美術史の豊かな知識を土台にして、当代一の画力を武器にどこにもない絵を生み出す。そんな人気画家、山口晃ガハクは夫婦揃って食いしん坊。日常で、旅で、制作中の日々で、散歩の途中で何を食べてるの? ガハクが日常を描くコミックエッセイ『すゞしろ日記』に「カミさん」として登場するガハク妻による食事帖。
超多忙な日々の中、予期せずもらった時間の隙間(?)。さっそく口福に浸ったガハク、翌日まで幸福が続きました。秋ですね。  

 

絵/山口晃

2023年も秋になり、マスク人口もすっかり減って様々なイベントが普通に行われるようになってきた。
山口ヒゲ画伯こと夫(以下ガハク)も美術館で対面のトークを数年ぶりで行い(本人はマスク着用)、また先達てはパッケージとラベル用にガハクが作品を描き下ろした某蒸留酒のローンチイベントがあった。
場所は青山、絵の拡大コピーが随所に貼られ、ポップな和風?セットの組まれた会場で、蒸留・製造の最高責任者との通訳をはさんでのトークセッションや試飲があり、大勢のゲストが集まるにぎやかな空間に身を置くことになった。

「ふぅぅ——・・・」
イベントが終わった後、カギの付いていない小さな控室でガハクがやや放心してため息をついた。
「・・・疲れた・・・」

特に難しいことは何もなかったものの、催し物があるとどうしても人あたりしてしまう。
目の前にあったお茶菓子の個包装された煎餅に手をのばし、機械的な動作で封を切り、ぼんやりとした表情でバリバリとかじっている。
扉の外にスタッフの行き交う雑音が聞こえるだけの、無言の時間が10分くらい経過した後、「帰らないとね」と荷物をまとめて部屋を出た。

「ちょっと歩きたい」
「はいはい」
イベントの後、たいていガハクは心身ともに疲れ、まるで干からびたスポンジ状態で、どこかで軽く一杯やらないと持ち直せない。付近に気安いカフェかバーがみつかるとよいのだが。
もう暗くなった青山界隈の落ち着いた町の中をあてもなく歩きながら、わたしはガハクに声をかけてみる。
「それとも夕ご飯食べていく? 人混みがいやでなければ」
・・・聞こえているのかいないのか、返事はない。が、とりあえず放っておく。

一区画くらい歩いてから唐突にガハクが言葉を発した。
「確かこのあたりだと思う。前にHさんが連れて行ってくれたお店」
Hさんはガハクが初期の頃から仕事上でいろいろとお世話になっている美術関係者だ。
「・・・和食の?」
「そう」
「ほんとに? もっと隣の駅の方じゃなかった?」
「いや、この近く」
来た道と違うところに来ているし暗いので、方向音痴のわたしは今どこにいるのかまったく見当がつかず、なんともこれ以上反論のしようはない。
「でも、ああいうお店は予約しないとだからいきなり行ってもだめじゃない?」
「電話番号と住所が(スマホの住所録に)控えてある」
ガハクにしては珍しい。そんなマメなことをしていたなんて。
「住所言うからGoogleマップで道順調べてよ」
「その前にお店に入れるかどうか電話で確認して」
と、わたしの言葉を聞くなり即電話をかけるガハク。いつものお任せモードがなく手際よい。
電話をかけながらガハクがわたしに指でOKのサインを送ってみせた。平日だったせいか個室であれば席があるそうだ。
本来ならばここで悠長にごはんなど食べている場合ではないくらい、ガハクの前にはまだ山積みになった仕事があるのだけれど、これは「今日はゆったりディナーをとってよろしい」という天からのお告げと受け止めよう。

スマホの経路検索にぐずぐずと手間取っているうちにガハクはどんどん先に歩いて行ってしまう。私は追いかけながら操作するのでなかなかマップを表示できず焦る。
ガハクはいくつか横道を覗いてみては戻るを繰り返した後、「ここ、ここ」とスマホより先に目的地を探り当てた。
さすがおそるべき方向感覚を誇るガハク。脳内では常に鳥瞰図が映し出されているのか?

車通りの少ない裏道に面した中庭のような敷地を恐る恐る進んでいくと、店舗とオフィスの入った低層の複合ビルにたどり着く。ガラス張りのモダンな外観の建物1階に控えめなのれんがそっと下げられており、それをくぐるとその先は別世界となるのだった。
扉を開けるとすぐにお店の人がにこやかに迎え入れてくれ、わたしたちは秘密基地のような小さな個室に案内された。壁面上部からガラス越しに外の景色も見えるので、そんなに窮屈な気はしない。
隔離されたスペースなので、カウンターの方の様子は分からないが、若いお客さんの声がにぎやかに響いている。
お店の名付け時に助言をしたというHさんがここへ連れてきてくれたのは、若い板前さんが独立して間もない頃であった。その後しばらくして、すっかり人気店になったとHさんがうれしそうに教えてくださり、また行ってみたいとは思っていたが、記憶をたどり指折りかぞえてみると、最初に来てからもう8年くらいが経過していて、あまりに月日が経ちすぎてしまったのではと、我ながら驚く。
けれども、さっき店内に一歩踏み入れて感じた、薄暗く、けぶるような異世界へ迷い込んだ先に明かりが灯り、料理が供される卓が突然現れる・・・という幻想的な印象は前と同じで、1度きりしか来たことがなかったにも関わらず、馴染みの場所に戻ってきたような気になった。

担当の店員さんは黒いベスト着用でスマートな洋装。まず温かいおしぼりと飲み物のメニューを渡される。
先ほどのイベントでウイスキーを飲んできたので、日本酒の前に一呼吸おいて、まずはビールを。うすはりグラスに注がれたビールを飲んで、まさにほっと一息。
そうこうしているうち、最初の一皿が運ばれてきた。
カニに菊のあんかけ仕立て。カニ味噌がトッピングされている。
「おまかせなんだね」
お品書きなどあるのかと待っていたけれど、すでに料理はスタートした。本日のディナーに一体いくらかかるのか分からないが、クレジットカードがあるので料金のことはひとまず忘れることに。

「・・・そうそうこういうの、こういうものが食べたかったのよ〜」
ガハクの口調が妙にソフトになる。
とろりとしたあんの出汁の味に菊のかすかな苦さが効いて、カニをさらに引き立てる。出だしの一品にてすでに俗世を忘れ味覚の旅へと連れ出された。
お皿が引かれた後、黒いタレと塩の2つの小皿が置かれる。
「もうお造り? 日本酒を頼まないとかな」
ガハクが浮き足立ったようにつぶやいたそばから次にやってきたのは、松茸のフライ。
「岩手産の松茸でございます」
黒いタレは出汁ソースとのこと。
縦に4等分に切られた松茸は、細かな衣がきせられてこんがり濃い目の色に揚がっている。
傍らにちょこんと添えられたぎんなんの素揚げが色味的にもアクセント。
かぼすをきゅうきゅうと絞って口に入れるとやわらかな松茸の風味がする。
「フライにしてしまうのはもったいなくない?」
とわたしが言うと、
「いや、衣をつけることでむしろ風味を閉じ込めているのだと思う。・・・それにしても日本の松茸は上品でいいね。外国産だと香りがちょっと強すぎる」
なんだかガハクは随分知ったことを言うではないか。どこでそんなことを覚えたのかな?

次はお椀。黒塗りの器を開けると、蓋の裏には金泥で描かれたすすき野原と満月の絵が。すまし汁の中に焦げ目の入った松茸と甘鯛が手前と奥に並び、さらに丸く線状に切り取られたかぼすの皮が。見事に蓋の絵とシンクロしている。
耳を澄ませてかすかな音を聴くように、薄く絡み合ったそれぞれの味を見つけていくことに集中する。ガハクの口数も少なく、「はー」だの「うーん」という言葉を小声で発している。

お造りのための醤油、おろしポン酢の薬味皿が卓に準備されるやいなや、ついにこの時がきたとばかりに心をはずませて日本酒をお願いする。おすすめされた中から知っている銘柄を一合頼むと、徳利や片口ではなく竹を模した形状の銅筒にて供されてきて、見た目になんと楽しいことか。
ただし、筒自体に重みがあり、お酒をグラスに注ぎながらガハクいわく、
「残りの量が測りにくい」
だそう。なくなったら追加するまでか。

そしてやってきたのが枯れ葉のように渋い焦げ茶の皿に盛られたカツヲのタタキと鯛。
わさびの横には塩とすだちも添えてあり、薬味は好みで自在に組み合わせられる。
「まずは塩だよね?」
ふたりとも真剣に悩みながら順番を考えるのであった。

続いてはちょっと重めで、焼いたのどぐろに天然のマイタケ。
「マイタケの産地はどこって聞いた?」
ガハクに聞かれるが、特に説明されなかった気がする。
かぼすをかけてもまだぐいぐいくる脂の乗った魚に対し、しゃきっとシンプルなきのこが箸休め的な存在になってくれる。
わたしはここでも器をチェック。
「秋だからもみじで、海のイメージでサザエ?」
それを聞いてガハクが絶句する。
「これは流水紋。水の上に散ったもみじが流れる様を現しているんだってば・・・。この渦がサザエの蓋に見えたわけね。はぁー(ため息)」
もみじを模して縁のぎざぎざしているお皿は半端に丸い形状なので、サザエっぽくもあるのだ。

そしてちょっとおもしろいものがくる。コノコあんかけの茶碗蒸し。やや生臭く網っぽい食感のコノコを、茶碗蒸しになった鶏卵が絶妙に受け止めて、自身にもある生臭さによって応答する。ところでコノコとはおいしいけれど考えると怖くなる海の何かの卵か肝かだが何だっけ、ということでガハクが食べ終わってからお店の人に尋ねると、「ナマコの卵巣でございます」と教えてくれた。タマゴ✕タマゴの合わせであったか。

その後は埼玉産の天然うなぎとカブを炊いたお碗。もみじの描きこまれた陶器の蓋をあけると、裏側には山が近景、遠景で2つ赤い色で描かれていて、紅葉の様子が思い起こされる。
「いい香りだわ〜」
うっすら出汁の香る湯気を吸い込むガハク。
大きめの木の匙で、薄紫色をしたシソの花がまぶされたわさびをくずしながらいただくと、ふわふわのうなぎになめらかで透明なカブがすいっととろけるようにのどに消えていく。
「いやぁ、めくるめくですな」
次々と出てきた料理の数々に、ガハクが今度はおじさんっぽくよろこびの感想をもらす。

お食事は手打ちそばで、4種から選べておかわり時に違うものに変更もできるとのこと。
まずはガハクがごまダレ、わたしがきのこ汁のかけを。ごまダレは汁気のないタイプでとても濃厚だったそう。わたしの方はきのこが山盛り入っていてやや濃い目のお汁、おかずがもう一品増えたかのようだ。
もちろんどちらもおいしい、おいしいのだけれど・・・
「おかわりをセイロでお願いします!」
と、ふたり声を揃えてオーダーした。やはりおそばはシンプルに限るという結論。
そば湯がこれまで見たことがないくらい、甘酒のように白くとろとろして、ちょっとしたスープのようだった。

最後の甘味で(わたしが勝手に)驚く。
陶器の茶碗に栗のババロア、上には薄く切られた栗のシロップ漬けが乗せられている。
「・・・これ、見た目茶碗蒸し」
「やめなさいよ」

ふざけたわたしをガハクがたしなめる。言う方はともかく、聞かされた方は味覚がおかしくなってしまいそうなのだとか。ちょっと分かっていたけれど。
けれども一口食べればそんな悪ふざけも瞬時に忘れる。控えめな甘さと栗の甘皮の渋みが溶け合って、たくさんのおいしい料理を食べて昂ぶっていた気持ちが落ち着いていく・・・。

店を出て大通りまでぷらぷらと歩く。この数日で一気に肌寒くなった。
「どうですか、気分は。すっかり切り替えができたかな」
スカーフを首元に強く巻き付けながら、わたしはガハクに声をかけた。

・・・翌日、ガハクはまだ幸せの余韻にひたっていた。
「はぁ〜。昨夜は楽しかったわー。おいしかったわー」
いそいそとその辺にあった適当な裏紙を手元に引き寄せる。
「忘れないように描いておかなくちゃね」
そう言って、時おりわたしにも確認をとりながら、ちまちまと鉛筆でメモのような料理の絵を描きつけていった。
「たまの贅沢のいいことはね、その時も楽しいけれど、後で思い出すと何度でも楽しいということ!」
ガハクが名言を残した。

■次回「ヒゲのガハクごはん帖」は11月第2週に公開予定です。

●山口晃さんってどんな画家?
1969年東京都生まれ、群馬県桐生市に育つ。96年東京藝術大学大学院美術研究科絵画専攻(油画)修士課程修了。 2013年『ヘンな日本美術史』(祥伝社)で第12回小林秀雄賞受賞。
日本の伝統的絵画の様式を踏まえ、油絵で描く作風が特徴。都市鳥瞰図・合戦図などの絵画のみならず立体、漫画、インスタレーションなど表現方法は多岐にわたる。
主な個展に、2015年「山口晃展 前に下がる下を仰ぐ」(水戸芸術館現代美術ギャラリー、茨城)、18 年「Resonating Surfaces」(大和日英基金ジャパンハウスギャラリー、ロンドン)など国内外展示多数。
2019年 NHK大河ドラマ「いだてん 〜東京オリムピック噺〜」のオープニングタイトルバック画を担当し、22年善光寺(長野)へ《善光寺御開帳遠景圖》を奉納する。
アーティゾン美術館にて個展「ジャム・セッション 石橋財団コレクション × 山口晃 ここへきて やむに止まれぬ サンサシオン」を開催中(〜11月19日まで)。

山口晃 《来迎圖》 2015 年 作家蔵 撮影:浅井謙介(NISSHAエフエイト株式会社)©YAMAGUCHI Akira, Courtesy of Mizuma Art Gallery 「ジャム・セッション 石橋財団コレクション × 山口晃 ここへきて やむに止まれぬ サンサシオン」出品

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山口 晃