美術史の豊かな知識を土台にして、当代一の画力を武器にどこにもない絵を生み出す。そんな人気画家、山口晃ガハクは夫婦揃って食いしん坊。日常で、旅で、制作中の日々で、散歩の途中で何を食べてるの? ガハクが日常を描くコミックエッセイ『すゞしろ日記』に「カミさん」として登場するガハク妻による食事帖。 さて、今回はかき氷の話(食事じゃないけど)。ガハクはどんなかき氷がお好きでしょうか。 絵/山口晃
とある30度超えの午後、銀行振り込みにでかけていた山口ヒゲ画伯こと夫(以下ガハク)が汗だくになって帰ってきた。
着替えなどをしているガハクに、
「かき氷にしようと思うんだよね」
と私がつぶやいた。
「ほんと?! いいねー、いいねー」
ガハクが飛び上がって振り向き、レフ板を当てたのかというほどに顔が明るくなり目をきらりと輝かせた。
しまった。タイミングがとても悪かった。
「・・・今度書くコラムのテーマだよ。季節的にいいかな、と」
「!!! ひどい、あなたは本当にひどい。武術の達人かと思うくらいひどい」(致命的な打撃を適切に与えてくるから、だそうだ)
ガハクは心痛のあまりオーバーアクションとなり、手のひらを差し出して震わせつつ心情を訴えてくる。
「かき氷、と聞いてしまったら、すぐあのシャリシャリと冷たい感じを思い出すでしょう?もう心の中は期待でいっぱいだったのに・・・」
そして、落語家のようにかき氷を食べる仕草を実演もしてくれた。
「こうさ〜、あー冷たい、って。暑いときはベタッとじゃだめなの。(アイス)クリームではなくて、口の中に氷が当たるのがよいわけ」
誠に申し訳ない。珍しくわたしは全面的にガハクに同情した。
かき氷。数年ごとに定期的なブームが到来していたようだがわたしは傍観している方だった。(ガハクに至ってはブームすら知らない)
氷の原料は水・・・それでケーキと同等の価格帯なのがやや引っかかる。なかなか減らない山盛りの氷のせいで、例の頭がキーンとする現象が起こるし、咳も出るしで、自分にとって縁遠い存在であった。
けれどもある時、事態が変わった。
2011年の夏、妹と金沢に旅行をしたときのこと。金沢21世紀美術館の近くにお気に入りの甘味屋があり、今回もいそいそと立ち寄った。
広い店ではないけれど、大きく取られたガラス戸越しに小さな庭が見えたりしてとても落ち着く。メニューはしぼられているがきっちりと作られた逸品ぞろいで、毎度何にしようか迷う。
あんみつやパフェもあるけれど、やはり本わらびもちや本葛の葛きりかな・・・と思案していると、もわもわとわた菓子のような白く大きな塊がいくつも目の端々にひっかかってくる。
どうやらそれらはかき氷。そういえば夏に来店したのは初めてだった。
ほとんどのテーブルでオーダーされていて、傍らには小さなビーカーもしくは片口のようなグラスに入ったくすんだピンク色をしたシロップが置かれている。
「なんかさ、すごく気にならない?」
失礼のないようにそっと指さしつつ、こそこそと声を落として妹に相談する。
「思った」
「どうしよ」
普段ならどんなにトッピングやシロップがユニークで魅惑的であっても気に留めなかったはずであるが、ここではあちこちでかき氷がゆらゆらとやわらかなオーラを放っていて、どうにもただごとではない。
「かき氷2つお願いします」
程なくして、薄く削った氷がこんもりと盛られたお盆が運ばれてきた。傍らには白桃のシロップが添えられている。
氷は真っ白で雪のようにまぶしい。不透明で濃厚そうなシロップは、桃の外皮をそのまま転写したかのようなピンクからやや彩度を落とし、愛らしくもシックな色合い。
早速、そっとガラスの器を持ち上げて、シロップをとろとろと少しかけてみる。その部分の氷がすっと溶けて一瞬躊躇するが、まだまだ下部はふかふかしたままを保っている。
金属のスプーンを口に運ぶと、冷えた桃の味。あまりにも桃そのものなので、シロップのかかった氷というよりは、凍った桃が削りだされたかのようだ。
妹とふたりして思わず感嘆の声をあげ、次のひとくちへと向かう。
シロップの桃加減が素晴らしいのはともかく、食べ進むうちに氷のやわらかな冷たさに気がついた。
「・・・この氷、あったかくない?」
「え?」
「いや、ちゃんと冷たいんだけど凍えないというか、口の中に突き刺さってくるようなキンキンの冷たさがないよね」
そのせいか頭に響く金属音もなく、咳き込みの前兆もまったくでてこない。
のど元を通り過ぎていくときの冷たさがとても静かなので温かみすら感じるのだ。
科学的根拠もなくこの現象について考えてみたのだが、製氷器の氷はとても長く持っていられないけれど、雪玉だったら素手でもけっこう大丈夫。とするとかき氷の氷が雪のようにほわっとしている形状に要因があるのかは不明だが、それと同じような理屈なのだろうか??
冷たさのグレードは思いのほか幅広いことを改めて認識したが、数々の冷たさと照らし合わせるとこのかき氷は “温かい” ということになる。
冷たいと舌もマヒしてしまうが、温かさがあるゆえじっくりシロップと氷との調和を味わうことができるというわけだ。
この一品にはすっかり感激してしまい、こんなかき氷があるなんて! と今までの認識をすっかり改めた。
概念を変えた感動のかき氷、ぜひガハクにも食べてもらいたい、と思ったけれど、金沢は決して近くはなく季節も限られている。そんなことで、その後2〜3年経ってからようやく一緒に訪れるチャンスが巡ってきた。
まるで桃みたいな味がするものすごいかき氷なんだよ! とわたしが力説し、ガハクに食べてもらったのだけれど、
「でも・・・桃は桃で食べることに勝るものはないんじゃないの?」
その通り、といえばそうです。
浮かれがちな私と違って、ガハクはもっと本質的なものを求めるタチなのであろう。
特に桃はガハクが非常に好きな夏の果物なので評価が厳しくなるのも道理でもある。
さて、素晴らしかったかき氷体験から、暑い外より戻って一瞬の涼やかな夢を無惨に打ち砕かれた、冒頭のガハクの話に戻る。
その日は不幸中の幸いでたまたま冷凍庫に気の利いたデザートがあった。アイスクリームを板状のマカロンで挟んだというちょっと洒落たもの。
「そうだそうだ、今日は素敵なアイスがあるからそれでおやつにしない? かき氷ではないけど、少しは涼しくなるよ」
目新しいお菓子の存在に興味がそれて、ガハクの落胆状態も落ち着いてくるようだった。
「さっきかき氷にすいぶん反応していたけれど、そんなに好きだったっけ?」
パステルカラーのマカロンをもぐもぐしながら私がガハクに質問する。
「まぁほどほどに」
「お店で頼んでいるのを見たことがないけれど?」
「だいたい店で出てくるのは量が多すぎるからね。かき氷はこのくらいの器でいい」
と、ガハクは両手の人差し指と親指とをくっつけて直径10cm弱くらいの円を作って見せる。
「小さいサイズならいいんだ? 金沢のかき氷の時、それほどでもなさそうだったから、興味がないのかと思ってた」
「ふわふわのかき氷は桐生の駄菓子屋で子どもの頃にすでに食べていたからね」
やや自慢げにガハクが言った。
ガハクの通っていた駄菓子屋では、夏になるとかき氷を作っていたのだそうだ。
器械から氷が削り節のように薄い層になって出てくるところを、均等に盛れるように店のおばさんが手首のスナップを効かせてくるくると小さい器を回しながら氷を受ける様を見るのが好きだったらしい。
軽く山ができたところで一度やさしく氷を押さえつけ、さらに追加で削り出してふわっと形作って完成するのだという。
「2度盛るというのがポイント。ふんわりしつつ、下地を作ってあるからシロップをかけてもすぐにべしゃーっと溶けてしまったりしないわけ」
シロップをかけるときも、おばさんは熟練した技を披露するかのように手首を回して受け止めていたとのこと。
「シロップの種類は?」
「あまり覚えていないけど、よくあるレモン、いちご、メロン、みぞれ・・・じゃない? 練乳とあずきのトッピングがあったような、ないような」
「どの味が好きだった?」
「どうだろう。レモンが多かったような気がする」(消去法的なニュアンス?)
ガハクの話を聞いて、自分も小さかった頃の夏のことを思い出していた。
せいぜい小学校低学年頃までのことであったが、夏休みになると家庭用の手動のかき氷器を始動させるのが定番だった。
専用の製氷器で作った円筒状の氷をセットして、ハンドルをぐるぐる回すとザリザリした細かい氷が出てくる仕組みで、氷を削る音が微妙にガラスを引っ掻く音を連想させるのでそれがやや気に触ったものだった。
氷にかける鮮やかすぎる色をした市販のシロップは、色によってメロンかも? いちごなの? とかすかに想像させるだけで、甘い味は基本同じだったような。
食べているとのどが冷えて咳き込み、頭痛がするタイプのかき氷であったが、妹たちと作る過程はそれなりに楽しくもあり夏休みの小さなイベントになっていた。
そして市販のシロップを1本使い切れないままにいつも夏が終わったものだった。
近年お店で提供される口溶けのよいやわらかな氷に果汁そのもののシロップのかかったかき氷は素晴らしくおいしいけれど、それはもう別物のデザートなのだと気がついた。
かき氷、といえばざくざくした食感で冷たすぎて、合成シロップで味付けされているものが先に思い浮かぶ。
おそらくガハクも似たような感覚であり、駄菓子屋で食べていたかき氷が基準になっているので、それ以上に着飾ったり巨大化してしまうとまた違う種類の氷菓子と認識するのだろう。
「かき氷といえば夏休み、かな」
アイスクリームをほぼ食べ終えながら、わたしも昔話をしようかとガハクに語りかけたのだが、
「そういえば夏休みなんてもう長らく縁がない・・・」
毎日が夏休みであると同時に毎日24時間が仕事状態のガハクは、ふとそんなことに気付いてしまったようで、うれしいとかなしいが入り混じった複雑な表情を作った。
■次回「ヒゲのガハクごはん帖」は8月第3週に公開予定です。
●山口晃さんってどんな画家?
1969年東京都生まれ、群馬県桐生市に育つ。96年東京藝術大学大学院美術研究科絵画専攻(油画)修士課程修了。 2013年『ヘンな日本美術史』(祥伝社)で第12回小林秀雄賞受賞。
日本の伝統的絵画の様式を踏まえ、油絵で描く作風が特徴。都市鳥瞰図・合戦図などの絵画のみならず立体、漫画、インスタレーションなど表現方法は多岐にわたる。
主な個展に、2015年「山口晃展 前に下がる下を仰ぐ」(水戸芸術館現代美術ギャラリー、茨城)、18 年「Resonating Surfaces」(大和日英基金ジャパンハウスギャラリー、ロンドン)など国内外展示多数。
2019年 NHK大河ドラマ「いだてん 〜東京オリムピック噺〜」のオープニングタイトルバック画を担当し、22年善光寺(長野)へ《善光寺御開帳遠景圖》を奉納する。2023年9月アーティゾン美術館にて個展
「ジャム・セッション 石橋財団コレクション × 山口晃 ここへきて やむに止まれぬ サンサシオン」を開催予定。
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