
世の中へ目を向ける。写真にする。われわれは目の前に通り過ぎるものをごく当たり前に見ているが、写真家はそこを強く意識しカメラを手にする。写真が、人が世界を見ることと生々しく直結する以上、写真家はその先端から離れない。 東京都写真美術館で、総合開館30周年記念「鷹野隆大 カスババ ―この日常を生きのびるために―」展を開催している作家、鷹野隆大に話を聞いた。「カスババ」とは鷹野の造語でカス(滓)のような場所の複数形を意味する。彼は、とるにたらない都市の姿に日々向かいながら写真表現をさぐっている。
聞き手・文=池谷修一[写真編集者]
鷹野隆大 やはり「撮ってやろう」って思っていると、撮り手の意識が画面に入り込むんです。それって私にとっては好ましくない状態で、自分の意志みたいなものは、なるべくぼんやりさせていないと、うまく写らないんです。
日常のなかで漠然と目にする、いわば退屈な光景から浮かび上がるもの。〈カスババ〉は、1998年から1日もかかさず続けている〈毎日写真〉から派生したシリーズだ。鷹野は何かのトピックではなく、日々気になった物事をコンパクトカメラでスナップする。一方、対照的なのが第31回木村伊兵衛写真賞を受賞した『IN MY ROOM』(2005年)に代表されるセクシュアリティをテーマにしたポートレートで、大判カメラで精妙な描写をしている。展覧会では、日常をテーマとするスナップショットを軸に、映像、古典技法を使ったプリント、インスタレーションなど109点が公開されている。

鷹野隆大 《2012.08.12.#b30》 〈毎日写真〉より 2012年 ©Takano Ryudai, Courtesy of Yumiko Chiba Associates

鷹野隆大 《レースの入った紫のキャミソールを着ている(2005.01.09.L.#04)》 〈In My Room〉より 2005年 ©Takano Ryudai, Courtesy of Yumiko Chiba Associates
鷹野 90年代の末ぐらいから〈ヨコたわるラフ〉というシリーズに取り組んでいました。考えていたのは、やはり日常的な身体。ハレとケで言うとケの身体です。でも、そういう人を撮るチャンスって実は滅多にないんです。すると撮影の中身としてはケのつもりだけど、行為としてはハレになる。そんな捻れに気がついて。ならば、もうちょっと日常的に、テーマを決めずに撮ることで、撮影行為自体を身体化していく必要があるのではないか、そう思って〈毎日写真〉を始めました。身体をテーマとする以上、撮影行為も身体化できていないとまずいのではないかと。
記録的な意味合いもある。たとえば50年後、100年後、鷹野がこの時代に撮影した膨大な「不完全な記録」はどう読まれるのか。
鷹野 写真は不完全ですよね。平面だしサイズも自由だし。現実に見たものとはかなり違う。平面化の意味はすごく大きくて、ある種の虚構化だと思います。コロナの時、写真について改めてじっくり考え直す時間ができて、その時に写真は現実の記録というよりも現実の虚構化であると考えた方が良いのではないかという結論に至りました。では、そこに現れるものは何なのかと言えば、構図です。三次元空間における様々な配置を構図に変換する、その時にどう構図化するのかという恣意性が働きます。この恣意性が私の言う虚構化であり、写真における劇的な要素だと今では考えています。
毎日の撮影と思考を行き来しながら、幾多のシリーズが生まれ作品がつみかさなっていく。「影」に着目する写真もそうで、自身の影をふくめさまざまに作品にしている。
鷹野 平面化は空間の奥行きを圧縮する行為で、そこではある意味、距離を奪うことになります。一方鑑賞者は、平面化された画面を見て、何らかの距離を認識したり、しなかったりの行き来がある。「影」も同様で、壁や地面に現れた(影は)平面で奥行きのないものですが、人は影を見ながら距離をイメージします。その現象自体が非常に奇妙で、そういう距離というもののあり方が面白いなと。

鷹野隆大 《2019.12.31.P.#02(距離)》 〈Red Room Project〉より 2019年 ©Takano Ryudai, Courtesy of Yumiko Chiba Associates
影の作品は〈毎日写真〉にあらわれ、〈光の欠落が地面に落ちるとき 距離が奪われ距離が生まれる〉(2016年)のシリーズになり、自身の影を定点観測的に写す〈日々の影〉(2020年)に繋がる。カメラを使わないフォトグラム作品、〈Red Room Project〉(2018年 – )では、「影そのもの」を印画紙に定着し、複数のパネルを組み合わせることで、いわば彫刻化がなされている。
展示構成が秀逸だ。空間のなかにあって、写真が写真のまま身体的にとらえられるような工夫が随所に凝らされている。建築家の西澤徹夫と対話をかさね、複雑でいて明快、混沌と清々しさが交差しながら風通しがよく、都市空間の日常が見事に立ち上がっている。

「鷹野隆大 カスババ ―この日常を生きのびるために―」展示風景 東京都写真美術館 2025年 撮影:藤澤卓也 画像提供:東京都写真美術館
鷹野 日常って簡単なようで実は結構難しいと思うんですよ。近代以前、人は生まれた瞬間から身分がきまっていて、居場所は強制的に決められると同時に与えられてもいた。今われわれは自由ですが、しかし自由とは何も与えられていないことでもあります。日常を生きるとは、そんな何もない状態で一人一人が自分の居場所を勝ち取っていかなければならないことを意味します。私自身、自分の居場所を見つけていくのは大変でした。〈毎日写真〉の意図には、日常的に撮影行為を積み重ねることで、自分の居場所をどこかに見出したいという想いもあったのではないかと、今振り返ってみて思います。

「鷹野隆大 カスババ ―この日常を生きのびるために―」展示風景 東京都写真美術館 2025年 撮影:藤澤卓也 画像提供:東京都写真美術館
答えのない日常にニュートラルにつきあい続ける。鷹野は写真表現という行為をくり返し、さまざまな手立てをへて観るものの前に散りばめるようにさしだしている。そうして、この時代の日常は、そのままの姿で、われわれが等しく読み解いたり、思考を向かわせることができる平面のあつまりとなっているのだ。
インタビューの後、写真の群れのなかを繰り返し歩いた。順路は明確ではなく、鑑賞者は自由に行き来することができる。作品を確かに眼で見ているのだが、いかにからだ全体で感じながら見ているかがわかってくる。自分のまわりには、ありきたりの都市の日常が並走している。写真を眺めながら、いつの間にかさまざまな考えにふけっていた。それはからだが素直に感じるままに、とても前向きに、である。

「鷹野隆大 カスババ ―この日常を生きのびるために―」展示風景 東京都写真美術館 2025年 撮影:藤澤卓也 画像提供:東京都写真美術館
会期|2025年2月27日(木) – 6月8日(日)
会場|東京都写真美術館
開館時間|10:00 – 18:00[木・金曜日は10:00 – 20:00、図書室を除く]入館は閉館の30分前まで
休館日|月曜日[ただし5/5は開館]、5/7(水)
お問い合わせ|03-3280-0099
コメントを入力してください