マリー・ローランサン 《ニコル・グルーと二人の娘、ブノワットとマリオン》 1922年 マリー・ローランサン美術館蔵 © Musée Marie Laurencin

「マリー・ローランサンとモード」展が〈Bunkamura ザ・ミュージアム〉で開催されている。「パステルカラーの乙女チックな絵を描く人でしょ?」のひとことで片付けてしまうのは実にもったいない! ローランサンが活躍した1920〜30年代という時代背景と数々のモード(流行)、そこに登場する華やかな面々との関わりを知ることで、職業女性画家のパイオニアとしての実像が鮮やかに浮かび上がってくる。マリー・ローランサン美術館館長、吉澤公寿さんの解説を織り混ぜてお送りしよう。

ブラック、ピカソに認められた女流画家

マリー・ローランサン 《わたしの肖像》 1924年 マリー・ローランサン美術館蔵 © Musée Marie Laurencin

ピンク、淡いグレー、ペールブルーの柔らかな色調。磁器のような白肌にアンニュイな無表情、黒目がちの瞳。マリー・ローランサン [1883-1956] の作品はそれが自画像であれ、可憐で甘やかな雰囲気に満ちている。でも彼女は本当に夢見るだけの画家だったのだろうか?

1883年に私生児として生まれ、お針子として働く母親に育てられたマリー・ローランサンはまず磁器の絵付け学校に通い、その後、絵画の私塾で一緒に学んだジョルジュ・ブラックに才能を認められ、モンマルトルの芸術家たちの共同アトリエ、通称 “ 洗濯船(バトー・ラヴォワール)” に連れて行かれた。そこはピカソ、モディリアーニ、ヴァン・ドンゲンらが住み、アンリ・ルソーやアポリネールが出入りした未来の芸術家の坩堝だった。

「“ 洗濯船 ” に立ち入った女性画家はローランサンだけです。ピカソたちはローランサンを女性だから認めたのではなく、そのデッサンや構成力に新しい時代の絵を見出して高く評価した。そういう意味では成功した職業女性画家のパイオニアです。もちろんそれ以前にもベルト・モリゾやメアリー・カサット、シュザンヌ・ヴァラドン(モーリス・ユトリロの母)など女性画家は活躍していましたが、画家としての価値を自覚していたのはローランサンだけだったでしょう。すごく芯のある女性だったと思います。晩年、彼女は『自分の前にも女性画家はいたが、彼女たちは男の真似しかしなかった。私は女性的なものに対してはまったく自信がある』と言っています。ルネサンス以降綿々と続いてきた男性主体の絵画の系統を踏襲してきたのが女流画家だとすれば、ローランサンはそれとは明らかに違ったのです」(吉澤公寿さん/マリー・ローランサン美術館館長/以下同)

官能性やなまなましい表現で示された女性性とは一線を画し、アカデミズムにも印象派にも収まらず、ローランサンにしか描けない繊細な筆致と優美な色彩で女性的な造形を生み出した点で、彼女はそれまでにない “ 新しい画家 ” だった。

1920年代〜狂乱の時代〜

ローランサンを知る上で欠かせないのが、レ・ザネ・フォル(狂乱の時代)と言われた1920年代への理解だ。第一次世界大戦 [1914-1918] で多くの男性が戦地に送り出され、人材不足を補うように女性たちは様々な仕事に従事するようになり、社会進出が進んだ。技術革新が進み、モータリゼーションの到来、通信や交通網が飛躍的に発展し、ライフスタイルの変化は加速していった。大戦が終わると、解放感みなぎる戦勝国フランスに新しい時代の予兆を感じて多くの人が流入した。キスリング、モディリアーニ、パスキン、モンドリアンらヨーロッパ各地の芸術家だけではない。人種差別や禁酒法から逃れたアメリカ人も大勢パリに押し寄せた。スコット・フィッツジェラルド、ヘミングウェイ、マン・レイ、『シェイクスピア書店』のシルヴィア・ビーチ、ダンサーのジョセフィン・ベーカー……芸術家サロンや仮装舞踏会にきら星のごとき才能が集うお祭り騒ぎの日々は、ウディ・アレン監督の映画『ミッドナイト・イン・パリ』にわかりやすく紹介されている。

社会が変容し、新しい生活様式が生まれれば、服装も変化していく。体を締め付けるコルセットやペチコートを排除し、胸から足下にかけてストンと落ちるラインのドレスを生み出したのはポール・ポワレだが、ロングスカートを堅持した彼の隆盛は1910年代まで。20年代に代わって登場したのが、ガブリエル・シャネル [1883-1971] だ。

自動車で旅をし、ゴルフやテニスなどスポーツに興じる活動的な女性たちのために、シャネルは男性用下着の素材だったジャージーを女性の服に仕立て、スポーツウェアや水兵のユニフォームからカジュアルなリゾート着を考案した。男物のセーターをハサミで切り開いてカーディガンジャケットに仕立て直し、ドレスにはなかった機能的なポケットをつけ、足首にまとわりついていたスカートを膝下丈に短くした。動きやすさ優先のシャネルの服は時代のニーズにぴったり合致した。

ガブリエル・シャネル 《デイ・ドレス》 1927年頃 神戸ファッション美術館蔵

似た者同士? シャネルとローランサン

ローランサンとシャネルは同い年。かたや母子家庭で育ち、かたや孤児院に預けられるという不遇の幼年時代も共通する。二人は芸術家が集う社交の席で出会った。

「ローランサンが男性目線の女性性ではなく新しい女性性を提示したように、シャネルも男物の洋服を自分流に変え、ショートカットに腰を締め付けない細長いシルエット、膝下丈のスカートという“ ギャルソンヌ・ルック ” を生み出しました。カメリアの花を愛し、シンプルで清潔な生活が好きという点でも、二人はとても感性が似ていたと思います」

しかしある時、シャネルはローランサンに自分の肖像画を依頼したが、出来栄えに満足せず描き直しを迫った。ローランサンは応じなかったので、シャネルは結局作品の受け取りを拒否したという有名な逸話がある。その絵がこれだ(写真右)。

「マリー・ローランサンとモード」展示風景
右|マリー・ローランサン 《マドモアゼル・シャネルの肖像》 1923年 オランジュリー美術館蔵

「とはいえ、一緒に食事をしたりパーティに行ったり、基本的に仲はよかったのです。シャネルはこんな言葉を残しています。『ローランサンは夫婦なんていう単位は大嫌いだと言ったが、私もそう思う』。ローランサンは恋人のアポリネールと別れ、ドイツ人貴族と結婚しますが、後に離婚。シャネルも数々の男性遍歴はありながら、独り身を通しました。結婚制度に縛られず経済的に自立し、人生を謳歌した点でも二人は似ています」

舞台芸術とローランサン

1909年から29年までパリを席巻したセルゲイ・ディアギレフ率いるロシアバレエ団「バレエ・リュス」も、20年代のパリを語る時に欠かせない存在だ。ダンサー兼振付師のニジンスキーや作曲家のストラヴィンスキーらが繰り広げる前衛を、ジャン・コクトーやミシア・セール、ノアイユ子爵夫人らがパトロンとして支援し、ローランサンも1923年の公演「牝鹿」の衣装と舞台美術を手がけた。一方、シャネルは1924年に「青列車」の衣装を手がけ、台本はコクトー、舞台幕はピカソの作だった。国籍もジャンルの垣根も越えてアーティストが共作し、新時代の芸術が次々と生まれた時代だった。

マリー・ローランサン 《牝鹿と二人の女》 1923年 ひろしま美術館蔵

ちなみに、ローランサンは肖像画の注文が舞い込んだおかげで画家として更なる成功をおさめるのだが、そのきっかけはニューヨーク生まれの銀行家の娘でパリ社交界の華だったグールゴー男爵夫人の肖像だった。彼女はその出来栄えを大変気に入り、立て続けに2作購入した。

「マリー・ローランサンとモード」展示風景
右|マリー・ローランサン 《ピンクのコートを着たグールゴー男爵夫人の肖像》 1923年頃 パリ、ポンピドゥー・センター蔵
左|マリー・ローランサン 《黒いマンテラをかぶったグールゴー男爵夫人の肖像》 1923年頃 パリ、ポンピドゥー・センター蔵

下は舞台女優ヴァランティーヌ・テシエの肖像画で、1930年代になるとグレートーンは影をひそめ、明るく強い色彩に変わっていく。

マリー・ローランサン 《ヴァランティーヌ・テシエの肖像》 1933年 ポーラ美術館蔵

装飾芸術とローランサン

ローランサンはインテリアの分野でも活躍した。ポール・ポワレの末妹のニコルは自身も服飾分野で活躍し、装飾美術家のアンドレ・グルーと結婚。ローランサンとニコルは生涯を通じて親密で、家族ぐるみの付き合いをした。アンドレはローランサンのアパルトマンの室内装飾を手がけ、またローランサンの作品をアンドレが室内装飾に使うなど、協力関係にあった。1925年の通称 “ アール・デコ博覧会(現代装飾美術・産業美術国際博覧会)” に象徴されるように、室内装飾にお金をかけることが流行した時代にローランサンの才能は生かされた。

マリー・ローランサン 《鳩と花》 1935年頃 (タペストリーの下絵) マリー・ローランサン美術館蔵 © Musée Marie Laurencin

「マリー・ローランサンとモード」展示風景
右|マリー・ローランサン 《鳩と女たち(マリー・ローランサンとニコル・グルー)》 1919年 ポンピドゥー・センター蔵、パリ装飾美術館に寄託

「ニコル・グルーとローランサンは同性愛も噂されたほど親密でした。ローランサンが参画したバレエ・リュスの作品タイトル『牝鹿』は女性同性愛者を暗喩する隠語です。また女性が短髪にしパンツをはくようになったり、シドニー=ガブリエル・コレット など女流作家がめざましい活躍を見せたり。ファッションや芸術や社会の既成概念を次々と打ち破った1920年代は、LGBTQやダイバーシティを掲げる今の時代と、どこかリンクしているように思います。戦争と疫病(1918年〜21年に流行したスペイン風邪)があったことも、現代の状況と重なります。あの時代に自分の才量で人生を切り開いていく女性たちが脚光を浴びたことは、今を生きるヒントになるのではないでしょうか。単に可憐でフェミニンな絵を描く画家というだけでなく、時代のモードと共にあったローランサンを再発見してほしいです。今年は生誕140周年を迎え、ますます評価が高まるのではないでしょうか」

マリー・ローランサンは単なる夢みがちな絵描きではなかった。新しい時代の様々なモードと結びつきながら才能を発揮し、男性社会と張り合うのではなく彼女にしか描けない確固たるスタイルを作り上げた。

「時代の寵児となるアーティストや名士たちと交流したローランサンは『絵具はお金に変わる』と考え、『J’aime le luxe(私は贅沢が好き)』とレターヘッドに記していました。エッフェル塔が見えるアパルトマンに家政婦をつけて暮らし、シャネルのオートクチュールを着こなす女性だったのです」

経済的に自立し新しい生き方と自由を謳歌した女性像は、現代の私たちにも響くものがある。そのことを同時代のファッション、舞台芸術、社交界、室内装飾と、分野を越境しながら俯瞰する展覧会だ。

セシル・ビートン 《お気に入りのドレスでポーズをとるローランサン》 1928年頃 マリー・ローランサン美術館蔵 © Musée Marie Laurencin

マリー・ローランサンとモード

会期|2023年2月14日(火)- 4月9日(日)

会場|Bunkamura ザ・ミュージアム

開館時間|10:00 – 18:00 [金曜・土曜日は10:00 – 21:00]  入館は閉館の30分前まで

お問い合わせ|050-5541-8600(ハローダイヤル)

■オンラインによる事前予約を受付。予約なしの場合、混雑時は入場制限あり

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アーティスト

藤井フミヤ