美術史の豊かな知識を土台にして、当代一の画力を武器にどこにもない絵を生み出す。そんな人気画家、山口晃ガハクは夫婦揃って食いしん坊。日常で、旅で、制作中の日々で、散歩の途中で何を食べてるの? ガハクが日常を描くコミックエッセイ『すゞしろ日記』に「カミさん」として登場するガハク妻による食事帖。 今夏、アメリカやイタリアを旅してきたガハク&カミさんの食日記はじまりはじまり!  

 

絵/山口晃

ずっと遠出を控えていたが、4〜5年ぶり、ついに海外へ出かけることになった。旅程は13泊16日間で2週間を超え、荷物も当然相応の量になるであろう… そう思って山口ヒゲ画伯こと夫(以下ガハク)に意を決して伝えた。
「荷物は2つだよね。大きいスーツケースとコロコロ(機内持ち込み可のキャリーケースの我が家での通称)」
「コロコロって何で」
・・・少々いやな雰囲気。

「2週間以上になるからさ、いろいろと入り用なものもあるでしょう」
「何が?」
「ほら、あなたの仕事道具とか、そういうのは機内に持ち込んだほうがよくない?」
仕事道具とか、はもっともらしい適当な言い訳。スーツケースひとつにふたり分の着替えは十分に入れられるのか。訪問先で資料をもらうかもしれないし、お土産を入れるスペースがなくなることが気がかりでならない。
「旅の間は仕事はしないし」
え、それでは間に合わない案件が多々あるのでは・・・。
「もうイヤなの! 旅先でずっとホテルに篭っているのは」
ガハクがたまりかねたように理解を求めてくる。思い返せば今までの旅の80%くらいは、
・ガハク、部屋で仕事。わたし、外出
・ガハク、夜間スタンドの灯りのもと仕事。わたし、寝る
というパターン。
特に海外でそれが顕著であり、ガハクは一体何しにこんな遠くまで来たのか、ということがしばしばあった。

おそらく、ほとんどの方があまりにありえなくて読み飛ばしたと思われる前述のワンフレーズ、「スーツケースひとつ」。
ガハクの中で「旅行時のスーツケースは一家につきひとつ」が掟になっているのだ。
スーツケース2つと言わず、もうひとつは機内持ち込みの小さいキャリーケースでいい、と言った時点でわたしとしてはすでに譲歩しているのだが。
「持つのはオレだから」
「わたしの分は自分で持つから大丈夫」
「そういう訳にはいかないでしょう」
いきますよ。これまでも出張の時は自分一人でどうにかしてきたのだから。なぜここだけ紳士を気取るのか。

スーツケースといえば引き出しや化粧ポーチの中に近いプライベートな領域でもあり、シェアするとなると常に整理整頓も強いられるわけで、正直、いくら家族でも共有するのはあまり気が進まない。が、わたしが示せる程度のぬるいロジックではガハクを説得するのは無理で、またしてもスーツケースはひとつになった。
こっそり持っていくこともできないし、どうしたらいいだろう。実際中身をつめてみて、入りきらなかったら「やっぱりコロコロが必要」と訴えてみるしかない。小さくともエキストラがあるというだけで、随分気も楽になるというのに。
ところが、ガハクからのプレッシャーにわたしの精神と手が圧縮袋化してしまったのか、必要なものすべてが1個に収まってしまった・・・。必須とはいえない夜用のローヒールパンプス一足を予備で入れることすらできた。
ちなみに、スーツケース内でガハク私物(結局仕事関係も多少あり)が占めたスペースの割合は、ペラペラのポリエステル製スポーツ用Tシャツをわざわざ2枚購入した甲斐もあってか、全体の五分の一程度だった。

ふたりでスーツケースはひとつ、という状態に空港での荷物預け、タクシーなどで、「ふーん・・・」という特に驚きまではしないけれどどこか釈然としないような空気が、一瞬相手から流れてくるのを毎度感じる。わたし自身、どうも腑に落ちない。しかしながら、今回の旅の道中、ガハクの選択が正しかったとつくづく感じさせられた事件が起こったがそれはまた追って。

そもそもこの長旅が決まったきっかけは、ガハクの作品が米国、ニューヨークのメトロポリタン美術館で展示されたことによる。(会期:2023年12月16日〜2024年7月14日)
なんでも某コレクター氏が所有していたガハクの作品をメトロポリタン美術館に寄贈してくださったそうで、日本美術セクションの企画展にて収蔵品のひとつとして公開されることとなったのだ。
古今東西の美術品が集められている美術館にガハクの作品が収まり展示までされるとは、にわかには信じ難かった。
そうはいっても遠いからね・・・ と当初は見に行くつもりは特になかったけれど、年が明け、やっぱり滅多にないことだから見ておくべきなのかも、と考え始めた。
今年は前回スキップしてしまった恒例のヴェネチア・ビエンナーレへの旅に出かけようとしていたこともあり、何度も出かけるのは面倒だから一気に両方行ってしまおうか、と流れで決まってゆく。太平洋を越えて米国へ、その後大西洋を渡ってブリュッセル経由でイタリアへというルートの旅は、「世界一周航空券」というなんとも心躍る名前のチケットを使用して巡ることに。
ヴェネチアへ行くのなら、列車でトスカーナ地方の田舎町コルトーナにも立ち寄ってフラ・アンジェリコの《受胎告知》を見てポルチーニパスタを食べたい、そうなると経由するフィレンツェを素通りしてしまうのはもったいなく、帰りの飛行機が出るのはローマか・・・ と「世界一周航空券」の恩恵は駆使できなかったものの、いつの間にか5都市をめぐる旅のプランができてしまった。

米国では他にミーティングをする用事も出来てガハクのギャラリー担当者も同行し、メトロポリタン美術館にて2006年制作の旧作とも久々にご対面、会うべき方々にも会って滞りなく任務を終了した。

後半のパートはいよいよイタリアだ。仕事関係の方々とも別れ、飛行機の出る夕方までニューヨークにて一息つく。
「おすすめのベーグル店があると聞いたのですけど、山口さんの泊まっているホテルの近くみたいですよ」
そう教えてもらったので、最後の自由時間はランチでこのベーグル店を訪れようと決めていた。情報源はニューヨーク在住のアーティストさんとのことで期待大である。
「お昼はここに行こう」
チェックアウトまで、午前中は仕事に充てているガハクに店のウェブサイトを見せる。

ややレトロな雰囲気のデザインで、丁寧に作られて情報量が満載、ユニークなロゴマークが印象的なサイトだ。主にガハクに見ておいてもらいたいのはお店の場所で、確認すると大通りを渡って1ブロック先とものすごく近かった。
メニューも掲載されていて、サンドイッチの具材多数、ベーグル以外の焼き菓子、ドリンクなどなど、びっしり文字でうまっており目を通すだけで大変だ。
「事前に大体決めておこうか、どうする?」
「何があるか読んで」
大まかな項目と、オーダーするであろうベーグルサンドイッチのコーナーを上から順に読み上げていくと・・・。
「あ、BLT。BLTにして」
「また?」
「だっておいしいでしょう。最高の組み合わせじゃない」
サンドイッチの類はなんでも、いつでもBLTのガハクだった。たぶんカリカリベーコンが好きなのだと思う。

スーツケースひとつをホテルのフロントに預け、じりじりと照らす太陽のもとニューヨークの街に出る。6月半ばだというのに連日30度近くでげんなりする。日本と違って湿気が少ないのだけが救われる。
なんだかんだ忙しかったり暑かったりでホテルの周りをあまり散策しなかったが、わりとお店もあって楽しそうなエリアだ。以前行ったあのハンバーガー店もそう遠くないはず・・と思う間もなくすぐ目的地に着いた。
「もしかして、あそこかな・・・?」
10人くらいの行列が目に入る。お昼時とあって混んでいて、様子をうかがうと店内にも列はぞろぞろと龍が舞うように続いている。
「どうしよう、あきらめようか」
「いいよ。並んでみようよ」

ガハクが暑い中並んでも構わないというので列の最後尾についてみる。出口とおぼしき扉からぽつりぽつりと紙袋を持つ人たちが出ていき、列は思ったより早くずいずいと前に進んでいった。
「中で食べられるかな」
お店の盛況ぶりに果たして席につけるか心配になるが、お客さんはテイクアウトが多いようだ。
体感的には長く感じられたけれど実際は10分もしないで店内に入れた。大勢の人々がいる熱気のせいか、室内の冷房の効きはゆるめだがやっとひと心地つける。
店内は、真ん中の大きな台にパンや焼き菓子などすでにパックされた商品がぎっしりと置かれ、それを取り囲むように一筆書きで入口から出口へとお客の列が出来ていた。
道路に面した窓際にテーブル席2つ、入ってすぐの壁際にカウンター席が6〜8席、奥にもテーブルがひとつくらいあっただろうか。
奥の壁沿いにはペットボトルや缶のドリンク類の入った冷蔵庫があり、買いたい人はここから出してもっていく。出口のある壁側にハム、チーズ、カットされた野菜類が入った大きな冷蔵ケースがどーんと備わり、その後ろにサンドイッチを作るスタッフ3〜4名が待ち構え、それぞれが忙しなく次々注文に応えている。
肝心のベーグルは冷蔵ケースの上に置かれた水槽のような箱の中に、様々なトッピングのものがごちゃごちゃと積み重なっていた。種別に陳列などされてない、出来上がった順に放り込んでいったかのように適当な山になっている。
そして最後にレジが出口前に配置されていた。
「ここでなくて外で食べるかね」
店の状態からガハクが提案してきた。カウンター席は半分以上空いていたが、並んでいるお客さんの列が至近距離で背後にくることになり、確かに店内で食べるのはかなり落ち着かなさそうだ。
「さっき道端に座れるところがあったじゃない、そこに行こう」
ガハクの言うように、ここへの道すがらベンチが6脚ほど置かれた一角があって、ランチタイムを過ごしている人々を見かけた。暑そうだったけれど。

さて、待っている間にどうやってオーダーするのか観察しておかなければならない。メニューを指差している様子が全くなくて、どうやら皆口頭で伝えているようだということが分かってきた。事前にHPにて予習してきたのでなんとかなるとは思うけど、やや気の重いシステムだ。そうしているうち、巨大なガラスケースの上の電光掲示板が定期的に変化していることに気がついた。そうか、これがメニューだ。でも種類が多すぎるから一気に全部は表示されず部分的に順ぐりに現れ、すごく便利、とはいえない。

次の方どうぞ、と店員さんから身振りで合図され、いよいよわたしの番だ。オーダーしようにも冷蔵ケースがわたしの顎くらいまでに高く邪魔をして、上を向いて背伸びをし懸命に大きな声を出す。聞こえたか不安であるが、お兄さんはうなずいているので通じたようである。

「ベーグルはどれにする?」ベーグルが無造作に積まれた透明ケースをトントンと叩きながら店員さんがたずねてきたので、種類もよく分からないしここは指差しが確実かと思い好みのものを示しながら「これをBLT、こちらをサーモンで」と伝えた。そしてアイスカフェラテ小サイズもひとつ。(ひとつで足りるわたしたち・・・)

ビニール袋を手に、カフェラテをこぼさないように気をつけて店を出る。わたしは戦利品を得てなんとなく達成感がある。

日差しを気にしつつ、目星をつけていた場所に行く。お店から数軒離れただけ、同じブロック内だ。30分ほど前は混み合っていたベンチにはもう誰もいない。
なるべく日陰になる席を選んで、大きな包みを開けてみる。
「・・・食べ切れるかな」
ベーグルサンドイッチが巨大であるのは想定内だ。直径15cmほど。半分に切ってくれてあるのがありがたい。
予想はしていたが、やはりその厚みが尋常ではない。ガハクのBLT、数枚のベーコンで1cm、トマト部分2cm、レタス&アボカドにより2cmで、合計8cm厚くらいはある。わたしのサーモン版も、気前よく何層にも重なるスモークサーモンがレタスをはさんでダブルで来て、そこにたっぷりのクリームチーズが追加され厚みは7cmにはなっていただろう。

もう、どこから食べ始めたらいいのか途方にくれる。ご想像の通り、強く噛み付くと中身がにゅーっと押し出されてしまう。とにかくお行儀が悪くならないように、ぼろぼろとこぼしたりなどせぬよう気をつけて、ちまちまかじかじ、ウサギかリスのように懸命に口を動かすしかない。
ここのベーグルはもちもち度があまりなく、パリッとした食感で具材とのなじみがよい。ただ具の盛りがすごいため、ほぼおかずを食べているような印象で、時折ごはん的にベーグルが差し入ってくる状態。わたしの方は常に新鮮なサーモンが出てきていたが、味わう余裕はそんなになく、ひたすらベーグルサンドイッチと向かい合って戦い続けている感じだ。
「なんか、食べ方がかたよるのか上の部分だけなくなっちゃうよ。下にパンだけが残る」
ガハクが困ったように言う。
「わたしは回しながら上下も均等に食べるようにがんばってるよ」
わたしは、こちらを食べたら水平に回転させてあちらをかじるという方法で、なんとか乗り切っていく。
「それで、あなたのはおいしい?」
重要な味について聞いてみると、
「うん・・・アボカドが入っているのが面白い」
こちらを振り返る事なく、斜め下を向いたままのガハクはもごもごしながら答えた。
悪戦苦闘、必死になって食しているわたしたちの目の前に、同じくベーグルをテイクアウトしてきたお兄さんふたりがベンチに腰掛けて食べ始めた。
ちらと見ると、お兄さんのひとりが下から口ですくい上げるように分厚いベーグルサンドイッチをかじっていたが、あまり不躾に見てしまっては失礼なので、どう食べるのかものすごく興味があったけれど視線を送らないように努める。
がさごそと、最初の一片にあてがってあった耐油加工の紙を丸め、ようやくわたしたちが2つ目の半身に取り掛かろうとした頃、お兄さん方は包装紙をゴミ箱にささっと捨てて、颯爽と立ち去っていった。
「はや!」
やっぱり彼らが食べる様子を盗み見ておくべきだった。
商品としてこの厚さになっているからには、地元の人たちにとっては苦にもならず一気にそのまま口に入れられるのだと思われる。どうするのだろう、厚いサンドイッチを口か手で楽に潰すコツでもあるのだろうか。

同じようなことが以前ギャラリー勤務をしていた頃にもあった。米国のとある都市で電気モノの作品設置に立ち会った際、皆でデリにて買ったチキンサンドイッチを食べたが、15cmほどの長さの硬いバゲットのようなパンに具が挟まれ、厚さも今回同様7〜8cmに及ぶもの。日本人技師たちとわたしがばらばらと中身を落とし、噛みちぎるのに近い形でパンに対処している中、高いフィーを支払われて急遽ニューヨークからやってきたというエンジニア青年は、雰囲気としては3口くらいでぺろりと食べてしまい、指先についたパン屑をちょっと払っただけでスマートにランチを終えたのであった。
改めて今回、ニューヨークでは8cm厚のサンドイッチ類を5分以内で優雅に食べ切ることができないと住めないのかも、と思ってしまう。
大きさに圧倒されることなく、しっかりフィリングとのコンビネーションまで味わうことができてこそこの地での生活を満喫できるのではないだろうか。

これから機中泊、ブリュッセル経由でヴェネチアへとまだまだ旅は続く。

■次回「ヒゲのガハクごはん帖」は8月第2週に公開予定です。

●山口晃さんってどんな画家?
1969年東京都生まれ、群馬県桐生市に育つ。96年東京藝術大学大学院美術研究科絵画専攻(油画)修士課程修了。 2013年『ヘンな日本美術史』(祥伝社)で第12回小林秀雄賞受賞。
日本の伝統的絵画の様式を踏まえ、油絵で描く作風が特徴。都市鳥瞰図・合戦図などの絵画のみならず立体、漫画、インスタレーションなど表現方法は多岐にわたる。
主な個展に、2015年「山口晃展 前に下がる下を仰ぐ」(水戸芸術館現代美術ギャラリー、茨城)、18 年「Resonating Surfaces」(大和日英基金ジャパンハウスギャラリー、ロンドン)、23年「ジャム・セッション 石橋財団コレクション×山口晃 ここへきて やむに止まれぬ サンサシオン」(アーティゾン美術館、東京)など国内外展示多数。
2019年 NHK大河ドラマ「いだてん 〜東京オリムピック噺〜」のオープニングタイトルバック画を担当し、22年善光寺(長野)へ《善光寺御開帳遠景圖》を奉納。

フランスのドーヴィルで開催中の「浮世:ジャポニスムから日本の現代アートまで」へ出品。
会期|2024年6月22日(土) – 9月22日(日)
会場| レ・フランシスケーヌ(フランス、ノルマンディー、ドーヴィル)https://festivallitterairedeauville.com/en/programming/floating-worlds

山口晃 《東京圖 広尾─六本木》 2002年 森美術館蔵 ©️YAMAGUCHI Akira, Courtesy of Mizuma Art Gallery 撮影:木奥惠三

コメントを入力してください

コメントを残すにはログインしてください。

RECOMMEND

カルダーが部屋に招いてくれたような展覧会

ライター・エディター

小倉倫乃