
第3回となる「岡山芸術交流」が開催されている。過去2回、海外の有名作家をアーティスティックディレクター(芸術監督)に迎えてきた本芸術祭。今回はタイ人のアーティスト、リクリット・ティラヴァーニャが招聘された。1961年アルゼンチンで生まれ、現在はニューヨーク・ベルリン・チェンマイを拠点に活動するリクリットは、岡山を度々訪れてきた作家の1人である。2016年「岡山芸術交流 2016」では岡山城城趾の天守閣を望む広場に、風景に溶け込む鏡張りの茶室を設えた。2014年「Imagineering – Okayama Art Project」では同じ広場に青空を映すミラー仕様の卓球台を並べ、それらは市民たちの遊び場となった。🅼
「Do we dream under the same sky」。
本展の基調となるこのテキストは、ここ数年にわたり、愚直ともいえるひたむきさでリクリットが取り組むプロジェクトで掲げられてきたものだ。
米国で公民権運動を指導したマーティン・ルーサー・キング・ジュニアが、1963年に人種平等と差別の終焉を呼びかけた演説「I Have a Dream」を引き継ぐものと捉えていいと思う。
ここでいう夢とは何か? 疑問文なのに「?」がついていないのはなぜか?
そもそも私たちは異なる文化的・社会的背景を持ち、違う人生の物語を生きているのだから、当然見上げる空も同じであるわけがない。どれほど進化したグローバル社会であろうと、そして西洋的価値観に支配されてきた美術の世界でも、多元的な空の下でそれぞれの夢を見る宿命なのだ。
たった数年の間に、ポピュリズム政治、パンデミック、BLMやMe Tooなどの社会運動、ウクライナをはじめとする紛争を通して、分断化する世界を目の当たりにした私たちにとって、このことはすでに自明の理であるはずだ。

廃棄されるコートを再利用しスローガンをプリントした、NY拠点のブランドOVERCOATとリクリットのコラボレーション。
OVERCOAT, COME TOGETHER

伊勢﨑州(備前焼)、スミス 一三省吾・木口 ディアンドレ(烏城彫)が制作した、リクリットのレシピ監修によるカレーの器。キッチンかいぞくのえびめしとムスリム発祥のマッサマンカレーをアレンジしている。 © Okayama Art Summit 2022
メイン会場の旧内山下小学校の校庭は目に染みるようなグリーンで覆われていた。
校舎の窓から眺めると、芝生に上記のタイトルが浮かび上がる。ここはクラウドファンディングによって実現したリクリット自身の作品だ。
校庭は無料ゾーンで、テントと椅子がゆるい配置で置かれている。リクリットと地元のお店が共同でレシピ開発したマッサマンカレー(タイカレーの一種)を、備前焼と烏城彫の若手作家があつらえた器で食べながら、のんびり寛ぐこともできる。
1990年代、ニューヨークのアートシーンでリクリットが一躍注目を浴びるようになったのは、現代美術のギャラリーでパッタイ(タイの焼きそば)を振る舞うという、西洋的な美術の規範がぶっ飛ぶ作品だった。
もちろん手料理が供されるのはオープニングに招かれた関係者やイベントに参加したゲストだけで、鑑賞者全員がそれを味わえるわけではない。「リレーショナル・アート」「関係性の美学」などといった、キュレーション側の勝手な文脈で語られたことにより、むしろその特権性が批判されることもあった。
だが、その指摘はリクリットの本来の意図からはだいぶ外れている。
「同じ部屋の空気を吸って、同じ料理を食べること」。
それはリクリットがもっとも信頼をおくエンパシーの原点であり、彼のフィロソフィーの根幹を成すシンボルといえる行為だ。
食の豊かさを介することで、異なる物語を生きる人同士の境界は緩やかに解けていく。互いの感覚をシェアし、相違点も認めた上で、摩擦やすれ違いを許しあう糸口が見つかるかもしれない。それは茶の湯の精神性とも通じあう、ホスピタリティの本質である。
筆者にとっても、東京やチェンマイでこれまでリクリットとともにキッチンに立って料理をし、多様な立場の人たちとテーブルを囲んだことは、ワークショップやレクチャー以上に、彼の思考をフィジカルに実践する機会となった。食卓にはアートと無関係な話題やときに厳しい議論も上がるが、結果的にそれはすべての同席者にとって実りの多い体験となったはずだからだ。
この屋台は、日本ではひさびさに彼自身が手がけた料理を不特定多数の人々がシェアする機会となる。ぜひ隣の人と世間話しながらトライしてほしい。

プレシャス・オコヨモン 《太陽が私に気づくまで私の小さな尻尾に触れている》
Precious Okoyomon, Touching My Lil Tail Till the Sun Notices Me
旧小学校のプールは水が抜かれ、空っぽの底には、プレシャス・オコヨモンの巨大なクマのぬいぐるみが置かれている。そんな光景が喚起するのは不穏な予感しかない。
小さめのレースの下着とピンクのリボンを身につけ、仰向けの姿勢でだらりと横たわっているクマ。観客はプールサイドからそれを見下ろす形になる。不均衡かつ窃視的なその視点がおのずと炙りだす両者の関係性は何を象徴しているのか。
女性なら、自分よりもパワーのある抵抗しづらい相手から受けたセクシュアルハラスメントの体験を彷彿させるだろう。男性なら、性的欲望を抱く対象が無防備で弱い立場であった場合、自分はどう行動すべきなのか?という試練を突きつけられるかもしれない。
一見カワイイが過剰にでかいクマの存在感は、「the elephant in the room」(その場にいる人すべてが認識しているにも関わらず、あえて触れることを避けている重大な問題)ということわざと、本芸術祭総合プロデューサーのセクハラ問題を否応なしに想起させた。
アニメやアイドルなど日本発信のポップカルチャーに隠蔽されてきた問題にも通底する火種を思い出させる、魅力的な作品だ。

奥|曽根裕 《Amusement Romana》
手前|リクリット・ティラヴァーニャ 《Untitled 2017 (Oil Drum Stage)》
壁面|ダニエル・ボイド 《untitled(SOAGS)》 2020年
© Okayama Art Summit 2022
Rirkrit Tiravanija, Untitled 2017(Oil Drum Stage)
Yutaka Sone, Amusement Romana
Daniel Boyd, untitled(SOAGS)
体育館では、曽根裕による大理石の彫刻作品《アミューズメント・ロマーナ》が堂々と展示されていた。ジェットコースターと滑り台から着想された本作は、実際に登って滑り下りることもできる。
これを背景に、リクリットがオイル缶を模して制作したステージ《Untitled 2017 (Oil Drum Stage)》が設置されている。曽根が声をかけて岡山で結成したバンド「Untitled Band(Shun Owada and friends)」のほか、会期中およそ150組のバンドが多彩なパフォーマンスを展開する。
ライブのコーディネートを手がけるのは、写真家でもある音楽評論家・能勢伊勢雄氏が主宰する老舗ライブハウス「PEPPERLAND」。70歳を越える地元のマスターを現代美術の祭りに巻き込むアプローチは、リクリットと曽根のリスペクトの表明だ。
岡山の外からやってきたアートと、この街に根ざしたカルチャーが、有機的に絡み合いながら異なる夢を謳うシーンがいくつも見られることだろう。

片山真理 《棕櫚のセルフポートレート》 2016年
Mari Katayama, cycadopsida

片山真理《possession》
Mari Katayama, possession
校舎内の教室では数多くのアーティストが出展している。
入り口のウィンドウでは、片山真理がかつて岡山で制作したセルフポートレートが迎えてくれた。棕櫚の根元でたたずむ彼女のすんなりとした義足にも亜熱帯の樹木がくっきりと描かれ、強い陽光を浴びている。
また片山は教室のひとつを暗幕で覆い、電飾がまたたく夜の室内に変貌させた。さまざまなポーズでヴァニタス画を思わせる装飾的な構図に紛れ込んだその姿は、妖艶でありながら凛としている。
勇敢な障害者、若い女性のアイコン、幼い子の母親、そして類のない表現者。片山がこれまで生きてきた社会で都度付けられてきた「タグ」は、そこではすべて闇の中に消え、生身のアーティストの才気と美学だけが輝きを放っていた。
ハイヒールの義足を装着すると、190cm越えの身長から世界を睥睨することもある片山。岡山天満屋というデパートのウィンドウでは、まさに巨女大のポートレートが仁王立ちしているので見逃さないでほしい。

ダニエル・ボイド 左から《無題(GB5)》2015年、《無題(SDAW)》
Daniel Boyd, untitled (GB5) 2015, untitled (SDAW)
Photo/ Chie Sumiyoshi
ダニエル・ボイドは、オーストラリア現代美術の中枢にあるポスト・コロニアリズムとその先の社会像を追求している作家である。
窓ガラスを覆った水玉模様から差し込む淡い光の中、数点の小さなペインティングにスポットが当てられていた。19世紀から20世紀、開拓者が先住民を被写体として撮影した写真をベースとした本作には、彼の祖母のポートレートも含まれているという。
先住民アボリジニとしてのアイデンティティと、オーストラリア建国にまつわる西洋中心主義的な神話を結びつけるのは、アボリジニのアートを象徴するドット・ペインティング(点描絵画)だ。
実際にはこの描法は、彼らの土地を奪った侵略者である英国の美術教師が、20世紀後半、現代的なアクリル絵画の手法として先住民たちに指導したものだという。ボイドが「レンズ」と呼ぶこのドットは、覆い隠されてきた植民地化政策の残酷な歴史と真実を、シンボリックかつ詩的に拡大してみせている。
矛盾に満ちたこの事実を知ったことは衝撃であった。ドットの反復描写に勝手にナイーブさや呪術性を見ようとしていたことが恥ずかしい。(草間彌生の水玉のオブセッションに私が感化されていたのか?)

アート・レーバーとジャライ族のアーティストたち 《JUAーサウンドスケープの音》 2022年
Art Labor in collaboration with Jrai artists, JUA-SOUND IN THE SOUNDSCAPE
個人蒐集家により創設された林原美術館の瀟洒なインテリアを抜け、中国出身の王兵(ワン・ビン)の重厚かつ厳粛な映像作品《名前のない男》を観た後は、中庭に出てみてほしい。
そこには時空を飛び越えてきたような、あまりにも心休まる風景が現れる。竹と石、トタン板やプラスチックなどの素材が軽く組み上げられ、風に吹かれるまま不規則に乾いた音を奏でている。装置のところどころに、ひょうきんな猿や鳥のような木彫も取り付けられている。
ベトナム・ホーチミンを拠点とするアーティストグループ「アート・レーバーとジャライ族のアーティストたち」によるこのサウンドスケープは、野鳥を追い払うために水田に立てられるジャライ族の伝統的な竹楽器をもとにしている。かかしや雀威(すずめおどし)のように、似たような工夫を施した民具はきっと東南アジア・東アジアの全域で見られるのだろう。
JUAはジャライ族の言葉で「葉の息づかい」を意味するという。人間が労働を削ぎ落とすために発案した、風や水まかせで働く装置が、並いる芸術作品と同じ場所に置かれ、これほど心を揺らすとは。皮肉ではなく、自然と人の営みのあるべき関わりかたを示す作品である。
本芸術祭のカタログでは冒頭から、岡山に打合せや下見に訪れたアーティストたちが地元の店やテイクアウトの食事を囲む、リラックスしたスナップを並べてみせる。
コロナ禍を縫って実現に漕ぎ着けたプロセスがうかがえる。作家たちの活動歴やステイトメントと、彼らの展示の成果の間を繋ぐものとして、キュレーターやスタッフ、岡山の市民といった人々とのコミュニケーションの過程があることが伝わってきた。
一方でこうしたヒューマンスケールの演出に対して、常に懐疑的な層がいることも想像できる。アーティストたちが掲げる思想の表明が綺麗事と冷笑されるほど、追い詰められた社会状況に至っているのも事実だ。
プレス向けの記者会見でリクリットは語った。
「いま生きている時代の変化を認識している。他者の夢には不快なものもあるだろう。それぞれの願いや欲望の地平で、歩み寄るための一歩として、生活にアートを取り入れてほしい」
眠りのなかでは、自己の深層心理を暗示する「夢」は、常に自分本位で内省的なものだ。
夢から覚醒して他者との差異に気づかされたとき、この苛烈な現実世界で、私たちは他者や自然との成熟した関係性を「夢」見て生きることができるだろうか?
僅かな可能性を信じ、「?」をつけて問いかけたいと思う。
僕らは同じ空のもと夢をみているのだろうか
会期|2022年9月30日(金) – 11月27日(日)
会場|旧内山下小学校、岡山県天神山文化プラザ、岡山市立オリエント美術館、シネマ・クレール丸の内、林原美術館、岡山後楽園、岡山神社、石山公園、岡山城、岡山天満屋
開館時間|9:00 – 17:00[最終入場は16:30まで]一部、開催時間が異なる施設があります。公式ウェブサイトにてご確認ください
休館日|月曜日
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