美術史の豊かな知識を土台にして、当代一の画力を武器にどこにもない絵を生み出す。そんな人気画家、山口晃ガハクは夫婦揃って食いしん坊。日常で、旅で、制作中の日々で、散歩の途中で何を食べてるの? ガハクが日常を描くコミックエッセイ『すゞしろ日記』に「カミさん」として登場するガハク妻による食事帖。 カレーをつくることは恋愛に似てる?(ってそこまで言ってないか)。  

 

絵/山口晃

とある週末、私はばたばたと身支度を整え、普段あまり使わない革のバッグを勢いよく肩に引っかけると、まだ寝ている山口ヒゲ画伯こと夫(以下ガハク)へ声をかける。
「じゃあ、行ってきまーす」
今日は友人とランチの約束がある。いわゆる女子会だ。
その声を目覚まし代わりにしたガハクは、突然起き上がったせいで足元が安定せず、ドタンガタンと大きな物音を立てながら私を送り出しにやって来た。

心配性のガハクは、私を見送りたいというより、用心のためドアにチェーンをかけておきたいがために玄関まで来ているのだと思われる。
すぐ扉に施錠をされてしまうから、忘れ物(日傘とか)を思い出してエレベーターの前やマンションのエントランスから急いで家に戻っても、私は中に入れず、チャイムを鳴らしてドアの隙間をのぞきつつガハクを待つことになる。
そのちょっとの間にガハクが再びおやすみモードになってしまっていると、起き出してくるまでに少々時間もかかる上、私もちょっと申し訳ない。

さて、こうして私だけが出かけてしまう場合は、ガハクが気づくように台所の作業台にレトルトカレーとパックご飯を並べて置いておくことが多い。そこに「レイゾウコにブロッコリー有」という付箋を付けることもあれば、時間が許せばリーフレタスに塩、酢とオリーブオイルをかけただけのグリーンサラダを添えたりもする。

毎度ガハクは「そんなに気を遣ってくれなくてもいいんだよ」と言いつつ、「何もなければ外に食べに行くという選択肢も増えるわけで、用意されたがゆえにむしろ自分の行動が限定されてしまう」と、さもありがた迷惑であるかのような主張をする。
しかし、多忙であったり、私がいないので気を抜いて大幅に寝過ごしたりで、結果ガハクがひとりでお昼に外食することはほぼないのだった。
何も用意していかなかった時に、お昼はどうしたの?とガハクに聞けば、
「うーん、なんだか機を逸して食べなかった」
ということもままある。

むろん子どもではないから、たいていは自分で戸棚を開けてレトルトカレーを探したり、冷蔵庫からビーフンなどの冷凍食品を見つけてちゃんと食べてはいるけれど。
逆に、私がひとりで留守番になった際も、カレーにはよくお世話になる。
こんなふうに、このところわが家ではカレーといえばレトルト、それもお昼に困った時、という状態になってしまっている。

ガハクはカレーが好きだから、(レトルトではわびしくてちょっと悲しくもあるだろうけど)こんなお昼ごはんにもそれなりに楽しみを見つけてくれているかなとは思う。
しかしレトルトといえど、老舗レストランMの製品は完成度が高くて驚かされた。チキン、ビーフ、ポークの3種あり、それぞれ細やかに味が異なり、「大きすぎでは?」と言いたくなるほどの肉が入っている。店の味をぜひご家庭でも、という作り手の気持ちがぎっしりつまっている感がする。
その他、銀座の某インド料理店のレトルトチキンカレーは、ガハクも私もかなり気に入っていた。ガハクでも無理なく食せるギリギリのラインの辛さで、スパイシー加減もほどよく、インドカレーにありがちな油っこさも控えめ。骨つきチキンなので見た目もぜいたくである。宅配のカタログに掲載されていて何度も購入したが、コロナの期間中限定だったのか、その後見かけることがなく非常に残念である。その店に食べに行けばいいのだけれど、むしろレトルトパックという小宇宙に閉じ込めたからこその面白みがあったようにも思える。でも、いずれ訪れてみたい。

とはいえ常にこのようなこだわりの製品だけをストックしているのではなく、非常食も兼ねているので、ガハクでも大丈夫そうな辛さのものを適当に揃えてある。ちなみに私用にはタイカレーを別途用意していたりする。

今でこそ、ホテルビュッフェでの「絶対朝カレー」に始まり、カレー大好きなガハクだが、大学生になるまでそれほどでもなかったそうだ。
ガハクは子どもの頃、肉の脂身が大の苦手だったという(実は私もで、私たち世代の食料事情なのか、昔は肉に脂身部分が過剰に付いていたような気がする)。
薄切りの肉にはぴろぴろと脂がまとわりついているし、鶏肉にもぷつぷつの毛穴が生々しいぶりっとした鶏皮がくっついている。
一口大にカットされたカレー用肉はなべて脂部分も厚かった。食べるとぐじゅっとつぶれ、それでいて筋ばって噛みきれなかったりして、ガハク風に表現すると「えずきそうになる」わけだ。

そんな肉が入っているカレーでは気も重くなる。給食で出てもガハクは全然うれしくなかったそうだ。
ガハクが小学生の頃、初めて新幹線に乗った時に食堂車にも連れて行ってもらったそうなのだが、メニューを見てもよく分からないのでカレーを注文したという。出てきたカレーには脂身付きの肉の塊がたくさん入っており、子どもガハクは恐怖を覚え、肉だけ全部残してしまったそうだ。「今食べたらほろほろでおいしい肉だったかもしれないけど、当時は無理だった」と、ガハクは残念そうに語るのだった。

さらにはガハクの家庭で出されていたカレーは、お母さんの栄養への配慮により具材が大きく汁気が少ない点がガハクの好みに合わず、不服に感じてしまっていたという。
これらの諸事情により、かつてカレーはガハクにとって近しい存在になり得ていなかった。たぶんガハクも味だけなら好きだったと思われるので、カレー自体には何の罪もないからとんだとばっちりである。

事態が好転したのはガハクが上京し、ひとり暮らしを始めてからのようだ。
現在のガハクからは想像もつかないが、実は子どもの頃は食べ物の好き嫌いがものすごく、寿司ネタも納豆巻きと玉子くらいしか食べられなかったらしい。
仕送り生活で自炊をしているとおのずと食材を大事にするようになり、外食で様々な料理も口にする機会もでてくる。そうして徐々にいろいろなものが食べられるようになっていき、いつの間にか好き嫌いはなくなったという。
肉に関して決定的だったのが、ガハクが大学の友人に誘われて食べたというチェーン店での牛丼だったという。牛丼の肉はまさにぴろぴろの脂身だらけ。どんより冴えない色味であるし、当時のガハクがその見た目だけでひるんだことは想像に難くない。

それまで肉は脂身部分だけ外して食べていたけれど、ガハク曰く「そんな作業をしていたらとてもではないが3年くらいかかりそう」だし、学生の身には安い食べ物でもなかったので、思い切ってぱくっと食べてみたそうだ。
すると、脂身は甘くて筋が残ることもなくさっと溶け、「これなら食べられる、おいしい」と思えたとのことだった。
肉の脂というハードルが取り払われ、ようやくガハクとカレーの間の距離も縮まり、怖気付くことなく食べていくうち、いつのまにか好物のひとつとなっていったようである。

ある日、私は何気なくガハクに聞いてみた。
「カレーが好きみたいだけど、どんなカレーが一番好きなの?」
「どんなってどういうこと? カレーはカレーでしょ」
確かに分かりづらい質問だった。

「ほら、インドカレーなのかタイカレーか、日本風のとろみのあるカレーかってこと」
「そりゃあ日本のカレーでしょ」
ガハクは辛いものが苦手だから聞くまでもなかったか。
「そういえばさ、家でカレー、全然作ってくれないよね」
しまった、墓穴を掘ってしまったかもしれない。
「カレーなら食べているじゃないの。レトルトだけどいろんな種類を」
「違うの。ルーを溶かして作る、あのカレーが食べたいの!」
もうここ何年も家でカレーは作っていない。もしかすると10年くらい経過しているのかも。

人員2名の家庭において、カレーを作るのは何かとおっくうだ。
カレーは大人数で食べることを想定されているのか(林間学校とか、泊まりがけの実習とか)、よく見かける箱入りの市販のカレールーは10人分くらいある。
いっぺんに一箱すべて使い切るのは鍋の大きさ的にも、分量的にも無理で、ルーのブロックを半分使って残りを保管するしかない。
箱半分を使用して出来上がったカレーは、ふたりで2〜3日かけて消費することになる。
2日目のカレーがおいしいということは知っている。実家にいた頃、翌日は残ったカレーに牛乳を入れてのばして食べたりしたものだった。
でもなんというか、連日のようにカレーが続くと飽きてしまわなくもない。
そして残ったカレールーを次回いつ使うか、タイミングも見計らう必要が出てくる。早めに使わないと存在自体を忘れてしまう恐れがあるが、間を置かずに食しても同じ味に飽きを感じてしまうであろう。

市販のカレールーは実に種類も豊富で選べないくらいあり、どの味が好みなのかよく分からない。リサーチしようにも、上記の理由により頻繁に試せるものではない。
もちろん、具を何にするかでいくらでも変化はつけられる。日本風カレーの具の定番は、肉類+たまねぎ、にんじん、ジャガイモあたりだが、なすやトマト、きのこ類、かぼちゃ、おくら等々何でもありだし、肉の代わりにシーフードという手もある。
おそらく、ガハクがいちばん喜ぶのは定番の具だろう。目新しい具材を使っても「試してもらって別にいいんだけど、普通でいい」、と言いそうだ。
そして何よりも、カレーを食べ終わった後の鍋を洗うのが手間で気が重い。
たくさん作ったカレーが日に日に減っていくにつれ、大きな鍋に水位を示すかのようなカレーの輪っかができ、温め直すことによりその水分が抜けて錆のようにこびりつく。
水につけておいて汚れをふやかすのは手っ取り早いが、油分を流すのは環境保全の観点からよろしくないし、排水溝も詰まりそうである。
水分を含ませた新聞紙やキッチンペーパーで拭い取って、などやっていると、ほどほど時間もかかる。
……といった具合にカレー作りを遠ざけたくなる要因が往々にしてあるのだ。

そんな折に、ちょうど試供品でカレールーをもらった。それも2人分という少量パックだ。さらに、溶けやすいフレーク状である。

「夕飯をカレーにしてもいいかな。2食分だけカレールーがあるんだ。日本風のとろみのあるカレーだよ」
このところカレーはお昼に食べるもの、になっていたので軽く打診してみたつもりだった。仕事に疲れた今日1日のすべての癒しを夜ごはんに求め、ささやかな晩酌を楽しみにしているガハクだから、齟齬があってはいけない。
「何言ってんの、カレーは夜でしょ。これまでカレーを家で作るのは夜で、夕飯に食べていたのを覚えてないの? たくさん作って、次の日とかも食べてさ。そうだったよね?」

こと好物のカレーのせいか、やけにムキになってガハクが絡んできた。なんだか私にはよく分からないが、ガハクなりの一家言があるようだ。
「はいはい、そうしますよ。夕飯にね」
いざ作り始めてみると、少量のカレーはやや勝手が違い、ついつい具材の量を多めにしてしまいたくなることに気付く。やはりカレーには大量調理をうながす要素があるのだろうか。
カレールーの説明書きには用意する具材として肉とたまねぎのみが記載されていたが、私もお母さん的発想なのかジャガイモ、にんじんを追加。久々の家庭のカレーだから、ザ・定番にしたい。一気にたくさん切りたくなるけれども、2人前の一食分はわりと少ないので抑えめに……したつもりで小さなジャガイモ2個、にんじん4分の1本の量で準備してしまう。

たまねぎ、はどうしてだか心配で2個分を薄切り(みじん切りは苦手。涙が出る)にしたところ、なかなかのボリューム。1個でよかったと後悔する。
肉は「カレーにはかたまり肉ではなく、汁とよくからむ薄切りがいい!」というガハクの前々からの力説に従い、豚こま肉を冷蔵庫から取り出す。
材料が揃ったところで、まずたまねぎの量を減らすため、「あめ色になるまで炒める」ことにした。そもそもこんなに切らなければよかった、と心の中で自分に対して不平不満をもらす。30分間は無理だけど15分まではがんばろうと、フライパンを埋めつくす白いたまねぎを黙々と炒め続ける。
カレー作りは簡単なはずだったのに、ここで時間をとってしまう。夕食の開始時間が遅くなる……と、引き続き心の中でぼやきつつ、一体いつたまねぎはしなしなになってくれるのか、と延々終わらなさそうな作業に、始めて1分でうんざりしてくる。
だが、5分も経つとこの状況に慣れてきて、開いているはずの目には何も映らなくなり、騒々しい換気扇の音も消え、いつしか無心になっていた。

ふっと目の焦点があって現実の音も戻ってきた時、みずみずしくふくらんでいたはずのたまねぎは、透明感が出た代わりに茶色く小さくしぼんですっかり様変わりしていた。このような食材の状態の変化、撹拌中の生クリームが固まるとか、煮込んだ肉がほろっと崩れるというのは、どうして突然に訪れるのだろうか。
鍋で肉が赤くなくなるまで炒めたら、先ほどのしんなりしたたまねぎと、ジャガイモ、にんじんを入れ少し混ぜ合わせた後、水を加えて煮込む。
肉じゃがもカレーも、煮込むまではほぼ一緒なんだよね、とガハクが言うこの段階まで進んだので、しばらくは放っておける。
この間にサラダなどの副菜を急いで支度しなくては。

しばらくぶりで夕飯の食卓にカレーが出現して、ガハクの喜びようは絶大だった。
「うまい! カレー、おいしいよね。好きですねん、カレー(なぜか関西弁化)」
出来上がったのは本当にごくごく普通の、いかにも親しみやすい誰もが思い出せる味のカレー。凝ったスパイスの風味もなければ、トマトやチョコレートといった隠し味的なひねりもない。それがまたよかったのだろう。
ガハクは何度も「うまい」だの「おいしい」を連発し、大満足のうちにきれいに食べ終えた。

「明日も食べられるのかしら」
「あれ、もらったのは2皿分のカレールーだって言ったよね?」
「え、もうないの? 今日だけで終わり?」
聞いたことを都合よく忘れていたガハクの顔が、にわかに曇り始める。私の態度があっさりしすぎて、ガハクは親身になってもらえていないと感じたようだ。
「あなたはカレーに冷淡だよね」
「そんなことないよ」
冷淡でないのは本当だが、熱狂的でもない。
「いくら頼んでも全然カレーを作ってくれなかったでしょう。ほんとにもう、ずーっと、家で食べたくて食べたくて仕方がなかったのに」
ガハクがせきを切ったように訴えかけてくるが、それほどまでに言われ続けていただろうか? 私も自分のいいようにガハクの言葉が聞こえなかったか、するりと抜け落ちていったのか。
しかしながら、カレーがあるだけでガハクの心が平穏になるならば、もう少し頻繁に作ってあげてもいいかと思う。
それでガハクの仕事がはかどるのであれば、それこそお安い御用だ。後片付けが面倒だけれど。

■次回「ヒゲのガハクごはん帖」は2025年12月第2水曜日に公開予定です。

そして、本連載の17のエピソードをまとめた発売中の単行本、『ヒゲのガハクごはん帖』の重版が決定!

また、『趣都』も重版となり発売中! 第1話のみ無料でご覧いただけます。


●山口晃さんってどんな画家?
1969年東京都生まれ、群馬県桐生市に育つ。96年東京藝術大学大学院美術研究科絵画専攻(油画)修士課程修了。 2013年『ヘンな日本美術史』(祥伝社)で第12回小林秀雄賞受賞。
日本の伝統的絵画の様式を踏まえ、油絵で描く作風が特徴。都市鳥瞰図・合戦図などの絵画のみならず立体、漫画、インスタレーションなど表現方法は多岐にわたる。
主な個展に、2015年「山口晃展 前に下がる下を仰ぐ」(水戸芸術館現代美術ギャラリー、茨城)、18 年「Resonating Surfaces」(大和日英基金ジャパンハウスギャラリー、ロンドン)、23年「ジャム・セッション 石橋財団コレクション×山口晃 ここへきて やむに止まれぬ サンサシオン」(アーティゾン美術館、東京)など国内外展示多数。
2019年 NHK大河ドラマ「いだてん 〜東京オリムピック噺〜」のオープニングタイトルバック画を担当し、22年善光寺(長野)へ《善光寺御開帳遠景圖》を奉納。

現在、山種美術館にて開催中の「日本画聖地巡礼2025 —速水御舟、東山魁夷から山口晃まで—」へ出品(11月30日まで)。

山口晃 《東京圖1・0・4輪之段》 山種美術館蔵 撮影:宮島径 ©︎YAMAGUCHI Akira, Courtesy of Mizuma Art Gallery

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