
暑くも寒くもない静寂な夕方の空気は、あまりに心地よく、その中にずっと漂っていたくなる。
私の肩にこびりついていた仕事の疲れが、一歩進むごとに振り落とされて、心も身体も軽くなっていった。
もっと歩いていたかったので候補になりそうなお店の前を通り過ぎ、坂道をつらつらと下ってゆくと、何度か行ったことのあるバーが扉を開けたままにしていた。時間が早いのかお客は誰もいない。入口には大きな樽が置かれ、パラソルもある。
「すみません、外で飲むことはできますか」
「ええ、どうぞどうぞ」
店主が中から椅子を持ち出して樽の横に置いてくれた。
こんな日は室内に閉じこもっていてはもったいない。
「ちょうどいい、ほんとちょうどいいね」
ガハクが冷えた白ワインの入ったグラスを手に、深く感じ入ったようにひとりごちる。
本当にその通り。この気温と湿度の快適さは、実にちょうどよい。信じ難いほどにちょうどよい。
このような気候の中、ふたりが一緒で、こうして冷たい白ワインのグラスを傾けられるなんて、これ以上贅沢な時間の過ごし方があるだろうか。
長居はせず、グラスを空けたらお暇(いとま)し、夕飯用の買い物をしてから家に帰った。
その出来事があまりにも素晴らしく、楽しかったので、そんな日がまたあるかと期待したけれど、うまい具合に全てが重なる日はこの年にはなかった。
希望は翌年に持ち越して、「完璧な気候の夕方にふたりして外で飲む」機会が再びやって来ることを求め、5月になるとガハクも私も天候をやたらと気にかけた。
「『今日』なんじゃない?」
このように言えば、ふたりの間では暗黙の了解として、あの素敵な夕方のことを指すようになった。
こんなにも心待ちにしている「今日」なのだが、実は8年前の一度きりの事だったりする。
翌年も、その次の年も今までずっと、「『今日』かな?」と言い合いながら、機を逸してきた。「『今日』だったかも」という日に忙しかったり、「『今日』かも」と出かけてみたが蒸し暑かったり。なかなか「今日」をつかまえられない。
8年前の夢のような時間の記憶を後生大事にずっと持ち続けているわけなのだ。
冒頭の通り、今年は外から戻ってきたガハクが、歩いた時の気温や風の感触から「もしかすると『今日』なのか?!」と感じて、行ってみようと提案してきた。チャンスを逃してはならないと、日が長くなりまだ明るい青空が広がる中を私たちは勢いで出かけることにした。
だが、そもそも自然発生的でないこのセッティングに無理があったのかもしれない。
今回は外国人に人気という近所のホテルに併設されたカフェのテラス席に行った。
ポテトフライをつまみに一杯やったわけであるが、休憩中らしきスタッフが入り口付近に3人ほど集まって雑談を始めてしまった。ひとり大きな声の人がいて、話の内容がわんわんと響き渡ってくる。
ガハクは気もそぞろになり、すっかり黙り込んでしまい、私たちは自分たちの会話ができなくなってしまったうえ、喧騒でのんびりくつろぐこともできない。
さらには蚊もいたそうで、ガハクが「刺された!」と言って服の上から腕をポリポリと掻きだす。
グラスが空になった頃、スタッフ達もいなくなりようやく静かになった。日も暮れてきて、空が暗い。夜に近づいたのに少し蒸すかな、とも感じられる。
今日も「今日」ではなかった。
望みをかけた外出だったが、かなわなかった。
6月に入ってしまったので、今年はもう「今日」は来ないだろう。
来年に期待するしかない。
「今日」に巡り合うには年に一度すら無理で、数年に一度しかその機会がないとはまるで彗星のようでもあるが、彗星は計算でいつ来るのか分かるけれど、「今日」という日はいつやってくるのか分からない。
奇跡のような「今日」に今度はいつ出会えるのだろうか。
■次回「ヒゲのガハクごはん帖」は7月第2水曜日に公開予定です。
●山口晃さんってどんな画家?
1969年東京都生まれ、群馬県桐生市に育つ。96年東京藝術大学大学院美術研究科絵画専攻(油画)修士課程修了。 2013年『ヘンな日本美術史』(祥伝社)で第12回小林秀雄賞受賞。
日本の伝統的絵画の様式を踏まえ、油絵で描く作風が特徴。都市鳥瞰図・合戦図などの絵画のみならず立体、漫画、インスタレーションなど表現方法は多岐にわたる。
主な個展に、2015年「山口晃展 前に下がる下を仰ぐ」(水戸芸術館現代美術ギャラリー、茨城)、18 年「Resonating Surfaces」(大和日英基金ジャパンハウスギャラリー、ロンドン)、23年「ジャム・セッション 石橋財団コレクション×山口晃 ここへきて やむに止まれぬ サンサシオン」(アーティゾン美術館、東京)など国内外展示多数。
2019年 NHK大河ドラマ「いだてん 〜東京オリムピック噺〜」のオープニングタイトルバック画を担当し、22年善光寺(長野)へ《善光寺御開帳遠景圖》を奉納。
25年には漫画雑誌連載作『趣都』(講談社)、本連載の17のエピソードをまとめた単行本『ヒゲのガハクごはん帖』を刊行。
現在、東京藝術大学大学美術館にて開催中の「NHK日曜美術館50年展」(6月21日まで。7月18日より静岡県立美術館へ巡回)へ出品。
山口晃 《ショッピングモール》部分 2015年〜 桐生市蔵(大川美術館寄託) 撮影:木暮伸也 ©︎YAMAGUCHI Akira, Courtesy of Mizuma Art Gallery
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