
大阪中之島美術館で開催中の「日本美術の鉱脈展 未来の国宝を探せ!」。監修を務める美術史家の山下裕二先生が、知名度は低いものの自分の目で見て、驚いて、素晴らしいと太鼓判を押す作品ばかりを集めた展覧会です。縄文土器あり、江戸絵画あり、現代美術あり。時代やジャンルも飛び越えた、ここでしか出会えない作品たち。そのなかでも選りすぐりの作品について山下先生に語っていただきました。
聞き手=鈴木芳雄
文=藤田麻希
若冲もかつては鉱脈だった
——今回の展覧会のタイトルに「鉱脈」という言葉を使った意図を教えてください。
一般的な展覧会は、有名な作品を集め、多くの観客を呼ぼうとするものですが、この展覧会はそうではありません。掘り出して加工すれば光輝くけど、まだ人の目に触れることなく地中に潜んでいる。そんな、知られざる原石を秘める「鉱脈」を探ろうという展覧会です。まだまだ一般の人にとっては初めて見るものが大半ではないかと思います。まっさらな気持ちで見て「なんじゃこりゃ」と驚いていただきたいです。
——冒頭のセクションは「若冲ら奇想の画家たち」です。若冲は十分有名だと思いますが。
今でこそ日本美術の人気ナンバー1の絵師ですが、若冲でさえも2000年に開催された京都国立博物館の「没後200年 特別展 若冲」展以前は知られざる存在でした。僕の恩師である辻惟雄先生が1970年に『奇想の系譜』という本を上梓しました。この本で、伊藤若冲、曽我蕭白、長沢芦雪らを「奇想」というキーワードで、初めて本格的に論じたのです。僕は、大学3年生の頃にこの本を古書で買って衝撃を受けました。その後、学生時代の専門は室町絵画にしましたが、雑誌やテレビでは、奇想の画家をかなり応援してきました。僕と赤瀬川原平さんとの「日本美術応援団」の連載でも、雪舟、長谷川等伯に次いで、3番目に若冲を取り上げています。
——「日本美術応援団」の若冲の記事は、2000年の若冲展以前なのですね。
1996年です。その頃は、若冲がもっとも応援しがいのある存在でした。それが、20年後、2016年の東京都美術館の「生誕300年記念 若冲」展では44.6万人もの観客を集めるまでになりました。若冲ですらかつては鉱脈に潜む存在だったんです。
応挙と若冲。京都画壇の2トップが共演
——円山応挙と伊藤若冲の合作屏風の発見が話題になっていますね。
若冲と応挙の合作屏風は、昨年この展覧会の記者発表会を東京で開催したときに実物をお披露目して、大きなニュースになりました。若冲と応挙は、歩いて行き来できるほどの近所に住んでいましたが、2人の直接的な交流を示す資料は何も残っていなかったんです。

伊藤若冲 《竹鶏図屏風》 寛政2年(1790)以前 二曲一隻

円山応挙 《梅鯉図屏風》 天明7年(1787) 二曲一隻
——先生はどのようにしてこの屏風の存在を知ったのですか。
長年付き合いのある方から突然「こんな屏風があるんだけど」と画像を見せられました。補筆もないし、状態も完璧。心底驚きました。
——どうして合作だと言えるのでしょうか。
屏風のフォーマットが同じですし、金箔の貼り方も一緒です。なにより、両者の絵の構図が呼応して、バランスがとれています。右隻の応挙の鯉は、1匹は左向き、もう1匹は身をくねらせて視線を左側に誘導しています。梅の枝も左に向かって伸びている。それに対して、若冲の鶏や竹も右に向かって視線を誘導しています。若冲より17歳年下の応挙が先に描き、その絵を見てから、若冲が構図を決めたのだと推測できます。応挙の控えめな絵に対して、若冲の鶏の絵は画面にモチーフが占める割合も多く、「まだまだ若いもんには負けんぞ」という意気込みを感じます。
——松竹梅は日本美術にとって重要なモチーフですよね。この屏風では応挙が梅を描き、若冲が竹を描いています。松の描かれた鏡板の前に置いたとかも考えられるのでしょうか。
あり得ると思います。真ん中に松の盆栽を置いて、梅と竹の絵で囲んでいたとか。この屏風は、今年の秋に東京の三井記念美術館で開催する展覧会「円山応挙 革新者から巨匠へ」(会期:9/26 – 11/24)でも公開します。合作屏風は東京で初の一般公開になりますので、ご期待ください。
幻のモザイク屏風をたった1枚のモノクロ写真から復元
《釈迦十六羅漢図屏風(デジタル推定復元)》は、昭和8年(1933年)の図録に掲載された、1枚のモノクロ図版をもとに、2年近くの歳月をかけ、TOPPAN株式会社が推定復元したものです。僕は監修者としてこのプロジェクトに関わりました。正直、ここまで本格的に復元できるとは思いませんでしたね。ハイテクの印刷で、絵の具の盛り上がりまで出力で再現しています。

伊藤若冲 《釈迦十六羅漢図屏風(デジタル推定復元)》 2024年 八曲一隻 TOPPAN株式会社
——どのように色を決めたのですか。
釈迦の衣が赤、象が白といった決まりをもとに色を推測したり、どの色をモノクロフィルムで撮影すると、どの明度になるか分析して、逆にモノクロをカラーに置き換えていきました。
——大きさも推定しなければなりませんね。
分析していくうちに、「枡目描き」というモザイク技法を用いた静岡県立美術館の《樹花鳥獣図屏風》と極めて描き方が近いことがわかりました。その静岡本の一枡の大きさから、屏風の大きさを割り出しました。僕の先輩である小林忠さんは《釈迦十六羅漢図》と静岡の屏風が一具で、真ん中に「釈迦」、左右に「鳥獣」の屏風を立てていた可能性を指摘しています。
——図録のキャプションには、《釈迦十六羅漢図》の筆者が若冲だと書いてありますが、静岡本も若冲の作品であるという理解でよろしいでしょうか。先生は静岡本と類似する《鳥獣花木図屏風》(旧エツコ&ジョー・プライスコレクション、現出光美術館蔵)を若冲筆として応援してきたと思います。
若冲の作品としてよいです。僕は静岡本も《釈迦十六羅漢図》も、若冲が構想していると思うけど、すみずみまで描いたわけではないと考えています。そういう意味での「若冲筆」です。プライス本については、若冲自身がすみずみまで描いているという見解は変わりません。
べらぼうに腕の立つ謎の絵師・式部輝忠
——山下先生の学生時代の研究のテーマでもある室町水墨画の章もありますね。
まず取り上げたいのが、式部輝忠です。僕にとっての原点とも言うべき作家で、修士論文のテーマにしました。
——「梅樹叭々鳥図屏風」も、独特の魅力を感じました。
僕が論文を書いた当時、式部についての先行研究は何もありませんでした。いまだに伝記を示す資料は皆無で生没年もわかりませんが、作品数はかなり残っています。様式論のみで、16世紀の東国(神奈川県あたり)で活躍し、鎌倉の建長寺の祥啓、あるいは小田原の狩野派と接点を持っていたという説を立て、1984年、『國華』(日本・東洋美術史の専門誌)にデビュー論文として掲載されました。
それまでは印の読み方も間違えられて、「式部」という印を誤読で「龍杏」と読んでいたこともあります。東博(東京国立博物館)に展示された、式部の作品のキャプションが「龍杏筆」となっていたことをよく覚えています。当時の東博のキャプションは手書きでしたね。


上から右隻、左隻|重要文化財 式部輝忠 《巖樹遊猿図屏風》 室町時代(16世紀) 六曲一双 京都国立博物館蔵 ■展示期間:7/29 – 8/31
——そんな時代があったのですね。この屏風の猿たち、とてもユーモラスです。
山水のなかに遊ぶ擬人化された猿が、エビをつかまえて喜んでいたり、水面にうつった月を捕ろうとしている。全体にリズミカルな描法で、楽しくなる作品です。式部はプロ中のプロの絵師だったと思います。
奇をてらわない清潔なヘタさ。思わず笑みがこぼれる素朴絵
——観客の方がとくに反応している作品はありますか。
室町時代、あえて素人に描かせた絵を愛でることが流行ったのですが、そんな素朴絵に反応している人が多いですね。日本民藝館からお借りした「つきしま」。これほどヘタで素晴らしい作品はなかなかありません。ヘタウマとも違う本当のヘタです。字はなかなか流麗ですが、絵は子どもが描いたと思うくらい簡略的です。

《築島物語絵巻》(部分)室町時代(16世紀) 巻子(二巻) 日本民藝館蔵
——眉毛も目も一本線で、ゆるゆるですね。
でも、魅力的ですよね。絵は上手ければ良いわけではありません。上手くても嫌らしい絵ってあるじゃないですか。そんな絵とは真逆。これほど清潔でイノセントな表現はなかなかありません。
——《かるかや》は少し方向性が違うように感じました。
《かるかや》の魅力は乱暴さです。別れ別れになってしまった親子をめぐる悲しい話にもかかわらず、「なんでこんなに?」と疑問に思うほど、叩きつけるように描き殴っている箇所があります。人物に対して花がやたらと大きかったり、つっこみを入れればきりがありません。
じつは、《かるかや》に関して、僕の恩師の辻先生が絶賛しているんですよ。『芸術新潮』の35年前の国宝特集に、20人の識者に今後「国宝にするべき作品」を選んでもらうアンケートがあります。そのなかで辻先生は10点の候補作をあげ、このように書いています。
もうひとつ番外に、室町時代の御伽草子絵「かるかや」(サントリー美術館)をあげておく。この稚拙の極みともいうべきちっぽけな冊子が現実に国宝になるとはゆめ思わないけれど、室町こころの結晶ともいうべき純粋な表現は私にとっての心の「国宝」である。
辻惟雄「アンケート 私が推す『新国宝』」『芸術新潮』1990年1月
——辻先生のような、アカデミズムの中枢にいる先生が、番外に《かるかや》を入れるなんて、お茶目ですね。
金屏風に描かれる崩れそうな二条城
——「史上最もヘタな洛中洛外図屏風」というキャッチコピーの屏風も面白かったです。遠目で見ている分には普通の金屏風のようですが、近づくとびっくりします。

長谷川巴龍 《洛中洛外図屏風》 江戸時代(17世紀) 六曲一隻

長谷川巴龍 《洛中洛外図屏風》(部分) 江戸時代(17世紀) 六曲一隻
二条城が極めつきですね。ガタガタでいまにも崩れそうです。御所なんて見たことがないからとても適当。でも一応、お公家さんみたいな人物は頑張って描いています。壬生寺の猿の曲芸は実際に見たんでしょう、ディテールにまで実感がこもっている。もう一箇所絶対に行っているのが島原です(笑)
——花街ですね。
妙に詳しく描いていて、のれんにお茶屋の「輪違屋」の紋まで描きこんでいたり、太夫もいます。落款には「長谷川法橋巴龍筆」と書いてあります。「法橋」は絵師に与えられる位ですが、法橋の絵師がこんなにヘタなわけありません。こんなヘタな人によくぞ金屏風を与えてくれたと注文主を称えたいです。
これぞ鉱脈に眠っている作家・牧島如鳩
——先生がもっとも推している作品はなにですか。
出品作のなかで一番驚いたのは牧島如鳩の《魚籃観音像》です。三鷹市美術ギャラリーで2009年に開催された、牧島如鳩の展覧会(「牧島如鳩展 〜神と仏の場所〜」)で出会いました。如鳩の名前も全く知らない状態で見に行ったんですが、会場で作品を見て「なんじゃこりゃ!?」と心底衝撃を受けました。鉱脈展でも一つの主役として展示させてもらいました。

牧島如鳩 《魚籃観音像》 昭和27年(1952) 足利市民文化財団蔵
——油絵の観音というだけでもインパクトが強いですが、よく見るとさらに不思議です。
観音の左にはマリアや天使も描かれ、仏教とキリスト教がないまぜになっています。如鳩は、ハリストス正教会の伝教者として布教にたずさわった人で、イコン画家としても活動しました。仏教にも帰依し、最終的には神も仏もひとつであるという「仏耶習合」という独自の考えに至りました。
——観音が手に持っているものはなんですか。
魚籃観音が持っているガラス瓶のなかには、イワシの稚魚が描かれています。観音がまとっている衣は漁に使う漁網です。この絵は、福島県小名浜の漁業協同組合が豊漁を祈願するために如鳩に依頼したものです。だから漁業に関連するモチーフが登場するわけです。
完成した作品はトラックに載せられてお披露目され、その後、漁協の部屋に長らく飾られていました。如鳩の故郷にある足利市立美術館の学芸員・江尻潔さんが熱心に如鳩のことを研究し、展覧会を開催し、運良く3.11の直前に足利市民文化財団に所有権がうつりました。もし漁協の部屋に掛けられたままだったら、津波で流されていたかもしれません。
人間カメラ的な記憶力・笠木治郎吉
牧島如鳩に次ぐ注目の作家は笠木治郎吉です。明治時代に横浜で外国人向けの土産物の水彩画を描きました。提灯屋の店先や新聞配達人など、明治の風俗を生き生きと伝えています。今回展示した作品はどれも海外に渡っていたもので、治郎吉の子孫や熱心なコレクターが、インターネットの時代になってようやく買い戻したものです。これほど高い技量を持った人がいたのだと驚きました。

笠木治郎吉 《提灯屋の店先》 明治時代(1868 – 1912年)
——こんな光景があったのだろうなと思わせます。
この人は、目の記憶に非常に優れていたと思います。明治初期は、写真の技術が日本に入ってきていましたが、画家が写真を撮ることは到底かなわなかった時代です。治郎吉は自分が見た光景を、スナップショットを撮るように脳裏に蓄え、そのイメージを自由に引き出して描けたのだと思います。ちなみに、そういうタイプの本当に絵がうまい絵描きは、戦後は画家ではなくマンガ家になっているんですよね。

「日本美術の鉱脈展 未来の国宝を探せ!」展示風景 大阪中之島美術館、2025年
純粋縄文人・西尾康之
最後のセクションでは、縄文からインスパイアしてつくってもらった現代作家の作品と、本物の縄文土器を一緒に並べました。彫刻家の西尾康之君には本当によい作品をつくってもらいました。

西尾康之 《アルファ・オメガ》 令和7年(2025)
——この展示のための新作ということですか。
そうです。1年半くらい前に、縄文をテーマにした作品を依頼しました。《アルファ・オメガ》は、人間が滅んだ後に存在する最終兵器としてのイメージだそうです。
——どのような技法で制作しているのでしょうか。
彼は「陰刻鋳造」という独自の技法を用いています。普通、鋳造の立体作品は粘土などで原型をつくってから型をとり、そのなかに金属や樹脂を流し込みます。彼の作品には、原型が存在しません。粘土に指を押し付けて形をつくり、できあがったへこみに直接ファイバー・プラスターという素材を流し込んで成型します。つまり、この作品は西尾くんの指の痕跡でできているんです。縄文土器にも直接的に縄文人の指跡が残っています。じつに縄文的な作品だと思います。
エレガントな縄文土器と新進作家の縄文ドレス
——本物の縄文土器も展示されていますね。
縄文土器といえば、国宝の火焔型土器がよく知られていますが、山梨県立考古博物館の深鉢形土器(殿林遺跡出土)のような、左右対称のエレガントな縄文土器もあります。現在、重要文化財に指定されていますが、リアルに未来の国宝候補です。

「日本美術の鉱脈展 未来の国宝を探せ!」展示風景 重要文化財 日本遺産《深鉢形土器(殿林遺跡出土)》 縄文時代中期後葉(紀元前3000 – 紀元前2500年頃) 山梨県立考古博物館蔵
この奥に、現代作家・岡﨑龍之祐くんの《JOMONJOMON》があるのもポイントです。力強い曲線によるシンメトリーなフォルムが土器と共鳴しています。岡﨑くんはもともと縄文に心を寄せた作品をつくっている作家で、海外からも注目されています。この作品は着用することもできます。
驚きに突き動かされて、ここまでやってきた
——長年、山下先生の活動に注目してきた僕から見ると、山下先生のこれまでの仕事が凝縮されたかたちで出た展覧会だとも思いました。「雪村 戦国時代のスーパー・エキセントリック」展、「日本美術が笑う」展、「五百羅漢 増上寺秘蔵の仏画 幕末の絵師 狩野一信」展、「白隠展 禅画に込めたメッセージ」、第3弾まで開催した超絶技巧シリーズ、「奇想の系譜展」。そんな監修してきた多くの展覧会、雪舟、式部輝忠などの研究テーマ、そして会田誠や縄文など、応援してきた様々なエッセンスが登場し、まるで山下裕二史を見ているようでした。
僕自身が「なんじゃこりゃ」と驚いてきたものの歴史を見せているとも言えますね。5歳の頃に見たれんげ畑、小学6年生で衝撃を受けた横尾忠則さんの表紙の『少年マガジン』、高校2年で出会ったつげ義春さんのマンガ。こういった原体験からはじまり、美術史家になってからも驚きに突き動かされて、ここまでやってきました。そんな僕を驚かしてきた日本美術のなかから、選りすぐりのものを観客の皆さんと共有したいと思っています。こんな展覧会を開催して、昨年に大部な著作集(『日本美術をひらく 山下裕二論考集成』小学館)も出したし、そろそろ死んじゃうかもね(笑)。
——先生、同じことを10年前もおっしゃっていました(笑)。まだまだ活躍していただかないと困ります。

「日本美術の鉱脈展 未来の国宝を探せ!」展示会場にて
■所蔵先記載のない作品は個人蔵
会期|2025年6月21日(土) – 8月31日(日)
会場|大阪中之島美術館 4階展示室
開場時間|10:00 – 17:00[8/30までの金・土曜日、祝前日(8/8, 9, 10, 15, 16, 22, 23, 29,30)は10:00 – 19:00]入場は閉場の30分前まで
休館日|月曜日[ただし8/11(月・祝)は開館]
お問い合わせ|06-4301-7285 [大阪市総合コールセンター(なにわコール)/受付時間 8:00 – 21:00(年中無休)]
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