美術史の豊かな知識を土台にして、当代一の画力を武器にどこにもない絵を生み出す。そんな人気画家、山口晃ガハクは夫婦揃って食いしん坊。日常で、旅で、制作中の日々で、散歩の途中で何を食べてるの? ガハクが日常を描くコミックエッセイ『すゞしろ日記』に「カミさん」として登場するガハク妻による食事帖。 バレンシア観光の教訓「耳は忘れたとしても、舌は忘れない」。
絵/山口晃
山口ヒゲ画伯こと夫(以下ガハク)の仕事の幅は比較的広いかもしれない。一応肩書は画家であるが、立体作品を作っていたり、マンガも描いたり、美術作品や歴史について語る(感想を述べる)・・・など。
そのいくつかの中で、世界一周航海中の客船「飛鳥II」にてレクチャー&公開制作(パフォーマンス?)をするという機会が2度あった。
「飛鳥II」は全長241m × 全幅29.6m、乗客用のデッキは5〜12階。いくつかのレストランやラウンジ、シアター、ショップ、プールなどが併設され、大きなホテルがそのまま海上を移動しているようなイメージだ。
各停泊地にて乗客は下船して観光するが、時に何日にもわたる航海中、船内ではガハクのように招かれた講師やエンターテイナーによるレクチャーや公演が各種企画され、常に飽きることなく過ごせるという仕組みになっている。
2018年4月終わりから5月の連休にかけての10日間がガハク2度目の乗船で、この年はシンガポールなどアジアを経由してスエズ運河を通り地中海へ、欧州の港にいくつか寄港した後パナマ運河を経て途中ハワイに寄って太平洋を渡る、といったルートであった。
船が3月半ばから7月始めまで約3ヶ月をかけて世界を一周する間、いつ講義を行うかの日程は希望を聞いてもらえるので、まずどこに行きたいかを真っ先に考えることになる。
そう、講師はその家族も同行可なのだった。もちろん航空券代は自費になるが、他の乗客とほぼ同じように船内で過ごすことができる。(イベントやレストランの利用などは基本一般の乗客優先)そういうことならば旅の好きな私がついていかないわけがない。(ちなみに私の飛行機代でガハクのギャラはチャラというかマイナスになる計算で、仕事というよりは家族サービス)
当時まだ私はフルタイムで働いており、休みを取れる時期を考慮しなければならなかったが、予定表を見ると連休にあたる頃、地中海を通過する。まさに行きたいエリアではないか!
そうしてマルタ島のバレッタ港から船に乗り込み、その後イタリアのチビタベッキア、スペインのバレンシアとマラガ、イギリス領ジブラルタルを経てポルトガルのリスボンにて下船という夢のようなスケジュールと相なった。
そんな、ガハクは仕事で大変だけれど私は気楽な船旅にて、バレンシアに降り立った際のこと・・・・。
中心街から港が離れている寄港地では、船から街へはシャトルバスが用意される。
バレンシア港付近の殺風景な地域から庶民的なエリアに入り、車窓から街路樹として植えられているオレンジの木々が目に飛び込んでくると、すうっと初夏の風が吹いたかのような錯覚が起こる。街中にオレンジの実が生り白い鳩がいる、それだけで一気に違う世界に来た気持ちになる。
15分ほどでバスは旧市街の入口、城壁の一部だったというどっしりした構えのセラーノスの塔付近に停車した。
私たちにとって気になる問題、お昼ごはんについては船が岸に近づいてから持参のレンタルWi-Fiを使ってざっと調べ済みである。(当時、海上ではほぼ99.99%インターネットにつながらなかった)
実はパエリア発祥の地はバレンシアだそうで、本場オリジナルいわゆるバレンシア風の具材は山の幸ベースでウサギやカタツムリが使われるとのこと・・・。パエリアというと即座にイメージする魚介のタイプも一応メニューにあるようだが邪道とみなされている・・・とは全く知らなかった。
普段ならばその土地の食を是非とも試すところだが、レストランでの食事は時間がかかりそうで船に乗りそびれたら大変だし・・・あとはウサギとカタツムリという馴染みのない食材に(私の方は)腰が引けていたのも事実。
次の選択肢、観光案内でトップにくるような欧州でも最大級の中央市場を見学がてら、食べ歩きでもしてみようということに決めた。
まだ11時台でお昼には間があり、やや雑然とした印象の旧市街を歩き進んでまずは観光の定番ともいえる大聖堂に立ち寄る。ここで、入場料にもれなく各国の音声ガイド付きであったことが災いする。
何事も生真面目に受け止め、適当に流すということをしないガハク。ガイドに従って全ての説明を細かく聞き、説明された対象物が見当たらないと懸命に探す。そこそこの広さで見どころもある教会ではあったけれど、宝物館的な分館見学も併せて2時間近くを費やしてしまった。にも関わらずそこで一体何を見たのか、現在ふたりともほぼ覚えていない。たぶん、自分の眼だけで見ていた方が何かしら記憶に残ったのではと思ったりする・・・。
まあまあ時間をとってしまったので中央市場へと急ぐ。市場なので15時くらいにはぼちぼち店じまいとなるらしい。
中央市場のアーチ状の入口はなかなかに壮麗で、市場というより教会を彷彿させる。後に調べると、モデルニスモ様式(モダニズム様式。ガウディの建築で知られる)の建築物なのだそうだ。どうりで。見上げる高い天井は広々として梁の組み方が美しく、随所に使われているタイルも洒落ており、場内は全体に明るくて気持ちがいい。
約8000平米の敷地に約1000軒もの店があるそうなので、もうどこから何を探したらいいのか・・・ガハクと共に冒険気分だ。
精肉コーナーは例によって日本人から見るとぎょっとする生々しい肉塊が陳列されており、この地ではポピュラーな食材だけあって剥かれたウザギがずらりと十何匹もぶらさがっている様は相当な迫力。ミッフィーファンの私としてはつい下を向いて小走りになってしまう。
ほかに魚介、野菜はもちろん、調味料類や惣菜店も充実していて見ていく端から引き込まれる。
量り売りのドライフルーツ、ナッツなどおつまみになりそうな食材の顔つきがまず違い、目をキラキラ輝かせてフレッシュさをアピールしてくる。(実際は顔も目もないですけれど)中でもオリーブ屋の、さまざまに漬け込まれた黒、緑、紫色をしたオリーブたちは本当にふっくらぷりぷりつやつやで、ふらふらと財布を出そうとしてガハクに制止された。
「ちょっと、落ち着いて。どうやって持って帰るの? 船でも食べ切れないでしょう?」
そうだ、まずはお昼ごはんを確保しなければ。
やはり気にかかるのはハモン・イベリコ。生ハムホルダーにセットされた足が、いくつもの店先にスタンバイしている。(これに対しては気味悪がらないとは現金なものだ・・・)
吟味した上、その場で薄くスライスしてくれる生ハムをパンに挟むだけというシンプルなサンドイッチを購入。
別のパン屋にて、パイ生地の惣菜パン(たぶんフィリングはチーズと野菜)もアクセントとして加えてみる。
飲み物はフレッシュオレンジジュース一択。というのも市場内には果物屋の一角やジューススタンドなどオレンジジュースを販売している店が点在していて、当初からガハクとふたりして目を光らせていた。
小山のように積み上がったオレンジを横に注文に応じている様子、すでに透明な蓋付きカップに入れて各サイズ並べている棚、スタンドに並ぶお客をさばきながら搾り器を操作する店員、歩きながら飲んでいる人たち・・・。透けたカップ越しのフレッシュオレンジジュースは、蛍光を帯びたオレンジ色で発光し、ふるふると濃度のある半固形の物質のようも見え、ただ事ではない存在感を漂わせていた。
・・・絶対飲む!
ランチ用のアイテムを集め終わり、ようやく市場の片隅の飲食スペースに座って遅いお昼をとる。
イベリコ豚の生ハムは期待通り(パンも予想通り堅い)、口当たりが優しく、脂身部分は薄氷のように口の中で瞬時にとけていく。
氷なんぞは入れず、当地では常温がデフォルトの生搾りオレンジジュースは・・・ガハクにも私にとっても生涯最高峰、今までのものとも、その後飲んだものとも全く別物な鮮烈さがあった。
汁気たっぷりの果肉をそのまま食べる・・・でも房を包む薄皮を噛むストレスがないのはなぜ? そうだジュースを飲んだのだった、という感覚。味は濃厚であるが、べたつかない甘みとさわやかに抜ける酸味とが後口よく消えていく。
市場の店も閉まっていくところが多くなってきて、そろそろ私たちも帰らねばならない。シャトルバスの最終便は混みそうなので、そのひとつ前の16時発に乗る予定だ。
出口に向かっていく途中、掲げられた看板に飲み物の入ったコップと植物の絵が描かれた、妙に気になるカウンターを見かけた。おそらく何らかの飲料を売っていて、他のメニューはなくそれだけを扱っているようだ。
「何だろうね」
見当のつかないこの雰囲気は、明らかにこの土地ならではの一品に違いなく、ガハクが興味津々となる。
「おいしくないかもしれないし、やめようよ」
私はその場から離れようとするが、ガハクが珍しくたたみかけてくる。
「後悔しないの?」
「・・・・」
このような時、買いに行くのは私の役目なので、トコトコとお店に近づいていき「一杯ください」と身振りと英語で注文をする。
すると、黒いワンピースの制服姿の店員が、おもむろにステンレスの給食バケツのような入れ物の蓋を開け、レードルで中身をすくい上げて紙コップに入れてくれた。
「!!!」
ややとろみのある不透明の白い液体、例えるならば甘酒かおかゆかという予想外のビジュアル。
「こんなだったよー」
遠巻きにうかがって待っていたガハクに飲み物を渡す。
恐る恐る飲んでみると身構えていた程にはクセもなく、ほんのり草っぽい甘み。むしろ拍子抜けする。
「大丈夫、飲めそう」
ガハクの分析によると果物というよりはナッツ系の風味でヒノキを彷彿させる香りが感じられるとのこと。しかし馴染みがなさすぎて、意思疎通の難しい味のポイントは手乗りでないインコのようにするりと逃げ、結局つかみどころが分からない。
一体この不思議な液体はなんだったのか、船室に戻りWi-Fiが使えるうち「バレンシア、白い飲み物」で早速検索してみた。
すぐに「オルチャータ」なる名前であると判明。キハマスゲ(スペイン語ではチュファ)という植物の地下茎の搾り汁で、バレンシア発祥の夏の飲み物とのこと。また「ファルトン」という細長いパンを浸して食べたりするそうで、アジアの豆乳に揚げパンという組み合わせとまるで同じ発想! いかにもおいしさが倍増しそうだ。市場のスタンドにも置いてあったのかもしれないが、気付かなかった・・・無念である。
その時はまだ謎のままの飲み物を手に、回り道をして歴史的建造物「ラ・ロンハ・デ・ラ・セダ(絹の商品取引所)」の前を通ったりしながら、ガハクと私は集合場所へと歩いていった。
半日にも満たない、ほんの4時間半ほどのバレンシア滞在では随分様々な体験をしたように思え、とりわけスペインの食はかなり深そうだと俄然興味がわいた。
胃袋も心も満足し、帰路のバスの窓から、ちらほらとオレンジの実をつけた街路樹を名残惜しく見送った。
あのオレンジジュースを飲むためだけに、もしくはオルチャータの味の核心はどこなのかを確かめるために再びバレンシアへ行ってもいいかも、と未だ思っていたりするけれど、ガハクはどうなのか聞いてみたところ、「そんなに苦労せず行くことができるのであれば是非に・・・」との答えが返ってきた。
では、いつか、のために調べておこうか。
■次回「ヒゲのガハクごはん帖」は6月第2週に公開予定です。
●山口晃さんってどんな画家?
1969年東京都生まれ、群馬県桐生市に育つ。96年東京藝術大学大学院美術研究科絵画専攻(油画)修士課程修了。 2013年『ヘンな日本美術史』(祥伝社)で第12回小林秀雄賞受賞。
日本の伝統的絵画の様式を踏まえ、油絵で描く作風が特徴。都市鳥瞰図・合戦図などの絵画のみならず立体、漫画、インスタレーションなど表現方法は多岐にわたる。
主な個展に、2015年「山口晃展 前に下がる下を仰ぐ」(水戸芸術館現代美術ギャラリー、茨城)、18 年「Resonating Surfaces」(大和日英基金ジャパンハウスギャラリー、ロンドン)など国内外展示多数。
2019年 NHK大河ドラマ「いだてん 〜東京オリムピック噺〜」のオープニングタイトルバック画を担当し、22年善光寺(長野)へ《善光寺御開帳遠景圖》を奉納する。
2023年9月アーティゾン美術館にて個展
ジャム・セッション 石橋財団コレクション × 山口晃 ここへきて やむに止まれぬ サンサシオンを開催予定。
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