美術史の豊かな知識を土台にして、当代一の画力を武器にどこにもない絵を生み出す。そんな人気画家、山口晃ガハクは夫婦揃って食いしん坊。日常で、旅で、制作中の日々で、散歩の途中で何を食べてるの? ガハクが日常を描くコミックエッセイ『すゞしろ日記』に「カミさん」として登場するガハク妻による食事帖。 今夏のアメリカ〜イタリア旅の思い出の一つ「トリュフ=カツオブシ説」?!
絵/山口晃
その日は6月だというのに、天気予報でフィレンツェの最高気温は36度と信じたくもない数字が出ていた。太陽の光と熱が正午に向けてだんだんと強くなってゆくのを感じながら、山口ヒゲ画伯こと夫(以下ガハク)と共に平らかでない石畳の道を急ぎ足でサンタ・マリア・ノヴェッラ駅に向かう。
英語で旅、travel は古くは「労苦」や「苦役」を意味する言葉が語源であるとどこかで読んだ記憶がうっすらと呼び起こされ、「本当に!その通りだようぅ」と心の叫びが体内にこだました。
この話は前回の続きで、ニューヨーク、ヴェネチア、フィレンツェ、コルトーナ、ローマの5都市を巡った旅での出来事になる。
今回の旅行中は、今までになく行く先々で何かとアクシデントにみまわれた。
日本での準備段階から手間取ってしまい、宿泊、列車、レストランのリサーチ&予約などなどが一向に進まなかった。
なかでもニューヨークのホテル予約は選択肢が多すぎて、一番後回しにしてぐずぐずとしていたところ、ガハクに、
「1ヶ月後なのにまだ予約してないの!? 早くしないといい部屋からなくなっちゃうよ」
とやや責めたてる口調で言われる始末。くやしい、ひとりですべてを手配している私に対し、大体の事柄にのんびり進行なガハクからこの言われよう。
なんでこんなに時間がかかるのだろう、久しぶりの旅行とあってブランク期間中に脳の働きがすっかり衰えたのかと自分でも心配になった。
けれどもよく考えてみれば、リサーチ個所が5都市あるということは1都市滞在に比べて5倍の時間と労力がかかって然るべきなのだった。
ということは、旅で起こるちょっとした事件との遭遇率も5倍になるのもやむなしなのかと妙に納得する。
それで、なぜフィレンツェにて、暑い中タクシーにも乗らず歩いて駅へと移動しているかというと、ホテルから至近だったわけでも節約したわけでもない。
街の主要道路がイベント開催のため所々で封鎖されて、タクシーが使えなかったのだ。
元凶となったイベントとはツール・ド・フランス。これってフランスでやるものなのでは? という疑問がよぎるが、今回は史上初のイタリア開幕だそうで、それはいいとしてせめて他の都市から出発してほしかった。
本イベントがあることは部屋にお知らせの手紙が置いてあったので分かっており、「開催日はタクシー走行が制限されるので事前にフロントにご相談を」と書いてあった通り、読んですぐ相談に行った。通常より1時間ほど余裕を持ってフロントに来てくれたら大丈夫という話であったが、いざ当日10時にチェックアウトを済ますとデスクにいたお兄さんは、
「今、タクシー会社に電話したけれど手配は無理だって。駅まで歩いて10分くらいだから問題ないよ。(地図を示しながら)ほら、こう川沿いに歩いて曲がるだけ」
と、えらくイージーな対応をしてくれた。
なんだか今ひとつ信用できないな、という予感は的中。ホテルの外に出てみると、歩道沿いに金網フェンスが張り巡らされて道を渡る事ができないうえに、見物客が集まり始めて容易に身動きもとれなくなってきていた。車道に出られるフェンスのつなぎ目を見つけてあちら側へ渡ろうとしても係員に制止されてしまう。困り果てていたわたし達の前に、小型のスーツケースを携えたおそらく同じ境遇に陥った地元のマダムが登場、警備員に大声&早口で猛烈に抗議をし始める。ものすごい剣幕で一歩も引かない様子に、これは勝てる、と感じたわたし達はマダムの後ろにくっついて離れまいとした。
そのおかげで最初の関門は突破できたが、その後も至る所が封鎖されていてかなり大回りをする羽目になった。
先のマダムは矢のごとく去ってとうに姿が見えなくなり、日が照って暑くて眩しいし、列車の時間を気にしながら見知らぬ道を行くのは心細いしで、心身共にじわじわとストレスが増していく。
石の敷かれた道をガタガタと重いスーツケースをパトラッシュのように懸命に引いていくのはガハク。途中、道を確かめるために立ち止まったり、人で混雑している場所もあったりで、ふたりで徒歩移動をする際に大きなスーツケースがひとつきりというのはずいぶんと身軽になれて助かった。
そこでつくづく実感した。ガハクの「スーツケースはひとつ」というポリシーは理に適っていたのだと。ガハク、あなたの方針には完全に同意いたします、と素直に言っておこう。(先月回参照)
足止めされたり迷ったりした時間も含め、ホテルを出てから小一時間ほどで蒸し風呂のように暑い駅舎に着き、普通列車にも無事乗り込めた。冷房の効いた車内に座ると、どっと疲れがなだれてきたが、まだまだ旅は続く。掃除の行き届いていない汚れた窓越しに徐々に緑の多くなる景色を眺めながら気を引き締めた。
散々な目に遭ってもう旅行なんてしたくないと思っても、時間が経てば楽しかった、また行きたいと180度気持ちが変わってしまうのは、やはり「おいしいもの」のおかげであろうか。
時をさかのぼってフィレンツェ到着日に戻る。旅も中盤になると何を食べるかはその時の気分や体調次第になるから、前もってディナーの予約はしていなかった。
しかし、国内外問わずいいお店は予約必須な昨今、目星をつけていた所は軒並み満席で、たいてい「夜9時半だったらOK」だと返された。それはちょっと遅すぎだしお腹も空いたなぁ、と疲れた足を引きずっていた午後7時のこと。
「泊まっているホテルの屋上がオステリアだったよね。そこはどう?」
とガハクが提案してきた。
わたし達が宿泊していたのは、日本でいう雑居ビル的な上層階に入っていて、目立つ看板もなく、数人しか乗れないエレベーターが辛うじてついているような、内装はかわいいけれど豪華さは皆無な三つ星ホテル。そんなグレードのホテルに併設されたオステリア、果たして期待できるのかできないのか。
疲労の加減からすると、ごはんを食べてすぐ、階段を降りるだけ、ほんの2分で部屋に戻れるというのは魅力的だ。
テーブルが空いていたら決定、ダメだったら2時間後にまた街に出よう、と運に任せることにして階上に昇っていった。
この時間でも夏のヨーロッパの空はまだ青く、色とりどりの花のある植栽で囲まれた開放感のあるオープンエアの店内は白いテーブルクロスが清潔感を漂わせ、予想していた以上に素敵で居心地のよい雰囲気だった。
本来なら予約が必要とのことだったが、宿泊客であると伝えたら90分の時間制限付きで案内してもらえた。明日はウフィッツィ美術館の午前入場のチケットを取ってあるし、元々それほど長居するつもりもないから十分だ。
遠くにフィレンツェの街並みを眺めながら、もしかしたらそこそこ値の張るお店かもと覚悟を決めてメニューを開いたところ、このロケーションにも関わらず良心的な価格だ。品揃えとしては昨日までいたヴェネチアと比べると、魚介類が一気に姿を消し肉類やチーズなどの重い食材が勢揃いし、目を通しているだけでボディブローが効いてきそうになる。
オーダーしたのは、調理法がユニークそうな「モッツァレラチーズのフライ、サンドイッチ仕立て」を前菜としてシェア。2皿目はガハクが「フレッシュポルチーニのパスタ」で、わたしは「イノシシ肉のラグーパスタ」を。
ポルチーニのパスタは、次に移動するコルトーナでいつも食する絶品パスタと比較してみるべく選んでみた。
まず前菜が運ばれてくる。気を利かせて最初から2つに取り分けて銘々の前に皿を置いてくれたのだが、「あれ? ふたり分では頼んでいないですよ」と言ってしまったくらいのボリュームがある。一片が7cmくらいの三角形の薄い食パンに挟まれたチーズが素揚げされていて、チーズソースがたっぷりとかけられている。それなりの高さがあり、装飾チョコレートのようなひらひらしたグレーがかった淡いベージュ色の切片が全面にまぶされているので、サンドイッチというよりはケーキを彷彿させる見た目で趣向が凝らされているが、チーズ on チーズは結構な迫力である。
食べてみると、チーズソースが非常に風味豊かで、フライの香ばしさととろけるチーズの対比があって面白い。
しかし、この独特の風味、何気なくあたりまえのように振りかけられているけれど、トリュフ・・・ では? そういえばサマートリュフの季節であった。
「これ、やっちゃいけないやつだよね」
ガハクが言う。気に入らないのだろうか。
「どういうこと?」
「チーズがフライになって、そこにトリュフだよ。これだけ固め打ちされてきたらおいしいというしかないでしょう」
揚げ物好きのガハクにはヒットしたようだった。
続くパスタ類。ガハクにコルトーナのそれとの違いをたずねてみると、「こちらの方が麺が太くて、味はさっぱりめ。全然別ものといった趣だから、違う料理として味わっている」とのこと。わたしの食べたトマトソース仕立てのイノシシ肉のラグーはくさみもなく、いかにもこの土地らしい食材を楽しめた。ラグーの量はパスタが見えないほどにたっぷりで、最後は格闘状態となり完食したのだった。
移動の手間が省けるという旅館的な使い勝手があまりに便利だったので、このお店に次の晩の予約を入れることにした。
実は、隣で女子3人組が、トリュフが盛り盛りにかかったパスタを食べているのを見てしまったのだ。こんな料理もあったとは。テーブルいっぱいに3つのお皿が並んだ様は壮観で、香りがこちらにまで漂ってきた。明日はあれを絶対食べる!と密かに誓う。
ちなみにだが、トリュフ、ひたすらトリュフな料理も特別価格の設定がまったくなし。ゆえに、メニューを読んでいてもトリュフが使われていることをつい見逃してしまう。
翌日、再訪してオーダーしたのは、万を期して「トリュフのパスタ」と「ミラノ風カツレツ」。昨日の教訓でボリュームがあることが予測されたので、どちらもふたりでシェアすることにした。
早速の一品目。帽子をひっくり返したような形状の皿の真ん中のくぼみに、細めのスパゲッティが小山のように盛り付けられ、ふわふわと薄く削られたトリュフで覆われている。ふんだんに振りかけられたトリュフは、皿の縁にまでぱらぱらと飛散している。
店員さんが取り分けましょうか?と聞いてきたので、プロにお任せすると、それぞれの皿に立体感をつけて盛ってくれた。分けられてみると、量が上品すぎたかな、と一瞬感じたものの、麺に絡んだクリームソースがとても濃厚で、この量で食べるくらいがトリュフの風味を堪能できてわたしたちにはちょうどよかった。
そして、メインのカツレツ・・・。
「またトリュフだ」
ガハクも呆気にとられた様子。
平たく延ばされた直径20cmくらいの肉の上にはこってりしたチーズソースと、表面を埋めつくすほどにトリュフが満載だった。
元々カツレツは肉が叩かれて薄くなっているが、衣に包まれたうえチーズとトリュフの主張が強烈で、肉は歯応えを提供するのみで味はほとんどしない。食べても食べてもずっとチーズとトリュフという状態が続いた。
ここまでくるとやりすぎの感もして、ありがたみよりも当惑の方が大きくなる。
見た目もだけれど、
「カツオブシみたいな存在ってことなのかな。ここフィレンツェでのトリュフって」
わたしがつい言ってしまう。
「ちょっとちょっと」
気分が台無しになるからやめてという風にガハクが軽くたしなめるが、何にでもぱらりと添えられているのはまさにカツオブシ的。普段使いの調味料といった扱いだ。とりわけ見た感じは色も形状も本当にそっくりだし・・・。
ただ、さすがに味にはカツオブシの方が慎ましく、トリュフはどこに隠れていても際立ってくるのでやはり別格なのか。
その後行ったローマにおいてもトリュフがメニューにあった。海に面したヴェネチアでは全然お目にかからなかったので、土地土地での食の違いが感じられて興味深かった。距離としては列車にてヴェネチアからフィレンツェを経由してローマまで約500km、日本でいうと東京から京都くらいか。
旅先ではわりとひとつの食べ物に固執するガハク。前に旅した時も、いつもボンゴレだったり、ヴィーナーシュニッツェル(ウィーン風カツレツ)しか頼まなかったりなど、同じものばかりを食べ続けていた。「飽きないの?」と聞くと、「だっておいしいから」と返ってくる。食べ比べたいわけではなさそうで、意外と食に保守的でものぐさなのかもしれない。
ということで、ローマでもトリュフのパスタに挑む。この地ではトリュフは本日のおすすめという別紙に載っていたり、口頭でのみ案内されるなど、やや特別扱い。
1日目のオステリアでは価格は普通、2日目のカフェでは他のパスタ類の倍の値段がつけられていた。
トリュフパスタというと基本の形状は同じなのか、ここでもクリーム(とチーズ?)のソースをしっかり絡めたスパゲッティにトリュフが振りかけられていたが、フィレンツェでのフレーク状とは異なり2軒ともスライスされた円形状をしていた。きれいな円形ではらりとさせた方が都会的という地域性演出なのか、店の個性かまでは分からないが気になる点であった。
「トリュフパスタをいろいろ食べたけど。どこが一番おいしかった?」
これだけ様々食したことだし、ガハクに一応聞いてみた。
「トリュフのパスタでしょう? もう店は関係ないよ。大阪のうどんみたいなもので、どこで食べてもうまい」
つゆといえば醤油かというくらい真っ黒であるのが通常の関東の人間にとって、大阪のうどんつゆのきらめくような透明感がまず驚愕で、口にすると色に反してしっかり出汁の味わいが広がるというおいしさはもうイリュージョンなのだ。
はぁ、なるほどね。わたしの腑に落ちた。やっぱりカツオブシ?
■次回「ヒゲのガハクごはん帖」は9月第2週に公開予定です。
●山口晃さんってどんな画家?
1969年東京都生まれ、群馬県桐生市に育つ。96年東京藝術大学大学院美術研究科絵画専攻(油画)修士課程修了。 2013年『ヘンな日本美術史』(祥伝社)で第12回小林秀雄賞受賞。
日本の伝統的絵画の様式を踏まえ、油絵で描く作風が特徴。都市鳥瞰図・合戦図などの絵画のみならず立体、漫画、インスタレーションなど表現方法は多岐にわたる。
主な個展に、2015年「山口晃展 前に下がる下を仰ぐ」(水戸芸術館現代美術ギャラリー、茨城)、18 年「Resonating Surfaces」(大和日英基金ジャパンハウスギャラリー、ロンドン)、23年「ジャム・セッション 石橋財団コレクション×山口晃 ここへきて やむに止まれぬ サンサシオン」(アーティゾン美術館、東京)など国内外展示多数。
2019年 NHK大河ドラマ「いだてん 〜東京オリムピック噺〜」のオープニングタイトルバック画を担当し、22年善光寺(長野)へ《善光寺御開帳遠景圖》を奉納。
東京都現代美術館で開催中の「日本現代美術私観:高橋龍太郎コレクション」へ出品。
会期|2024年8月3日(土) – 11月10日(日)
会場|東京都現代美術館 企画展示室 1F/B2F、ホワイエ
https://www.mot-art-museum.jp/exhibitions/TRC/
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