ショップで見つけた1枚のTシャツが若いころに読んだ小説の世界に引き戻してくれるなんてこともあるのだ。そこから、Tシャツというものはということまで考えてしまった。もしかしたら、その人が着てきたTシャツはその人の人生を要約してくれるのかもしれない。
先日、ユニクロで少し変わったTシャツを見つけた。子どもか素人が描いた猫がプリントされていて、下に「save humans, save cats 」と書いてある。猫が小さいのが良いなと思った。この上にジャケットを着てもラペルの間から猫が顔を出すし。手に取って背のタグのところを見ていたら、「HARUKI MURAKAMI」と書いてある。作家の村上春樹さんが描いた企画ものだなとわかった。ユニクロだし。
そういえば、猫がいなくなるところから始まる小説もあったなとか、そもそも彼のデビュー作には小説の中に突然、Tシャツの絵が出てきたんだったんだ。もう一度あの小説を見たくなった。あと、最近(正確には数年前か)、村上さんは雑誌『ポパイ』でTシャツに関する連載をしていてそれを見たことがあった。などといろいろ考えて、このTシャツを買って帰った。
プライスのタグともう一つ細い「PEACE FOR ALL」というタグがついていて、これは平和を願う、ユニクロのチャリティTシャツプロジェクトだとわかった。ファッション、アートの領域ばかりでなく、各界の著名人がボランティアで絵を提供しているらしい。プロテニスプレーヤーや建築家もいる。そういう一人に村上さんもいて、絵とスローガンには「人も猫も同じように平和に生きていける世界であるといい」という思いが込められていた。
それで、小説の中に登場するTシャツの話だが、これは村上さんのデビュー作で『群像』新人文学賞を受賞した『風の歌を聴け』のことだ。
東京の大学で生物学を専攻している21歳の「僕」が夏休みに帰省した1970年8月8日から26日までの18日間の物語。そこは「前は海、後ろは山、隣には巨大な港街がある。ほんの小さな街」。友人の「鼠」とジェイズ・バーで毎日のようにビールを飲んで過ごした。女の子とのアフェアもあるが、特に劇的なクライマックスも訪れず、孤独感や喪失感の中を主人公は漂っている。
余談だが、筆者は最初、図書館にあった『群像』6月号で読んだ。偶然にも21歳だった。久しぶりにこの単行本を手に取ると、いろんなことが変わったと感じる。たとえば消費税の表記がない。無粋なバーコードがない。本文は活字を組んで刷られる活版印刷だ。ハードカバー200ページの小説が850円。吉行淳之介氏はじめ『群像』新人賞選考委員の5人がこの作品を支持したということだが、彼らは全員、鬼籍に入っている。
それはともかく、主人公「僕」はある日、ラジオ局からの電話を受け、突然のクイズになんとか正解し、その褒美にTシャツが送られてくる。そのシーンはここ。
主人公「僕」は日頃からTシャツを着ている。というのも、この少し前、ちょっとアクシデンシャルに女の子の部屋に泊まって(何事もなかったのだけれど)、翌朝、Tシャツをかぶるシーンがあるのだ(何事もなかったのだけれど)。もう一つ、これは回想シーンだが、「僕」の部屋に転がり込んできて、1週間ほど「僕」の部屋にいた女の子がいなくなったとき、洗い立ての「僕」のTシャツも無くなっていたという記述。Tシャツしか着ないわけではなく、「僕」は必要があれば、ボタンダウンシャツにネクタイを締めることもあるが。
Tシャツについては『風の歌を聴け』が象徴的だけれど、ざっと読み返してみたら、『ダンス・ダンス・ダンス』『ノルウェイの森』『1Q84』にも登場人物が着ているTシャツについての描写がある。それは物語の中で重要な人だったり、それほどでなかったりいろいろだけれど。
さて、『ポパイ』での村上さんの連載というのは「村上T」というタイトルで、こんな感じのページだった。
この連載はたいへん好評だったらしく、1冊の本にまとめられた。村上さんのTシャツコレクションは段ボールで積み上がってるそうで、その中から108枚のお気に入りTを18篇のエッセイとともに収録。巻末にインタビューも入っている。
たとえば本にまつわるTシャツの回では、オレゴン州ポートランドの書店パウエルズ・ブックスのTシャツをメインに取り上げている。ここは本当にいい本屋で新刊、古書の両方を扱っていて、行ったことがある人はたいてい好きな本屋の上位にランクする。聞いたところによると、冬はとても寒い地域なので、部屋で楽しくすごくために書店が充実してるのだとも。村上さんもここは軽く1日つぶせちゃうくらい良い本屋と言っている。そこでのこと。
〈何冊か面白そうな本を選んで、それを抱えて代金を払おうとしたら、レジの女性に「あなたはひょっとしてムラカミじゃないか」と言われて、「そうだけど」と返事したら、「それは素晴らしい」ということで、その場で数十冊の本にサインさせられて、けっこう大変だった。即席サイン会。このTシャツはそのときにお礼としてもらったような記憶がある〉『村上T 僕の愛したTシャツたち』95ページ
巻末のインタビューで、一番古いのはどのTシャツですかと聞かれていて、83年、初めて走ったホノルルマラソンのTシャツと答えている。そのTシャツはこの本ではなく、都築響一さんが編集した『捨てられないTシャツ』に載っている。
編集者で木村伊兵衛写真賞受賞の写真家でもある都築響一さんのメールマガジン『ROADSIDERS’ weekly』でかつて「捨てられないTシャツ」という連載があり、さまざまな職業、年齢、境遇の人がTシャツとそれにまつわるエピソードを語っている。たった1枚のTシャツに人生の断片が見事に現れる興味深いコラムだった。それが筑摩書房から2017年に同名で単行本としてまとめられ、出版された。
その70人の中に「◎68歳男性 ◎小説家 ◎京都府出身」(記事の初出は2017年だったのだろう)という人がいて、「1983年ホノルル・マラソン完走Tシャツ」を挙げている。『村上T 僕の愛したTシャツたち』の中でその「68歳男性」は村上さん本人が自分だと明かしている。このマラソンは彼が初めて走った記念すべきフルマラソンで、ハワイに行ったのもこのときが初めてだったそうだ。しかし・・
〈ロードレースの「完走Tシャツ」には「これ、もらっても困るんだよな」というものがかなりたくさんある。たぶん限られた予算の中で、地元のデザイナーが一生懸命デザインしてつくるんだろうけど、それにしてもなあ・・・(とほほ)というものが大部分だ〉『捨てられないTシャツ』 273 ページ
かくして着ることもなく、しかし捨てることもできないTシャツをしまってある抽斗はいっぱいになり、ダンボールも積み上がる。このTシャツも34年間、一度も着られなかった。とほほだけど、捨てられない一つ。しかもこのマラソン以来、村上さんはハワイが好きになったのだそうだ。
Tシャツは所有者の人生を映画のように投影する小さなスクリーンなのかもしれませんね。
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