
「アートは社会とどう接続していくか」について、インディペンデント・キュレーターのロジャー・マクドナルドさんにお話を伺う本連載。前回は、ロジャーさんが提唱するアートを深く観察する方法「ディープ・ルッキング」の入口として、今なぜ観察が必要なのかを伺った。実際にディープ・ルッキングを試してみようと、ロジャーさんから提示してもらった作品は、ピサロの絵。ロジャーさんに教えてもらったように、最初は「こんな形がここにあるな」と眺め、だんだんどんな色が重なっているか、影はどのように描かれているかなど仔細に観察していった。空気の流れを感じ、絵の中に吸い込まれるようにしているうちに、最初に設定していた時間はあっという間に経っていた。みなさんはどんな体験をしただろうか。
もしかしたら、長時間眺めているうちに、イライラやモヤモヤした感情が起こった人もいるかもしれない。今回は、この感情に向き合うヒントとなる「ネガティブ・ケイパビリティ」について伺う。
聞き手・文=福井尚子
『言葉を超えていく体験』
——著書『DEEP LOOKING:想像力を蘇らせる深い観察のガイド』(出版:AIT Press)では、美術史家の方が毎日数時間絵を見て、鑑賞の実践を記していたことが紹介されています。ディープ・ルッキングの良い事例かと思うので、まずはその話を聞かせていただけますか。
イギリスの美術史家のT.J.クラークさんですね。彼は2000年1月から6月までの半年間、毎日ギャラリーに行き、フランスのバロック時代の画家であるニコラ・プッサンの絵画の鑑賞を日課にしていました。短いときは30分ほど、長いときは4時間近くかけてじっと作品を観察し続けたとか。その体験を本にしたのが、『The Sight of Death: An Experiment in Art Writing(死の光景:アート・ライティングにおける実験)』(イェール大学出版局、2006、未邦訳)です。
——長時間の観察を半年間毎日とは驚異的ですね。クラークさんはどのようなことに気づかれたのでしょう。
彼が最終的に行き着いたのは、絵を観ることは言葉を超える体験になっていくということです。最初の頃は、絵を観てどういうことを考えたかということを書き記しているのですが、時間とともに、自分はここで何をやっているのだろうという哲学的な領域に入っていき、最終的には詩の朗読しかできなくなっていく。学者として、細かく絵を見て言語化するということを何十年もかけてやってきた人ですが、一つの絵を数十時間かけて見ていくと、やがて言葉の限界に気づいていきます。
——何十年も専門的にアートを見てきた人でも、ディープ・ルッキングを続けると変化が起こるのですね。
同じ絵を前にすることで、絵の状態だけでなく、自分自身の身体の状態や、ギャラリーの温度や湿度など言葉以外の情報に意識が向いていくので、ロジックや言語では語れないということに気づくんです。クラークさんは、深い観察によって固まっていた概念が有機的になっていったということを本の中で語っています。結論としては、言語には限界があって、美術史学者もそこに気づくのが大事だよ、という訴えになっていくのですが、これは私がディープ・ルッキングについて本を書くときにもすごく勇気づけられました。
——クラークさんのように気づきを得るために、ポイントはあるのでしょうか。
彼の場合は、毎日観た後に日記のようにそのときに感じたことや考えたことをメモしています。その繰り返しで、何度もセルフリフレクションをしている。ただ観て終わりではなくて、何を感じたかとか、何を感じることができなかったとかをメモすることは、すごく大事ですね。
——ロジャーさんの著書の中でアート作品を観るときに、「言葉で理解してしまおうとせず、その気持ちをぐっとこらえる」と書いてあったとおもうのですが、メモをするときには言葉にしていいのですね。
ディープ・ルッキングをしている最中は、なるべく作品に身を任せて、言葉にすぐしない態度でいる。決まった時間が終わったら、身体で観るという体験から、言葉を通して書くという体験へメディアをスイッチするイメージです。さらにそれを誰かと話してリフレクションを行うと、より消化のプロセスがスムーズになるかと思います。
『アート作品への態度』
——観察は「観る」ことと「待つ」ことによって成り立つと、著書にありました。「観る」という能動的な行為に対して、「待つ」という受動的な行為は、どうしたらいいか不安になってしまいそうです。
そうですね、いわゆる何も起きないときは不安になると言いますが、何か言葉や意味で埋めたくなりますよね。でもせっかく絵の前にいるときは、その「空白を埋める」という気持ちを外に置いておくというか、前回もお話した「降伏する態度」でいることが大事かなと思います。
——「降伏するように絵を観る」という言葉は、前回もとても印象的でしたね。「マーケットでも展覧会でも、私たちは意外と威張るような態度で絵を見ていることが多い」と言われてハッとしました。
セザンヌやゴッホの手紙などの文献を読むと、作家たちの本人が作品に降伏するような態度であることがわかります。描きながらうまくいっていると思って、ちょっと休んで絵を観る。すると全然だめだということに気がつく。そのアップダウンが制作の過程にはあるようです。
そういうことを知ると、作品を観る側である私たちもどういう心持ちで作品を観るべきなのかを考えることができると思います。近代以前は宗教画を祈りの気持ちで観に行っていたという時代もあって。むしろディープ・ルッキングはそういう見方に近いのかもしれません。

やわらかな雪が静かに降り積もる真冬のフェンバーガーハウス
『難しい状態と付き合う力 —— ネガティブ・ケイパビリティ』
——制作のプロセスで、作家自身も作品に身を委ねて、答えのならないものに耐えているということですね。手がかりになるのが「ネガティブ・ケイパビリティ」という言葉かと思いますが、ネガティブ・ケイパビリティについて聞かせていただけますか。
「ネガティブ・ケイパビリティ」はイギリスの詩人ジョン・キーツによって提唱された概念です。1817年に弟に宛てた手紙の中でこの言葉を使っています。何かを見たり読んだり聞いたりしたときに、好き嫌いですぐに拒否するのではなく、居心地が悪いかもしれないけれどできるだけ見続け、読み続ける。その嫌な体験の中から、気付きや新たな知恵が生まれてくる、という概念です。不確かさの中に身を置くことの大事さを説いています。
おそらく、それまでの古典的な詩と大きく異なることをキーツたちがやろうとしていて、世間から批判も浴びていたこともこの背景にはあると思います。とてもシンプルに聞こえるけれど、実は難しくて複雑なことを言っているんですよね。
——キーツは幼い頃に父親を亡くし、母親も肺結核にかかり、若い頃から看護やケアに明け暮れ、成長してからも医者の見習いになったと小川公代さんの著書『ケアする惑星』(講談社、2023年)で読みました。そうしたままならない状況で、寄り添いながらいたことが、この言葉が生まれた背景にはあるのかもしれませんね。
そうですね。「難しい状態と付き合う力」というとわかりやすいと思うんですけど、これは何かと付き合う力であり、忍耐力という考え方も入ってくると思います。また、謙虚さも大事なポイントですね。
キーツはケイパビリティをサブミッションと言うのですが、サビミッションとは「身を委ねること」を意味します。無抵抗になるとか、謙虚であるとか、そういう気持ちや態度。その奥にあるのは、すべてを知ることは不可能だということですよね。すべてに答えやロジックがあるわけではない。人間は弱いという、謙虚な立場からしか、知恵やアートに携われないという考え方ですよね。
——相手に寄り添いながらもわかった気にならない宙吊りの状態。ネガティブ・ケイパビリティは、ディープ・ルッキングの「降伏する」という態度につながってくるんですね。
これはさまざまなことに応用できる考え方です。すぐに意味や答えを求める欲望を、なるべく宙吊りにしておく。むしろ自分の感情や身体感覚をみつめて、芸術作品やさまざまな事象に関わるということも言えるのかなと思っています。

ジョン・キーツの肖像画
William Hilton, after Joseph Severn oil on canvas, based on a work of circa 1822 NPG 194
© National Portrait Gallery, London
『現実を乗り越える力』
——ネガティブ・ケイパビリティという態度は、絵を見ているときだけではなくて、現実を乗り越える力にもなっていくのでしょうか。
それは私自身もすごく実感しています。最近世界の情勢も、地球環境も大変なことになっていて、落ち込んでもおかしくないような状況だけれど、意外に落ち込まないで済んでいる。状況が悪かったり、複雑でわからなかったりしても、そういうものとして受け入れる能力はディープ・ルッキングによってついてきたのかもしれないと思っています。
——まさに私たちの現実が、居心地の悪い状態と付き合っている状況ですね。
現代はVUCA(ブーカ)の時代と言われますが、不安定で複雑で答えがないような時代にとってどういう態度やマインドを持って物事に取り組めばいいのか、ということがいろんなところで話されていますよね。そういう時代においてもネガティブ・ケイパビリティはヒントになります。
ニュース番組や動画メディアなどでコメンテーターのような人たちが声を上げて戦っているような場面に出くわすことがありますが、どうしても私はそのようにヒートアップはできなくて。ヒートアップするのは答えがあると思っているからではないかなと。私はそれよりもむしろ自分の生活の中でコツコツと自分なりの倫理観や理想みたいなものを実践したほうがよいと思っているところがあります。
そういう意味では、ディープ・ルッキングをすることは、難しい状況に対する適用や気持ちを整理する訓練の場にもなるのではないでしょうか。
——なるほど。絵を深く観察することは、現実の難しい状況と付き合うネガティブ・ケイパビリティのレッスンとしても手軽で身近なものかもしれないですね。
例えば美術館に行かなくても、複製やインターネットを使えば、ディープ・ルッキングはできます。だから非常に始めやすくて、民主的かなと思っています。アートは人類の素晴らしい遺産のひとつなので、時代に合わせる形で活用ができるというか。アートを見ることによって、その次代の意味や生きることの深みを再確認することができると思っています。

絵を深く観察する —— ディープ・ルッキングのためのスペース(多津衛民藝館)
『絵の観察を通して、ネガティブ・ケイパビリティを体験してみよう』
——今回も記事の上でディープ・ルッキングを試してみたいのですが、どんな作品が良いですか。
キュビズムの絵はいかがでしょう。絵画が好きな人でも、一瞬なんだかわからないという瞬間があるキュビズムの絵は、ある種の居心地の悪さがあって、ネガティブ・ケイパビリティを体験しやすいかなと思います。
それまでの時代の絵画には遠近法があって美しさが表現されていたのですが、ピカソたちキュビストはその遠近法を完全にバラバラにしてしまいました。別々の場所にあるはずのものがごちゃまぜになっていたり、ひとつのものの横と前を同時に見ることができたり、矛盾する要素を見る。普通の現実では見られないものを見ているので、頭の中が混乱する。それを受け入れるには、ある程度自分の思考を宙吊り状態にする必要があるので、ネガティブ・ケイパビリティの訓練には最適だと思います。
——私もいまだにキュビズムの絵は見ていて居心地の悪さを感じます。
私はいつからか、キュビズムの絵を見ることがすごく気持ちよくなって、今は美術館に行くと、まずキュビストの部屋に行くぐらい大好きなんです。いつからそうなったかは覚えていないのですが、見続けることで見ることが気持ち良くなった瞬間があったのかなと思います。
今回ロジャーさんに提示してもらった作品はこちら。
註)作品の画像をタップしてメトロポリタン美術館の作品紹介ページにアクセスすると、作品の詳細まで拡大して観ることができます。
まずは、5分。慣れてきたら少しずつ時間を延ばして、観察してもらいたい。見た後はぜひ、メモをしてみよう。見続けることによる変化はあるだろうか。
次回は、深い観察の効果として今注目されている「フロー状態」についてロジャーさんに伺う。
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