
藤原ヒロシは、いつ、どこでアートと出会うのか? 彼のテイストを探りながらアートを追う連載「art (not art)」。第2回は展覧会が開催されるなど近年再評価が高まるアートディレクター、絵本作家の堀内誠一(1932-1987)について。雑誌のアートディレクションはあらためて称賛され、彼の絵本は今も読み継がれている。それぞれ異なるアプローチから堀内の仕事に接した藤原と鈴木の対話。
——藤原さんが、堀内誠一さん1 について興味を持ったきっかけは?
藤原ヒロシ[以下:F] 去年かな、『49冊のアンアン』2 という本が出版されていたのを知って、「あ、『anan』の本がある」と思って、手に入れたんですね。僕は東京に出てきたばかりの頃、『anan』の編集部でスタイリストのアシスタントのようなことをしていたし、中学生の頃から姉が買っていた『anan』を読んでいたから、自分にも馴染みのあることが書いてあるだろうと思って。ところが、読んでみたら、時代が違ってたんですね。僕の知らない人の話ばかりで(笑)。
1堀内誠一 (1932-1987) デザイナー、アートディレクター、絵本作家。『anan』『BRUTUS』『POPEYE』などの雑誌のロゴを手がけ、『anan』においては創刊時のコンセプト作りやアートディレクションに携わり、その後の雑誌デザインの方向性、スタイルに大きな影響を与えた。また1958年より70冊を超える絵本を刊行、挿絵も数多く描く。1973年~81年、家族と共にパリ近郊に移住。ヨーロッパを中心に世界を巡り、旅行記やガイド本を出版。著述家、絵本批評家としても活動
2 堀内がアートディレクターを務めた『anan』の創刊号(1970年3月3日発売)から49号目までの2年間を振り返り、解説。著者の椎根和も同時期、『anan』編集部に在籍していた。2023年刊行

『anan』創刊号[1970年3月20日号・同年3月3日発売]古書価 16,500yen / COWBOOKS ■価格、在庫状況が異なる場合があります
鈴木芳雄[以下:S] 著者の椎根和さんはのちに『Hanako』創刊編集長になる人で、彼が『anan』の編集部にいた時代のことを書いた本ですね。
F その本を読んで、『anan』って、よく知っているつもりだったけれど、全く知らないことばかりだったんだと気づいたんです。もっとも、中学、高校の頃なんて、熱心に雑誌を読んでいても、それを作っている“裏方”の人なんて気にしないじゃないですか。当然、アートディレクターなんて、そんな言葉の存在すら知らないわけで。
——「知らないこと」がたくさんあることを知った、と。
F そう。それで先日、スタイリストの堀越絹衣さんに、「『anan』創刊の時のアートディレクターだった堀内誠一さんの展覧会3 をやっているよ」と教えてもらって、立川まで観に行ったんです。そこで、初めて、こういう人がいたんだと分かった。もちろん、アートディレクション的なことが雑誌において重要だということは、子供の頃から、なんとなく分かっていたけれど、アートディレクターという“職業”があるとか、まして、その仕事をどんな人がしているかなんて、気にしていなかったから。それで、堀内誠一さんという人の凄さを今になって知ったわけです。
3「堀内誠一展 FASHION・FANTASY・FUTURE」
東京都立川市の複合文化施設「PLAY!」内の「PLAY ! MUSEUM」で2025年1月22日(水) – 4月6日(日)まで開催。エディトリアルデザインだけでなく、堀内の絵本作家としての側面にもスポットを当てた展示が行われた


堀内誠一ディレクションの雑誌 上|『POPEYE』創刊号[1976年6月25日発売]/私物 下|『BRUTUS』108号[1985年3月15日発売]古書価 4,400yen/COWBOOKS ■価格、在庫状況が異なる場合があります
S 堀内さんは14歳で伊勢丹の社員になるんですよ。
F 14歳で?
S 当時は終戦直後で人手が足りなかったからか、“少年社員”という制度があったらしく、10代半ばで伊勢丹の社員になるんです。そこでディスプレイなんかの仕事をするうちに、描き文字を覚えて、その後のロゴ作りに活かされるんですね。そして、伊勢丹を退社後、アド・センター4 というのを設立して、雑誌の仕事としては『週刊平凡』や『平凡パンチ』のファッションページのレイアウトを担当したり、『平凡パンチ』の女性誌版として『anan』が創刊される際にアートディレクターになるわけです。
4 1957年に設立されたデザイン会社で、堀内は創設メンバーの一人。1959年〜72年まで拠点としていた東京都渋谷区南平台の洋館は、1997年に横浜市の山手地区へ移築、一般公開されている[重要文化財(旧内田家住宅)|外交官の家]
F アド・センターというのは、アートディレクターやデザイナーの集まりだったんですか。
S そうですね。のちに『POPEYE』『BRUTUS』などでも堀内さんの片腕となる新谷雅弘さんもアド・センターにいました。

F 僕は今でもよく雑誌の企画やディレクションをさせてもらうけれど、1枚の写真をできるだけ大きく使った70年代の雑誌のレイアウトが今も好きなんですよ。でも、最近のエディトリアルデザインって、写真を断ち落とさずに周りに余白をつけることが多いじゃないですか、僕はそれが、どうも苦手で(笑)。それより、この頃のように写真を大きく使う方が力のあるレイアウトになる気がする。それを先日の立川の展覧会でも再認識しました。その展覧会の後、堀内さんに関する本を読んでいたら、当時は写真を3枚くらい渡されて、「これでレイアウトしてくれ」って言われたそうなんです。何百枚って写真の中から選べる今とは全く違う。だから、「限られた素材から、どうやって良いものを作るか」という意識が常にあったと思うんですね。僕の仕事のやり方も一緒で、決められた条件の中で、何ができるかということをいつも考えている。そもそも僕は、選択肢が無限にあるよりも、限られた条件の中で物を作る方が好きなんです。

——与えられたものの中で最善を尽くす方が、自由に自分を表現するより創造性が発揮できる、と。
S 確かに、堀内さんにしても、全ての海外ロケを企画したわけではないだろうし、写真も出来上がったものを渡されていたわけですからね。
F そう、そう。そこに共感します。そう、それと展覧会で印象に残ったのは、70年代のエネルギー。 「面白いことをやってやる」というパワーを感じましたね。
——そのエネルギーの源になったのは、当時の日本人の“欧米への憧れ”だったのではないでしょうか。当時の『anan』の誌面からも、それは伝わりますし、堀内さん自身も『anan』の仕事に区切りをつけてパリに移住されるわけで。

堀内誠一『パリからの旅』/私物
F それは確実にあったでしょうね。僕の周りにいる年上の人たちは、みんな70年代前半に海外に行っているんですよね。よくそんなお金があったなって思うんですけど(笑)。それで、先日、写真家の小暮徹さんから聞いたんですが、堀内さんがいたアド・センターの敷地内には、ビートルズのファンクラブを母体としたアップルハウスという、反体制的なアートやカルチャーに興味を持った人たちのコミューンのような場所があって、そこで雑誌を作っていたそうなんです。そして、小暮さんはその雑誌の表紙イラストを描いていたんですよ、写真ではなくて。創刊から10号くらいは小暮さんが表紙イラストを描いて、その後はペーター佐藤さんに引き継がれたそうです。
——当時は“イラストレーター”という職業も確立されていたなかったのかもしれないですね。
S 日本で初めてイラストレーターを名乗ったのは『メンズクラブ』の小林泰彦さんだったと聞いたことはありますが、『平凡パンチ』の表紙の絵を描いていた大橋歩さんも創刊時は “大橋歩(画家)” とクレジットされていますね。
F 今は、中学生でもイラストレーターはもちろん、アートディレクターというのが何なのかを知っているだろうけれど、僕が子供の頃は、広告代理店というものの存在すら知らなかったから(笑)。スタイリストなんて存在がいることも東京に出てくるまで知らなかった。でも、確かにどんなレコードのジャケットにも、それをデザインする人、つまりデザイナーやアートディレクターが必要なわけだけれど、子供の頃はレコードジャケットや雑誌を見てもそこに写っている人や服にしか目が行かなかったから、そこに気付かなかった。

堀内誠一『父の時代 私の時代 わがエディトリアルデザイン史』古書価 3,300yen/COWBOOKS ■価格、在庫状況が異なる場合があります
——雑誌やメディアで裏方の仕事をする “業界人”の存在ですね。でも、藤原さん自身も10代の頃、マガジンハウスの雑誌でそういう仕事をしていたわけですよね?
F そうなんだけど、その頃は大人たちが雑誌を作っているのを見ていただけで。でも、自分も彼らのようになりたいという気持ちはありました。深夜の編集部は、いつも凄く楽しそうだったからね。それは、この取材にも言えて、皆さんと夜遅くまで話をするのが楽しいから、今、僕はここにいるんです(笑)。

撮影|梶野彰一
取材協力|COWBOOKS
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