リュソンの画家彩飾 《時祷書零葉》 フランス、パリ 1405-10年頃 内藤コレクション 国立西洋美術館蔵 「受胎告知というオーソドックスなテーマの一枚です」

神の世界を視覚化したような中世の写本は、見るたびに心が洗われ、情報過多の脳がリセットされるようです。 国立西洋美術館で開催されている「内藤コレクション 写本 — いとも優雅なる中世の小宇宙」では、約150点もの写本などが展示。 内藤コレクションとは、筑波大学・茨城県立医療大学名誉教授の内藤裕史氏による写本零葉を中心とした蒐集。何十年もかけて買い集めた作品の数々を国立西洋美術館にほとんど寄贈されるとは、写本に宿る神の力に突き動かされたのでしょうか……。[辛酸]

そんなありがたい展示を観賞しました。本から切り離された1枚1枚が展示されているのでサイズは小さいですが、羊皮紙などに金や色鮮やかな色彩の絵の具で描き込まれているからか、小ぶりでもオーラを放っているようです。 
15世紀に印刷技術が発明される以前、ヨーロッパで書物といえば写本でした。羽根ペンを用いて丁寧に文字を書き、冒頭にはイニシャルを配置、空いているところには挿絵が描かれ、美しい装飾がほどこされます。かつて写本を書く作業は修道士や修道女が担っていましたが、次第に市井の職人にも仕事が依頼されるようになったそうです。
人々の信仰を支え、知識を伝えるのが写本の役割でした。展示の構成はいくつかの写本のジャンルのコーナーにわかれていました。

1章は「聖書」です。中世ヨーロッパにおける最も重要な書物なので、気合いを入れて制作されていたようです。今、流通している聖書を開くと、すごい細かい文字がびっしりですが、中世の聖書の箇所をとりあげた写本は、色とりどりで挿絵入り。仏教美術の鮮やかな曼荼羅と比べても遜色ありません。

《聖書零葉》[イングランド 1225-35年頃]は、上から下までの長い「I」のイニシャルの中に、天使や太陽と月、アダムとイヴなどが金色をふんだんに使って描かれていて、神々しさと素朴さが漂っています。写本の魅力の一つは、ヘタうまと言ったら天罰が下りそうですが、中世のタロットカードに通じるような、味のある絵のタッチです。もともと修道士や修道女が描いていたので、彼らの本職ではない天然の画力のたまものなのかもしれません。

《聖書零葉》イングランド 1225-35年頃 内藤コレクション 国立西洋美術館蔵 「大きな『I』のイニシャルが目立っています」

2章は「詩編集」。旧約聖書の中で神の栄光をたたえるのが「詩編」で、礼拝の中の祈りの重要な要素になっています。《詩編集零葉》[南ネーデルラント、おそらくヘント 1250-60年頃] は、金色と青のコントラストが目を引きます。そして欄外に不思議な鳥たちの絵が描かれていました。授業中の落書きみたいで楽しく、詩編のハードルが少し下がりそうです。

《詩編集零葉》南ネーデルラント、おそらくヘント 1250-60年頃 内藤コレクション 国立西洋美術館蔵 「欄外の鳥の絵が落書きっぽいです」

3章は「聖務日課のための写本」。聖務日課は決まった時刻に行われる一日8回の礼拝 (公的な礼拝)で、修道院や教会の典礼の基本だそうです。なんと1日8回もの礼拝が……これは目の保養になる「写本」を見ないとモチベーションが上がりません。礼拝は「詩編」朗唱を中心に、福音書等の朗読、聖歌などから構成し、日替わりで引用する文章が変わったそうです。礼拝で唱える文章をまとめて収録したのが「聖務日課書」です。
印象的だったのは《モンテプルチャーノのミサ聖歌集》[イタリア、ピサ (?) 1340年代]という一枚。「聖処女の祝日」の聖務日課で歌われる聖歌を記した紙葉だそうです。乙女が天使に向かって祈りを捧げていますが、背後には暗い顔をした男性が。剣を手にした男性は乙女の首を斬り落とそうとしていたのです。今まさに乙女が殉教しようとする瞬間を描いたサスペンス感ある挿絵でした。聖歌といっても心安らかな内容ばかりではなく、刺激的なストーリーもあるようです。聖処女の祝日が制定されたことで、乙女の魂は浮かばれたのでしょうか……。

4章「ミサのための写本」は、メインの儀式であるミサのための書物についての展示です。《朗読集零葉》[カスティーリャ王国 1500年頃]の紙葉には、女性の顔と鳥の体が合体した不思議な生き物が描かれていました。 ギリシア神話の伝説上の怪物、ハルピュイアに着想を得たものだそうです。聖書には出て来ないと思われますが、挿絵はわりと自由だったのでしょうか。

6章「時祷書」は、一般信徒たちが日々8回行っていた礼拝に用いられた書物で、「聖務日課書」を簡略化した内容でした。「中世のベストセラー」と呼ばれるほど、多く制作されていたそうです。《祈祷書零葉》[ドイツ南部、アウクスブルクもしくはニュルンベルク(?) 1524年頃]は、何の象徴か、料理に向かって矢を射る男性のシュールな挿絵が印象的です。

《祈祷書零葉》ドイツ南部、アウクスブルクもしくはニュルンベルク(?) 1524年頃 内藤コレクション 国立西洋美術館蔵 「料理に矢を射るという男性の挿絵が謎めいています」

一見して優雅なデザインの《ウェールズのヨハンネス『説教術書』零葉》[アラゴン連合王国、カタルーニャ 1400年頃]は、実は厳格な内容でした。
「奴隷たちは主人に対していかほどの忠誠心を抱くべきか」
「不忠儀な奴隷たちの不適切な振舞と懲罰について」
といった項目が書かれているそうです。よく見ると葉っぱのデザインも刺々しく、奴隷に対する厳しい態度を表しているようです。

8章「教会法令集及び宣誓の書」には、教会法令集由来の作品が展示されています。今でいうコンプライアンスの説明書みたいなものでしょうか? 中でも《グラティアヌス『グラティアヌス教会法令集』》[フランス南西部、トゥールーズ(?) 1320年頃]の挿絵は、ゴシップ雑誌感がありました。夫が捕虜になって長年家を開けている間に、妻が別の男性と結婚してしまった,という事例を取り上げています。何かを切に訴える夫らしき男性の背後で、妻が不倫相手の男性とイチャついている挿絵が描かれています。娯楽が少ない時代、一見まじめな「教会法令集」にも、ときどきスキャンダラスな話題が混じって、民衆の好奇心をかき立てていたのでしょう。「教会法令砲」の情報伝達力もあなどれません。

《グラティアヌス『グラティアヌス教会法令集』(ブレーシャのバルトロマエウスの「標準注釈」を伴う)零葉》フランス南西部、トゥールーズ(?) 1320年頃 内藤コレクション(長沼基金) 国立西洋美術館蔵 「よく見るとサレ夫の背後にイチャつく二人が……」

他にも「世俗写本」の「トーナメント書」や、「暦」関係の星座のイラストなど、興味深い写本の数々が展示されていました。中世の写本の魅力とは…… 一見禁欲的でまじめ風ですが、よく見ると全体的に脱力系イラストで、変な生き物や、俗世のゴシップ、刺激的な内容が混じっていて、密かに楽しめる、というところでしょうか。会社や学校、世間のルールに縛られている現代人も共感できます。節制された生活の中でも、人は笑いや娯楽要素を見つけることができる、という処世術にも心が救われる展示です。

ジョヴァンニ・ディ・アントニオ・ダ・ボローニャ彩飾《典礼用詩編集零葉》イタリア、ボローニャ 1425-50年 内藤コレクション 国立西洋美術館蔵

内藤コレクション 写本 — いとも優雅なる中世の小宇宙

会期|2024年6月11日(火) –  8月25日(日)
会場|国立西洋美術館 企画展示室

開館時間|9:30 – 17:30[金・土曜日は9:30 – 20:00]入館は閉館の30分前まで

休館日|月曜日、7/16(火)[ただし7/15(月・祝)、8/12(月・休)、8/13(火) は開館]

お問い合わせ|050-5541-8600(ハローダイヤル)

 

■巡回 札幌芸術の森美術館 2024年9月7日(土) – 9月29日(日)

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「村上さんはずっと進化を続けてるね」

美術史家、
東京大学名誉教授、多摩美術大学名誉教授

辻 惟雄