
アートがいかに心に作用する可能性があるかについて、NPO法人アーツイニシアティヴトウキョウ[AIT/エイト]の堀内奈穂子さんに伺う特集。これまでの取材を通して、AITが手掛けてきたプログラム「dear Me(ディアミー)」の取り組みや、オランダの実践、そして日本国内で堀内さんらが行ってきた協働から、多様な人へプログラムを開くことの可能性について伺ってきた。今回は、イギリスを始めとした海外で「アート処方」の取り組みがどのように行われているのか、データが掲載されたレポートなども紹介いただきながらお話を伺う。
聞き手・文=福井尚子
イギリスにおける実践
この特集で以前、アートの心へ及ぼす影響として、今世界で注目されている「アート処方」について話を伺った。メンタルヘルスに不調を抱えた人たちが、医師に診断を受ける際に、薬の代わりに美術館のチケットなどを処方されるというもので、2018年にカナダで始まってから、世界的な広がりをみせている。
アートに限らずあらゆる文化活動をベースにした非医療的な健康に寄与する活動「文化的処方」の先進国、イギリスでは、リンクワーカーという「つなぎ手」となる人がいて、文化的処方の対象となる人の関心や好きな活動をヒアリングしてから最適な文化的活動を提案するそうだ。
「イギリスは近年、政府をあげてリンクワーカーの配置人数を増やし、予算をつけるなど、文化的処方を福祉の制度のひとつとして確立しています。そしてこうしたイギリスの事例が多く取り上げられるのは、そうした効果の検証や分析をすぐにレポートとして公開し、制度化したり他国の人たちが参考にできる先進例を作ることに長けている点もあるといえます」
堀内さんが紹介してくれたイギリスのレポートのひとつが、2017年7月に発行された“Creative Health: The Arts for Health and Wellbeing”だ。日本でも2023年に独立行政法人国立美術館 国立アートリサーチセンターによって翻訳版『クリエイティブ・ヘルス:健康とウェルビーイングに寄与する芸術活動』が発行されている。
この調査では、ロンドンの貧困地域における芸術活動への参加者のうち、79%の食生活が改善し、77%の運動量が増加し、82%の幸福度が向上した、などの具体的な数値が示されている。また文化的処方によって、個人の医療受診回数が37%減り、入院数が27%減少し、患者ひとりあたり216ポンド(2017年当時のレートで、3万円程度)の節約となったとか。こうした具体的な数値を示すことによって、芸術は健康維持に寄与し、高齢社会、孤独、メンタルヘルスといった課題への対処に活用できること、ひいては、医療サービスや社会福祉へ費用削減をもたらすことを、メッセージとして伝えている。

独立行政法人国立美術館 国立アートリサーチセンター『クリエイティブ・ヘルス:健康とウェルビーイングに寄与する芸術活動』 要約版(2023年)より引用
医療機関で進む、アート作品の導入
こうした国の政策として打ち出されたことで、イギリスでは医療機関でもアートの導入が進んでいる。国際保健などへの研究支援を目的とした世界屈指の資産規模の医療研究財団「ウェルカム・トラスト」。所有する美術館「ウェルカム・コレクション」では、科学と医療を投影しているような作品をコレクションするほか、メンタルヘルスや医療的な実践を行うアーティストの支援も行っている。
「社会的処方という政策と、非営利団体による活動。イギリスにはアートとメンタルヘルスをめぐって多様な方法でサポート・議論ができる体制が整っているのかなと感じます」
また、チェルシー・アンド・ウェストミンスター病院では、イギリスの保険機構であるNHSと協働して、2000点を超えるアート作品のコレクションを行っている。病院の中にコレクションを展示し、患者はもちろんのこと、病院で働く医療従事者にも、具体的にどのような効果があったかということを調査しているのだとか。その中には、いわゆる没入型の作品も多くある。
「近年は、ゆっくりと変化していく映像作品のようなものだったり、患者さんが動いたり触れたりすると反応するような双方向的なデジタルアートも積極的に取り入れています。デジタルアートに限らず、病院内にあらゆる形式のアートを展示することが実際に患者さんの痛みや不安を一時的に取り除くことに寄与しているようです。病院にアートを展示することは古くから行われていますが、いま、あらためてその効果の検証が進んでいるといえます」
教育機関が着目する、表現を見て語ることの効果
近年、医療現場だけでなく、医師を目指す教育機関でも、積極的にアートプログラムが取り入れられている。アメリカのペンシルバニア州立大学には、医師を目指す学生を対象にしたゼミ「印象派とコミュニケーションの芸術」がある。美術史学科のマイケル・フラナガン博士が共同で教える講座で、学生たちの作品展も行われる。医師とアーティストによる「観察の芸術」、患者ケアと芸術鑑賞における「認知バイアス」などについて研究されるそうだ。
「大学では学生がゴッホやモネなどの19世紀の画家について学び、観察し、実際に画家のスタイルで絵を描いてみることをしています。例えばゴッホだとしたら、ゴッホが持っていた精神的な問題について語ることで洞察を深めていくなど。芸術に関わることによって、批評的思考力、観察力、コミュニケーション力、自身の偏見を認識することや、共感力を身につけることを目指しています」
ハーバード大学のメディカル・スクールでも、医師や看護師の卵に向けて、美術館や博物館で作品を見て、観察をトレーニングするという授業もあるらしい。
「本大学の教授は、患者さんを診ることの9割は『観察』だと言っています。より良い医療従事者になるためには観察力が必要で、そのためには芸術が有効だと考えているそうです」

Training the Eye Course, Harvard Medical School
ボストン美術館(Museum of Fine Arts Boston)でのプログラムの様子
Photo by Ruby Guo Visual Arts in Healthcare Program at Brigham & Women’s Hospital
続いて堀内さんが紹介してくれたのは、イギリス、スコットランドにあるエジンバラ大学で2019年頃から実践している文化的処方のプログラムだ。大学院の時にエジンバラで学んだ堀内さんは、近年、地域の大学が文化的処方に関わる実践をしているのか調べたところ、「Programme 6」というプログラムを実施していることを知った。心に不安を抱えた人たちを対象に、少人数で集まって、対話を行う。それ自体はよくある手法だが、歴史ある大学ならではの仕掛けがある。
「大学や街の図書館が所蔵している歴史的な文化遺産ともいえる、中世の本のデザインなどをみながら、そこに出てくる当時のキャラクターについて話し合ったり、大学が持っている考古学的なコレクションを見たりするらしいんです。歴史の中にダイブしていくような感覚で社会的処方を行うのが、特徴的で面白いなと思います。つまり、どの時代の絵画や彫刻、オブジェに関わらず、あらゆる表現をじっくり見て・語ることが普段の思考とは違う気づきや発見、他者との差異や共通点を楽しむことにつながっているといえます。」
2019年から学生向けの取り組みが始まり、近年ではエジンバラに暮らす一般の人に向けても門戸を開いているらしい。
「大学がウェブサイトで明確化しているのは、これはあくまでも『非臨床的』な実践であり、治療でもなければセラピーでもないということです。そこは重要なポイントだと思います。あくまでもみんなで芸術を体験して、そこから出てくる物語を共有することで、孤立や孤独を解消するための実践であるということが書かれています」
認知症のある人向けのプログラムを広げた、MoMAの取り組み
世界の美術館にも、文化的処方と位置付けられる取り組みは広がっている。特に知られている美術館の中でも長い歴史があるものとして堀内さんが紹介してくれたのは、MoMA(Museum of Modern Art:ニューヨーク近代美術館)の取り組みだ。MoMAでは20世紀のはじめから、退役軍人を集めて陶芸やドローイングを行い、社会との関係性をつなぐことやトラウマから解放されることを目指すなど、文化的処方の実践を取り入れた教育プログラムを行ってきた。
そんなMoMAが2007年から2014年にかけて開発を行った“Meet Me at MoMA”は、認知症のある人とその家族を対象にした対話型鑑賞のプログラムだ。プログラムの体験前と後、そしてしばらく時間が経ってから変化を、認知症のある人とその家族、それぞれにアンケートを取ることで統計的に効果を示している。

©️ 2024 The Museum of Modern Art, NY. Image description Photo: Jason Brownrigg
Eight adults seated, facing Jackson Pollock’s One: Number 31, a wall-filling beige canvas

『Smiley-Face Assessment Scale』(鑑賞者の気分変化を笑顔で評価する尺度)』
※図(上)介護者、図(下)認知症患者の調査結果 どちらも鑑賞前(左)、鑑賞後(右)で比較
The findings of an evidence-based research study of the Meet Me at MoMA program.
(Designed by the Psychosocial Research and Support Program of the New York University Center of Excellence for Brain Aging and Dementia in partnership with The Museum of Modern Art.)
「参加した方々には、参加する前と後で、その時の体験や気分に関するアンケートをとっていますが、そのアンケートも文字ばかりのものではなく、悲しい顔から笑顔まで、5段階の表情で選べるような工夫をしています。レポートを見ると、体験後では多くの参加者が何かしら前向きな気分に変化しているということがわかりました」
MoMAはこのプログラムを、メットライフ基金という保険の財団とともに行っている。アートが認知症のある人や高齢の人にポジティブな影響をもたらすということが発行したレポートにより証明されたこともあり、近年、世界の他の美術館でもこうしたプログラムが実施されている。実際、日本も東京都美術館の「Creative Ageing ずっとび」で、主にシニア層と、認知症のある人とその家族を対象にしたプログラムに2021年4月から取り組んでいる。
美術館をパーマカルチャー的に育む
美術館発、というところに着目すると、ユニークな実践としてフランスの現代美術館「パレ・ド・トーキョー」も興味深い取り組みを行っている。2022年に館長が交代してから、美術館全体をパーマカルチャー的に育んでいく、という方針を打ち出している。
パーマカルチャーとは、人と自然が共に豊かになれるように、生活や地域社会をデザインしていくこと。パレ・ド・トーキョーでは、美術館の周りの土地や自然の特性を活かした設計にすることや、いろんな人がシェアできる庭をつくるほか、環境負荷が少ない取り組みをしている業者と取引をしていくと伝えるなど、来場者、取引する業者、スタッフ、展覧会そのものの考え方も、パーマカルチャー的な考えで作っていくことを目指している。
「働き方に対する考え方も循環型で、次から次へと企画を生んでいくという考えではなくて、例えば昔ボツになった展覧会のアイデアや、途中までつくっていたけれど何らかの理由で開催できなかったイベントなどを、何年か経ったあとにもう一度掘り起こしてみます。
そうすると、今の時代に合っているとか、あのときつくりかけていたものにもう少し足せば形になるなどがあって、それはおそらくスタッフにとっても負荷が少ないといえます。物だけではなく情報や知識などの資源もリユースやリサイクルをしていくという発想です。
作品を見て心を育むだけではなく、そこに働く人たちや取引する人たちも含めた存在の豊かさや生き方を一緒に考えていこうという方針で。よりホリスティックともいえるパレ・ド・トーキョーの考え方は、アート処方をもう少し広げて考えたときに、とても共感できるなと思いました」
2023年9月には、環境に優しい素材を使用したメディテーションのスペース「le hamo」が登場。障害のある人や精神的な不安にある人なども含めた幅広いさまざまな人たちがアートを楽しめるように設計されている。特にニューロダイバーシティの参加者やメンタルヘルスに悩む人の小グループを対象に、ワークショップや美術館ガイドも行っている。

le hamoでのワークショップ風景
Palaisdetokyo photo : Quentin Chevrier
生活の中にあるアート
ここまでは堀内さんがリサーチをしたものだが、実際に訪れたことある施設として、スコットランドの「マギーズセンター」を教えてくれた。この施設は、1988年47歳のときに乳がんを患った、造園家のマギー・K・ジェンクスさんが、自身の体験から「治療中でも、患者ではなく一人の人間でいられる場所と友人のような道案内がほしい」と願い、1996年に立ち上げたもの。今ではイギリスの国内に20ヶ所以上、香港やスペインなどへも広がり、日本でも2016年に「マギーズ東京」がオープンしている。堀内さんは、エジンバラに最初につくられたマギーズセンターを見学したことがあるそうだ。
「病院の隣の土地に家のような建物が併設されていて、その建物はどこの施設もザハ・ハディドやフランク・ゲーリーなどの、著名な建築家が建築しているんです。患者さんたちは無料で予約も不要で、まるで自宅で過ごすように通うことができます。日光がたくさん入ってきて、リビングルームのような空間があって、心地よく過ごすことができる。私が訪れたときには、壁に子どもたちの絵が飾ってありました」

一番最初に開設されたエジンバラのマギーズセンター(2017年訪問/撮影)。マギー自身が構想に関わった唯一ものであるとされている。エジンバラのウエスタン総合病院の敷地内に建てられていた石造の納屋を改修し、開放的でアットホームな空間になっている。



建築の美しさや心地よさを受け取りながら、治療に臨むことができるマギーズセンターは、芸術的なものが、医療や治療に与える影響を考えている場所のひとつの例だろう。
堀内さんは、こうした実践が、イギリスのアーツ・アンド・クラフツ運動を背景としているのではないかと考えている。アーツ・アンド・クラフツ運動とは、19世紀後半にロンドンで技術革新が起こり、機械でのものづくりが増えたことへ反発し、手仕事を復活させようと、ウィリアム・モリスが提唱した活動のことだ。アーツ・アンド・クラフツ運動に関わった建築家、ジョージ・エドワード・バートンは、物を生み出す手作業をすることが精神の健康に関わるものだと考え、作業療法を提唱したと言われている。
日本でもアーツ・アンド・クラフツ運動の影響を受けて、1920年代に民藝運動が広まった。その運動を支援した精神科医の式場隆三郎や耳鼻科医の吉田璋也は、木の器や陶芸が患者さんの心に作用すると感じ、治療室に民芸品や工芸品を積極的に取り入れた。人の温もりが伝わる安心するもの、美しいもの、それらが人の心や脳にも作用していることを信じていたのだ。
「そう考えると、生活の中にも美はあって、『文化的処方』として用意されたものではなくても、家にあるポスターや身近な生活の音、そういったものに感覚を研ぎ澄ませてみると、生活の中にも自分の気持ちを育んでくれるものというのがあるのではないかと思っています」
人の手がつくり出すものへの回帰やそれが人々の精神にもたらす安らぎ。そうしたものが、常に人々の生活の中にあるということを、私たちはもう一度見直すことができるかもしれない。一方、そうしたアートや文化的なものが人にもたらす影響が、病院や大学院などの実践の中でも、浸透し始めているのだろう。
医療機関、教育機関、美術館、さまざまな場所でアートが心に及ぼす影響やその効果が証明されてきており、着目されていることが堀内さんの話からわかってきた。精神の不調や障害、というと、自身に関係のないことのように聞こえる人もいるかもしれないが、気分が落ち込むことや、心の調子が良くないことは、私たち誰にも起こりうることだ。そんなときに、美術館へ足を運ぶこと、なにか美しいものに触れること、手を動かしてつくってみること、五感を研ぎ澄ますこと、そうしたことが助けになるということを、今世界のさまざまな研究が証明してくれている。より健やかに生き、働くために、健康とウェルビーイングに寄与するアートプログラムを生活に取り入れてみてはいかがだろう。
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