ダミアン・ハーストが渾身の力を込めて描いた桜がいま、美術館で満開である。国立新美術館「ダミアン・ハースト 桜」。彼は本展出品作に関するインタビューの中で、学生時代からピエール・ボナールの色彩に圧倒されていることを語っている。日本では奇しくも数年前、この国立新美術館でピエール・ボナール展が開催されているがそのときの担当者でボナール研究の第一人者、横山由季子氏に「ハーストとボナール」を語ってもらった。🅼
「私の絵がひび割れずに残ることを願う。西暦2000年の若い画家たちのもとに、蝶の羽で舞い降りたい。」
この言葉は、1946年、世を去る直前のピエール・ボナールが手帖に書きつけたものです。ボナールの画集や展覧会できまって引用される老いた画家の切実な願いを私がはじめて知ったのは、2006年にパリ市立近代美術館で開催された大規模な回顧展「ピエール・ボナール 芸術作品、時間の静止」でのことでした。
当時、私はパリに1年間留学していて、画集でしか目にしたことのなかった、どちらかといえばぼんやりとした印象のこの画家の展覧会にふらりと足を運びました。鮮やかな黄色のエントランスを抜けて会場に歩みを進めると、そこに現れたのは、空間が圧縮されたような不可思議な構図と、美しくも捉えどころのない色彩、そして絵画そのものが網膜を通して私の身体に浸透してくるような、ふわふわとした感覚でした。しかし、今でもはっきりと覚えていますが、展覧会の出口付近の壁に書かれた冒頭の言葉を読んだとき、そのとき見た作品の全体が急にはっきりとした輪郭を伴って迫ってくるような感覚がありました。曖昧模糊とした印象の背後に、緻密に織り込まれた画家の意図があることを意識したからかもしれません。
帰国後、ボナール研究の道に進むことを決め、学芸員の仕事と並行しながら断続的にではありますが、かれこれ15年あまり、この画家の調査を続けています。そんな私が、2018年に国立新美術館で開かれた「ピエール・ボナール展」に携わる機会に恵まれたとき、想像していた以上の「西暦2000年の画家たち」のもとに、ボナールの絵画が届くさまを目の当たりにすることになります。さらには、画家に限らず、立体や映像などさまざまなジャンルで制作している現代作家たちが、展示を訪れ感想を語ってくれました。そして、海の向こうでダミアン・ハーストがボナールからの影響を示唆しながら巨大な〈ベール・ペインティング〉に取り組んでいることを、オンライン記事を通じて知ったのも、ボナール展の準備期間のことでした。2018年3月29日、ハーストは制作中の動画とともに自身のインスタグラムにこんな投稿をしています。
「私は昔からボナールとその色彩が好きで、学生時代にパリのポンピドゥーで行われたデ・クーニングとボナールの展覧会を見に行きましたが、2人のアーティストには圧倒されました。今回制作した作品は、〈ベール・ペインティング〉と名づけ、3月にロサンゼルスのガゴシアンで展示する予定です。
それは大画面の抽象的なボナールの絵画のようなもので、スケールで遊んでいたのですが、大きなものは完璧な感じがします。花々に降り注ぐ太陽の光、他はどうでもいいのです。」
あのハーストが、これほど素朴な動機で、抽象絵画に取り組んでいることに衝撃を受けた人は私だけではないでしょう。それから4年が経ち、〈ベール・ペインティング〉のあと描き続けてきたという〈桜〉のシリーズが国立新美術館で展示されています。広さ2000平米、天井高8メートルの大空間にわずかな壁を建てたのみの、ホワイトキューブによるなんとも潔い展示です。大聖堂の身廊を思わせるシンメトリーな空間には、まるで祭壇画のように24点の〈桜〉シリーズが厳かに展示され、訪れる人は圧倒されながらも写真を撮ったり、近づいたり離れたりしながら思い思いに展示を楽しんでいました。
ところで、展示会場の奥で紹介されていた、ハーストが過去の画家たちに触れながら自作の展開について語ったインタビュー映像の冒頭で、気になる表現がありました。「〈ベール・ペインティング〉では、実際に絵の中に15センチ程の奥行きを出すことを試した」というものです。遠近法を駆使してはるかな距離を描き出すこともあれば、まったく奥行きのない、絵具の表面のみがそこにあるのも絵画ですが、15センチメートルというのは、わざわざ描くにはいかにも微妙な距離のようにも思われます。
ハーストの言う15センチ程の奥行きは〈ベール・ペインティング〉についての言及の中で出てきたものですが、のっぺりとした背景と幹に、ドットによる桜の花が置かれた〈桜〉シリーズでも、この関心は持続しているようです。言うまでもなく、実際の桜の木には数メートルの広がりがありますので、彼は人々が桜と聞いたときに抱くスケールを「圧縮」して描いていることになります。そしてそれは、画面を覆う大きさも色も筆触も様々なドットの「重なり」によって実現されているようです。普段私たちは、現実の空間においても、絵画空間においても、ある物の上に別の物が重なって見えたとき、そこに前後関係があることを認識します。非常にシンプルなことですが、ハーストはドットを縦横無尽に重ねることによって、カンヴァス上にわずか15センチ程の奥行きを創出しました。たとえば白いドットがピンクのドットの上に置かれていることもあれば、下に置かれていることもあります。それが画面全体で展開されることで、私たちの視線は表面に留まるでもなく、奥に分け入るでもなく、ドットを置くハーストの身振りを想像しながら、わずかな奥行きのあいだを往還することになるのです。
それは、長い絵画の歴史の中で、ボナールが構図や色彩を駆使してある種の「近さ」を表現しようとしたことにも通じています。空間的にも時間的にも隔った対象を、絵画によって近くにあるものとして現前させる――それは単なるイリュージョンとしてではなく、また造形的な探求に帰結するものでもなく、絵を描くということを覚えた私たち人間の根源的な欲求に結びついているのではないでしょうか。ハーストの展示をめぐり、2006年のボナール展に想いを馳せながら、そんなことを考えていました。
会期|2022年3月2日(水)~5月23日(月)
会場|国立新美術館 企画展示室2E
開館時間|10:00~18:00[毎週金・土曜日は20:00まで、入場は閉館の30分前まで]
休館日|火曜日[ただし、5月3日(火・祝)は開館]
お問い合わせ|050-5541-8600[ハローダイヤル]
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