美術史の豊かな知識を土台にして、当代一の画力を武器にどこにもない絵を生み出す。そんな人気画家、山口晃ガハクは夫婦揃って食いしん坊。日常で、旅で、制作中の日々で、散歩の途中で何を食べてるの? ガハクが日常を描くコミックエッセイ『すゞしろ日記』に「カミさん」として登場するガハク妻による食事帖。 隠れた才能が発揮されたか、偶然の産物か(たぶんこっち)。ガハクも褒めるカミさんのデザート作り?! ごちそうさま。
絵/山口晃
あー、やっちゃった。
食品宅配ボックスの中に注文した覚えのない1000ml、72℃殺菌の牛乳が入っていた。これはわたしが数字入力を間違ったせい。
以前「飽きずに続く安定のピザトースト!?」にて書いたように、わたしたちは漢方医から牛乳の大量摂取は避けるように言われており、1000mlを消費期限内に飲み切るペースはやや過剰になるのではという懸念が。 さらに山口ヒゲ画伯こと夫(以下ガハク)より「牛乳は低温殺菌の品にすべし」というお達しが出ているのだが、その基準からも外れてしまった。
低温殺菌牛乳とは63〜66℃くらいで30分間加熱して殺菌されたもの。ガハクによると普通の牛乳だと沸騰させた時にできる膜と同じようなくさみを感じ、どうしても気になってしまうのだそう。
通常は120〜130℃で2〜3秒間の殺菌なので、この72℃で15秒間殺菌の牛乳はまだいいほうだといえるのだが・・・。わたしが1000ml、72℃殺菌の牛乳が届いてしまった旨を伝えると、ガハクが苦々しい表情をして首を傾けた。
「72℃? それはだめでしょう・・・。分かるよね? 低温殺菌の牛乳だとほわっと甘みがあって全然味が違う」
さて、この大量の牛乳はどう使うのがよいだろうか。
普段わたしたちの牛乳との付き合いは、コーヒーに入れる目的で500mlパック(もちろん低温殺菌指定)を常備しない程度に月に1、2回買う程度。
いつもより量を増やして連日コーヒー牛乳とするか、(ガハクが興味を示さない)フレンチトーストでも作ってみようか。
わたしのスキルに起因していると思われるが、生クリームがわりに料理に使うことも、うまくいったためしがないので気が進まないし・・・などと考えながら、さほど気を入れずPCにてウェブ検索をしてレシピをざらざらと斜め読みする。
「チーズを作るよ!」
「は? 何を言っているの。大・丈・夫? この前のアレはね、チーズじゃなくて単に腐らせただけだから」
「だからチーズが出来るんだってば。牛乳を温めて・・・」
「あらあらまたヘンなことを言いだしたよ、この人は」
ガハクは以前の事件と混同して取り合ってくれない。
それが起きたのは今年の4月末くらい、半年ほど前のことだからまだ記憶に新しい。
先に述べたようにコーヒーに牛乳を入れて飲むことがあるが、ピッチャーには移さず500mlのパックから直接カップに注ぎ入れている。神経質なガハクは通常ならば使うときだけ冷蔵庫から持ってきて、すぐにしまっていたけれど、その週に限ってなんとなくふたりとも面倒がって「暖房も入っていないし暑い時期でもないから」と高を括り、毎度おやつタイムの間は卓上に出したままにしていた。
その後、いつものようにコーヒーに牛乳を垂らしたところ、混ざらず卵スープのように分離してしまった。注ぎ口を見るとヨーグルトのような塊がうっすらと出来かかっている。
こわごわにおいを嗅いでみたところ、なんとなく酸っぱそうな香りはしたけれど異臭とまではいかずで、これからどうなるのかという好奇心も手伝って再び冷蔵庫にしまった。「ヨーグルトとかチーズみたいなのができたりするかも?」と、今思えば相当に愚かなことを言っていた。
翌日、もうその牛乳をコーヒーに入れる勇気はなかったが、おやつのときに観察してみた。凝固が進むでもなくさらさらとした液体のままで昨日と変化はない。においも強くはない。何が起こっているか見極めるため、まずガハクがほんの少し舐めてみた。
「苦い」
「えっ? 苦い?」
続いてわたしも試してみると、舌に強く響くというよりすいっと背後に回り込んでくるような嫌な雰囲気の、ゴーヤーとも薬とも違う今まで体験したことのない苦味に身の危険を感じ、すぐに洗面所へうがいをしに走った。
これまで身近に感じたことのなかった「腐敗」という現象がどういうものかを思い知る出来事だった。
ということで、今日は腐らせる前に牛乳をカッテージチーズへと変身させる。
その方法は、こんなわたしでもやろうという気にさせるくらいものすごく簡単で、牛乳を温めてレモン汁を入れ、混ぜて漉すだけ。
まずカップ2杯の牛乳。細かい計量が苦手なわたしでもこれは難しくない。沸騰してしまう前に火を止めるとのことで、牛乳を火にかけてからはガスコンロの前につきっきりで表面の様子をうかがう。レモンは買い置きがなかったのでストレート果汁を代用。この量は間違えると惨事になりそうな箇所につき、引き出しから計量スプーンを探して大さじ1と1/3を量る。ただ、1/3というのはやや目分量かも。
レモン汁を入れて軽くかき混ぜると、ぼろぼろとかたまりが出来てくる。でもこれはあの腐敗に向かう牛乳のコーヒーに混ざらない感じにそっくりでは?・・・と脳裏にトラウマがよぎるが振り払う。
半信半疑のまま、指示通りに時間をおいてザルで濾し、キッチンペーパーに包んで水分を絞ると・・・もろもろとした質感のカッテージチーズの形状になっている!
手のひらに収まるくらいにまとまった、まだ温かい出来たての端っこをちぎって味見してみると、カッテージチーズらしい素っ気なさの中にかすかにレモン風味がして、口の中でやわらかに溶けていった。
「・・・悪くないかも」
いつもならば即座にガハクを呼ぶところだろうが、あまりにあっけなくそれらしきものが作れてしまったので実感がわかず、もじもじと黙っていた。
せっかくなので温かいまま、小皿に取り分けブルーベリージャムをかけ、まずはデザートとして。ガハクお楽しみの息抜き、おやつタイムの開始だ。
「ほぉぉー」
さっきはからかってきたガハクも、本当にチーズが出来ているので驚き気味だ。
早速すくって一口食べると、おいしくはあるけれどカッテージチーズがさっぱりしすぎてジャムの甘さだけが目立ち、パンチに欠けるような。
そういえば全粒粉クッキーがあった。
「ちょっと待ってて」
封を開けてクッキーを取り出し、手で小さく割って放り込んだ。
ふわふわしたカッテージチーズを固形物が受け止めることによって、ぼやけていた輪郭がはっきりし、今度はジャムに消されることもなく、ごくごく微かな乳製品の味わいがたちのぼってきた。
「もうこれはチーズケーキじゃないの!」
ガハクが感心の声をあげた。
そういえば・・・前に似たようなことをしたことがあったっけ。
「料理にもお菓子にも使えます」というふれこみに引かれ、興味本位でマスカルポーネチーズを宅配サービスで頼んでしまった。
マスカルポーネチーズといえばティラミス。レシピを見るとお菓子作りをしないわたしにもできそうに思われたが、生クリームなどを買いに行くのが面倒だったことと分量の多さに驚愕したので、なんとなくそれっぽくすればいいかと食パンを濃いめのコーヒーに浸し、その上にマスカルポーネチーズを盛り、チョコレートを細かく刻んでふりかけるということをしてみた。
構成はかぎりなく適当で、見た目も切り損じて崩れきったケーキのよう。
しかしながら一口目は「ティラミスゥゥ!」と思わずガハクもわたしも叫びたくなるくらいの再現率で、これはいけると思ったのもほんの一瞬。
二口目からは突然薄ーいコーヒー味がもの悲しさを誘う、正直おいしいとはまったく言い難い、何がポイントかよく分からない中途半端な食べ物になってしまった。
なぜ一口目だけはティラミスで、なぜその後その味は二度と戻ってこなかったのかは謎のままだ。
その時の「なんちゃってティラミス」に比べればこの「なんちゃってチーズケーキ」はおいしく食べられる点で格段の進歩ではある。
「いつのまにかこんなものまで作れるようになっちゃって・・・、もうオレの出る幕はない」
料理の腕はわたしよりも上ということになっているガハクがさみしそうに言いながら全面称賛してくると、こちらも気が引けてくる。
というのも、これは単に素材を皿に放りこんだだけという雑ななりたちで、まったく美的意識に欠けている。
口に入れればチーズケーキ味にはなるけれど、むしろプリンと醤油でウニ味を作るワザに近いような。
せめてクッキーを細かく砕けばずいぶん見栄えも違っただろうという反省も出てくる。改善の余地がある中、こんなに喜ばれてしまうと居心地が悪い。
「これ、ただ盛っただけだから、全然何もしてないし。・・・すごいのはやはりガハクの方でしょう。コロナ騒動の頃にさ、小さいパフェを作ってくれたよね」
家にこもりきりだったあの時期、仕事で疲れていたわたしを元気づけようと、ガハクが「まぁおやつでも準備しましょう」と言って台所に消えていった。
そして目の前に出されたのが、ガラスの盃に入った10cmほどの高さのミニチュアパフェ。
プレーンと、ジャムで色づけられた2色のヨーグルト、ゴールデンキウイとを交互に重ねて5つの層を作り、トップには薄くスライスした黄色いキウイを流れるように立体的に並べ、きみどりとピンクの砂糖玉をいちごかさくらんぼであるかのようにアクセントに置いている。
色合いも目を引き、この小さいまとまり方がかわいい。
ありあわせの材料で、まさにパーフェクトに飾られたデザートが目の前に出された時はかなり驚いた。やっぱりアーティストというのは器用なのだな。
「え、あれのこと? たいしたことないし。それこそ盛り合わせただけで何も作ってない」
ガハク自身はもう忘れかけていたようで意外そうに答えた。
めずらしくこの度は、ふたりで互いを称賛し合うということに。
■次回「ヒゲのガハクごはん帖」は12月第2週に公開予定です。
●山口晃さんってどんな画家?
1969年東京都生まれ、群馬県桐生市に育つ。96年東京藝術大学大学院美術研究科絵画専攻(油画)修士課程修了。 2013年『ヘンな日本美術史』(祥伝社)で第12回小林秀雄賞受賞。
日本の伝統的絵画の様式を踏まえ、油絵で描く作風が特徴。都市鳥瞰図・合戦図などの絵画のみならず立体、漫画、インスタレーションなど表現方法は多岐にわたる。
主な個展に、2015年「山口晃展 前に下がる下を仰ぐ」(水戸芸術館現代美術ギャラリー、茨城)、18 年「Resonating Surfaces」(大和日英基金ジャパンハウスギャラリー、ロンドン)など国内外展示多数。
2019年 NHK大河ドラマ「いだてん 〜東京オリムピック噺〜」のオープニングタイトルバック画を担当し、22年善光寺(長野)へ《善光寺御開帳遠景圖》を奉納する。
アーティゾン美術館にて個展「ジャム・セッション 石橋財団コレクション × 山口晃 ここへきて やむに止まれぬ サンサシオン」を開催中(〜11月19日まで)。
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