
美術史の豊かな知識を土台にして、当代一の画力を武器にどこにもない絵を生み出す。そんな人気画家、山口晃ガハクは夫婦揃って食いしん坊。日常で、旅で、制作中の日々で、散歩の途中で何を食べてるの? ガハクが日常を描くコミックエッセイ『すゞしろ日記』に「カミさん」として登場するガハク妻による食事帖。 シャンパーニュの町、ランスでのシュワシュワな思い出、あるいは相変わらずドタバタのふたり旅。
絵/山口晃
2004年、今から20年近く前のこと、まだ若者らしく駅前の2つ星ホテルに泊まるような頃。
山口ヒゲ画伯こと夫(以下ガハク)は日本人作家によるグループ展へ出品のため、イタリア・ボローニャに行くことになった。ギャラリースタッフだった私もちょうどスイス・バーゼル出張があったので、ガハクにバーゼルまで来てもらって合流、帰路に小旅行をすることにした。
バーゼルは国境の街で、接するフランス、ドイツもそれぞれの鉄道駅を持ち、複数の“バーゼル駅”が存在していて、3国どこへもすぐに行くことのできる便利さがある。
そこで、鉄道にてフランス国内を少しずつ移動して最後はパリから帰国するという旅程を考えてみた。
距離感と乗り換えのしやすさでおのずと立ち寄る都市がしぼられてきて、下調べもそこそこに途中下車先は運河のあるストラスブールと大聖堂で知られるランスに決めた。
この旅では、とりわけランスでいろいろと印象深い思い出が・・・。

ストラスブールから3時間弱、列車でのほどよい移動を終えてシャンパーニュ地方の都市ランスに降り立つ。
アート関係者ならばフジタ(藤田嗣治)のフレスコ画がある礼拝堂のことを事前に調べておくべきであったが、残念ながら滞在中はオープンしておらず見学はできなかった。
まずは観光地らしき場所に行こう、と歴代フランス国王が戴冠式を執り行ったというノートルダム大聖堂へてくてくと向かった。通常見どころとしてステンドグラスのバラ窓やファサードにある微笑みの天使の彫刻が挙げられるが、あまりに昔のこと過ぎてこれらを確認したのか、実際見ていた場合どう感じたのか・・・まるで記憶がない。けれども大聖堂前の酒屋を目ざとく発見したことはよく覚えている。
ここはシャンパンの産地であるし、ひとつ飲んでみなくてはと思っていた矢先、おあつらえ向きに店先には簡素なイスとテーブルが置かれている。どうやらここで気軽に飲むことができそうだとふんで早速入ってみる。
ほどほどに広い店内にはシャンパンやワインがごちゃごちゃと木箱や棚に並び、立ち飲みができるスペースもあった。外のテーブル席で飲みたい旨を伝え、めずらしく読みやすい手書きの簡素な品書きを見せてもらう。
フランス語が分からないなりに推測してみたところ、シャンパンは価格の異なる2つのみ、銘柄に関してはおそらく日替わりで今日のおすすめが提供されるらしい。高い方にはMillésime(ミレジム)と書かれていて、それが何を意味するかたずねてみたが、店の人も英語での説明は難しいらしく「MillésimeはMillésime」というようなことを言われた気がする。この単語はなぜかずっと覚えていて、単一年のブドウで作られたビンテージのことだとだいぶ後になって判明した。
とりあえず両方を頼んで、2人して交互に飲み比べてみることにしたが、正直どう違うのかは判別しかねた。ガハクも「なんて言ったらいいだろうね・・・」と神妙に味を分析していたものの、「・・・両方おいしいのかな」と説明はつかなかった。そもそも私たちはシャンパンといえば乾杯のときに出てくる高価なお酒、程度の認識しかなく、自分たちには縁遠いものと思っていて、飲みつけていないので分かるはずもない。
味わいよりも、その時は目の前に厳かなゴシック様式の大聖堂がそびえているという景色の方に大いに感激していた。
6月、日が長くなったフランスの夕方は、まだ陽の光が上からそそいで木漏れ日がきらきらと明るい。酒屋の軒先にある文化祭の模擬店じみた即席テラスが、この眺めによって一気に別世界となってまるで老舗カフェにてくつろいでいるかのような心持ちだ。シャンパンの味は理解できずとも、ここでの一杯はいつまでも印象深く記憶に残っている。
( Google earthでそれらしき場所を調べてみたところ、現在店内外の試飲スペースは大々的に拡張されカフェ状態に変貌している⁉ 代替わりして商売っ気を出したのかね、とガハク)
シャンパンづいてきたところで、翌日はメゾンの見学もいいかもしれない、と思いたつ。折よく予約なしOKで徒歩圏内にG社があった。
午後遅め(15:45くらいだったか?)の列車でパリに移動するので、昼過ぎにメゾンを訪問してみよう、と計画。荷物をホテルに預けてG社を目指して歩く。目的地は鉄道駅から東北東方面に約1km、ホテルは駅から300mくらい南にあった。大まかにいうと駅とホテルを結ぶ線を底辺とすると、G社を頂点にして二等辺三角形をつくる位置関係。
スマホを持っていなかった時代、G社のある地域は載っていない簡略過ぎる地図を参照しながらでは動物並みに方向感覚に優れたガハクもさすがに道順が不安になってくる。迷うと大変なので仕方なく、通りすがりのラフなTシャツ姿の中年男性に道を尋ねてみたが、フランス語を理解しない私たちへの対処に困ったのか、その人は顔色一つ変えず無表情なまま、ついて来るように手で示して先を歩き出した。

5分もしないうちに到着すると、ここだ、と指をさして教えてくれ、私たちがお礼を言う中、親切なムッシューは去っていった。

シャンパンメゾンG社で受付をすると英語のツアーがアレンジされ、英国からのリタイア後とおぼしきご夫婦と一緒になった。ユーロトンネル開通以来フランスには気軽に車で来られるのだ、とうかがって欧州交通事情の生の情報に感心した。
まずは会社概要やシャンパン醸造の過程がシアターにて15分ほどの映像で紹介される。ブドウを収穫して搾ってアルコール発酵、ワイン状態になったらブレンドをして瓶詰め、長期間寝かせる二次発酵に移る。その後、瓶を下に向けた状態で数ヶ月かけて澱を集めて取り除き、コルク打栓にワイヤリングをして完成。詳細はつかめないまでも、ビジュアルで示されたので多少予習は出来た感じだ。寝かしている期間が長く、仕上がりまで随分と時間や手間がかかっている、ということが分かって、やや襟を正す。
スーツ姿の若い女性ガイドに連れられ、地下の薄暗い洞窟のようなカーブ(?でいいのかな)に降りていくと、急に空気がひんやりしてきて、歴史という亡霊から首筋にふうっと息をふきかけられたような気がした。
ツアーの形式は、テーマパークのように順路を進んでいくと、昔のボトルやラベルといった資料的なものや、先程の映像で見た新旧の道具や機械がところどころ点在し、都度ガイドが説明をしてくれるというものだった。暗く湿った穴蔵状の部屋を順々に回っていくのは、学習というより探検の感覚に近かった。
ガイドが立ち止まり、チェーンで行く手が塞がれた横道を指しながら言った。
「ここが地下貯蔵庫で、全長25kmにわたる複雑なトンネルになっていて、迷わないようにそれぞれの部屋に名前(もしくは番号だったか?)がつけられています。ここから先にはご案内できませんが、どうぞこちらからのぞいてみてください」
石灰岩の地層を掘って作られた貯蔵庫は、壁も天井も冷たいグレー色をして不穏で鋭い空気に満ちている。迷路にもみえる小部屋が延々と遠くまで続いていて、さらに冷たい風を顔に感じた。

「入ったら絶対永遠に出られない」方向音痴の私は瞬時にそう思って、すぐさま目をそらした。ガハクですら「ここに置いていかれたらもう命の保証はないだろう」と恐怖が込みあげてきたそうだ。
そして、追い打ちをかけるように、割れたシャンパンの瓶が放置され、そのこぼれた中身の酸っぱいようなにおいが広がっている部屋へとツアーが続く。

ガイドは、二次発酵の後の瓶の口を下にして澱を集めるルミアージュという作業の説明を始めた。ここにあるピュピトルという専用の台に入れるとちょうど瓶が斜めに刺さるようになっていて、澱が1ヶ所にたまらないように毎日少しずつ手作業で回転させていく。けれどもこの過程では何らかの要因で必ず突然破裂してしまう瓶が一定数出てきてしまい、それは避けられないことなのだと。現在は機械で回すことが主流だが、伝統的な手作業によって作る製品も残しているとのことだった。
割れた瓶が床に転がっているのは禍々しくもあったが、シャンパン醸造には天に任せる部分があると啓示しているかにも見えた。割れずに残り、毎日かたかたと瓶を回してもらって大事に育てられた子が、ああして最後に立派なシャンパンとなる、ということか。
地上に出た時には、私たちはもうすっかりシャンパンに親近感がわいていた。グラスの底から生まれては消えていく金色に輝く泡は手間をかけて作られた時間の結晶、それだけで貴重で大切な存在に思えてくる。
そうして、近寄りがたかったシャンパンが一気に身近に感じられ、折にふれて飲むようになった。わが家の冷蔵庫にはシャンパンと日本酒が仲よく並んでいる。
さて、見学の最後には当然、試飲コーナーが設けられている。

しかし、私たちはその時間を楽しみにする余裕もなく、貯蔵庫を出るころから列車の時間が迫っていることに焦っていた。一旦ホテルで荷物もピックアップしなければならない。
英国からの紳士はじっくり飲み比べて気に入った品を見つけようと真剣だ。けれども私たちにはもう本当に時間がない、出された一杯をほぼ一気飲みし、ばたばたとメゾンを後にして走り出す。飲んですぐ、当然酔いが回るが、そうもいっていられない。

メゾンからホテルまで約1km。飲食後はのんびり食休みをする主義のガハクは1/3もいかないうちに「もうムリ」と弱音を吐くけれど、止まるわけにはいかない。ふたりとも偶然中学時代は陸上部に所属していたが、私は短距離走者で長く走るのは苦手だ。ここは1500m走という中距離専門だったガハクにむしろ頑張ってほしいものなのだが・・・。
結構なスピードでほどほどの距離をふたりして駆け抜け、列車には間に合った。
ガハクはこの時のつらさはもう思い出したくないそうで、この話題をふるととたんに目の色がふっと暗くなる。
何年か後に、再びランスを訪れた。
その時はゆったりとオーベルジュに宿泊し、もう街中を走り回ったりはしないですんだ。
■次回「ヒゲのガハクごはん帖」は3月第2週に公開予定です。
●山口晃さんってどんな画家?
1969年東京都生まれ、群馬県桐生市に育つ。96年東京藝術大学大学院美術研究科絵画専攻(油画)修士課程修了。 2013年『ヘンな日本美術史』(祥伝社)で第12回小林秀雄賞受賞。
日本の伝統的絵画の様式を踏まえ、油絵で描く作風が特徴。都市烏敵図・合戦図などの絵画のみならず立体、漫画、インスタレーションなど表現方法は多岐にわたる。
主な個展に、2015年「山口晃展 前に下がる下を仰ぐ」(水戸芸術館現代美術ギャラリー、茨城)、18 年「Resonating Surfaces」(大和日英基金ジャパンハウスギャラリー、ロンドン)など国内外展示多数。
2019年 NHK大河ドラマ「いだてん 〜東京オリムピック噺〜」のオープニングタイトルバック画を担当し、22年善光寺(長野)へ《善光寺御開帳遠景圖》を奉納する。
2023年9月アーティゾン美術館にて個展開催予定。
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