神護寺は京都市の西北、高雄山の中腹にあり、紅葉の名所として有名な寺。もともと高雄山寺があり、今から1200年も昔、唐で密教を学んだ空海が帰国後最初に活動の拠点としました。真言密教はじまりの地です。その後、神願寺という寺と合併し、神護寺となりました。「ここは平安初期仏教美術の宝庫で子どもの頃からの仏像好きの私としては大好きなお寺です」(千宗屋さん)
聞き手・文= 松原麻理
——神護寺とはどんなお寺なんですか?
もともとは奈良時代末期和気清麻呂が建立した高雄山寺を起源とし、空海(774〜835)が中国(唐)に留学して密教の教えを授けられ、それを持ち帰って活動の最初の拠点とした寺院です。同じく清麻呂が八幡神のご神託を受けて建立した神願寺と合併して824年に神護国祚真言寺、略して神護寺が成立しました。ここが真言密教の出発地なのです。
——なぜ神護寺展に興味を持たれたのですか?
神護寺は京都市の北西・高雄に位置し、紅葉の名所としても知られているところです。京都市内からバスや鉄道で1時間ちょっとかかりさらに下りの坂道と約400段の石段を上りますから、京都人にとってもなかなか気軽に行ける場所ではありません。ですが、このお寺は稀少な平安初期仏教美術の宝庫で、幼い頃から仏像好きの私としては大好きなお寺の一つなんです。普段非公開のものも多いその寺宝の多くが今回、東京で見られるということが一つ大きな理由です。展示の目玉としては、なんといっても国宝の高雄曼荼羅、そして御本尊である薬師如来立像、そして個人的にはご本尊以上に惹かれている五大虚空蔵菩薩坐像でしょうか。そのほかの主だった作品とともに、順に見ていきましょう。
これは密教の修法に使われる道具で、煩悩を打ち砕き魔を祓う杵、諸尊を呼び覚ます鈴、それらを置く盤がセットになっているものです。空海が唐の恵果阿闍梨から授かって持ち帰ったと言われ、日本に現存する密教法具の最古のものです。ということは実際に空海自らこれを使ったと考えられます。のちに空海が東寺に移ったときにこれも一緒に持って行かれ、現在は東寺の所蔵なのでしょう。
これは密教において僧俗が入門するにあたり仏と縁を結ぶ儀式である「結縁灌頂」を受ける人をリストアップした名簿です。空海自ら書いたといわれ、誤字を塗りつぶしたところがあるので、一種のメモ的なものだったのでしょう。まさに「弘法も筆の誤り」とはこのことですね。面白いのは筆頭に「僧 最澄 興福寺」と記してあるところです。天台宗の祖である最澄は比叡山寺(のちの延暦寺)を開山していましたが、これはあくまで私塾のようなもの。当時のお坊さんはいわば国家公務員で、正式な国家の寺院に所属することが求められ、この名簿には「興福寺所属の最澄」となっています。最澄よりも年下の空海ですが、密教に関しては空海の方が長じており、最澄に対して法門を伝授しているのです。
神護寺は肖像画の宝庫でもあります。これは有名な神護寺三像(伝源頼朝像・伝平重盛像・伝藤原光能像)のうちの1つの頼朝像です。ここ20年余り、描かれたのは頼朝ではなく足利直義であるという学説が主流になってきていますが、神護寺としては従来の頼朝像としての伝承を大切にしておられます。他にも後白河法皇や、平安後期に荒廃した神護寺の復興に尽力した文覚上人の肖像画(ともに展示中)などが残っていますが、いずれも荘園地を寄進するなど神護寺の経済的基盤を支援した立役者で、肖像画を奉納するということに、仏様のそばに像主がお仕えするという意味合いもあったのでしょう。
私がこの高雄曼荼羅を初めて拝見したのは確か1983年「弘法大師と密教美術」展(京都国立博物館)で、当時はもっと傷みが激しくボロボロでした。それが昨年6年余にわたる修理を経てみごとに甦り、以前に比べ金泥で描かれた図像の線がよく見えるようになりました。空海が直接制作に関わったとされる現存最古の両界曼荼羅です。4メートル四方もある「金剛界」と「胎蔵界」、2枚で構成される両界曼荼羅は、儀式の際に東西の壁にかけられます。お堂の扉を閉め切って幕を張り、灯明がともされ、堂内で護摩が焚かれます。すると黒に近い紫綾地に金泥で描かれた仏の姿が灯明の火や護摩壇の炎に照らされて、闇に浮かび上がる。その光景はまさに仏が虚空に遍満する世界に見えたことでしょう。テレビも映像もない時代に、8K大画面映像のような、大迫力のリアルさだったに違いありません。
これはお経を約10巻ずつ一つにまとめて保管するためのすだれ状の「経帙」というものです。神護寺に伝わるものが大変に有名で、江戸時代には439点あったのが、現在寺に残っているのは202点。つまり半数以上は巷に流出したので、数寄者や仏教美術愛好家の間では垂涎のコレクターアイテムになっています。よく見ると、表側がさまざまな色の絹糸を捩り編んだ竹簀で、裏に錦地が貼ってあり、その間には雲母摺りの和紙を挟んでいます。竹簀はさまざまな紋様を織り出した錦で縁取られ、蝶の形の金具がついています。白洲正子さんはこの金具をペンダントトップにして愛用したそうですよ。簀巻きに巻く紐はさまざまな色糸を組んだ組紐です。工芸の技巧が随所に凝らされており、ともすると好事家の間では経巻そのものよりも珍重されてきた品です。
空海の構想を弟子の真済が実現したものです。五躯すべてが残る最古の例として、大変貴重です。現在ではほとんど褪色していますが、体がそれぞれ黄、白、赤、黒、青緑の5色に塗られ、各々が密教で世界をあらわす「地、水、火、風、空」の5大要素を意味しています。平安初期に作られたこの像は、高雄曼荼羅に描かれた仏の姿とも共通するのですが、比較的肌の露出が多く、肉感的に表現されているんです。これは平安初期の作で、密教の発祥地であるインドより直接の図像の影響を色濃く受けているからなのでしょう。密教では仏の威徳をわかりやすくビジュアルで伝えることを推進していたので、こういう表現になったのだと思います。個人的に好きな仏像の上位にランクインするものです。完全な木彫ではなく奈良時代に流行した乾漆併用で、漆を使用するなど高い技術と高価な素材で作られているので、官営の造仏所が関わったオフィシャルな作だと思われます。
我が国木彫仏の最高峰のひとつとも言われる神護寺のご本尊です。お寺では厨子の中に安置され、さらに高い須弥壇の上にあるので遠いですし、暗くてディテールがよく見えません。それはそれで、闇の中に唇の朱の色がふっと浮かび上がる感じが魅力的なのですが、今回の展示では細部までじっくり拝見することができます。カヤの木の一木から彫られた薬師如来像で、それは昔から仏像は香木から作るものだというのが原点にあるから。しかし日本では香木が手に入らないので、カヤの木などで代用したのです。また、木材そのものの霊性を強調するために、あえて彩色したり金箔を貼ったりしないんですね。そこには木そのものに霊力があり、御神木とする日本のアニミズム的な思想も入っていると思います。多くの薬師如来が薬壺を持つ手を下に下げているのに対し、こちらは両手とも高い位置にあるのが特徴的です。両手で怨霊を押し返すような力強さが感じられます。一説には和気清麻呂が政敵道鏡の怨霊を封じるために造らせたともいわれています。薬師とは疫病を抑えると同時に怨霊封じでもあったわけです。肉体はパツパツの量感があり、大腿部が大きく張り出していて、力が漲っています。
後期展示でぜひ拝見したいのが、この釈迦如来像です。院政期(平安後期、1086年から白河・鳥羽・後白河による院政が行われた時代を中心とする)の、「過差美麗」と称された、非常に精緻で鮮やかな色彩をもつ平安仏画の名品で衣の色から「赤釈迦」と呼ばれます。「朱衣金体」という、如来を描くときの決まり事を踏まえていますね。赤い顔料が信じられないほどよく残っている衣には、截金(ごく細く切った金箔で文様を表す技法)で細かく幾何学文が表されています。光背には工芸的な唐草紋様が描かれているので、ひょっとしたら元となる彫刻があり、それを絵画化したのかもしれません。縦163㎝と非常に大きく迫力のある作品です。
以上見てきたように、空海とほぼ同時代・平安初期の「仏像彫刻」のトップクラスが揃い、「仏画」の一級品あり、さらには「肖像画」、そして山水屏風に代表されるような「やまと絵」あり。また経帙などに見られる染織・工芸の技が凝らされたものも並ぶわけで、今回の神護寺展は日本美術各ジャンルの逸品が見られる展覧会だと思います。
会期|2024年7月17日(水) – 9月8日(日) 8月14日(水)より後期展示
会場|東京国立博物館 平成館
開館時間|9:30 – 17:00[金・土曜日は9:30 – 19:00。ただし8/30,31は除く]入館は閉館の30分前まで
休館日|月曜日
お問い合わせ|050-5541-8600(ハローダイヤル)
コメントを入力してください