「アートが好きか?」と問われて「嫌い」という人はきっと少ないのではないかと思う。でも「難しくて」「わからなくて」という声なら聞こえてきそうだ。現代の日本において、美術館へ絵を観に行く、劇場でお芝居を観る。そうした「アート」の体験は、敷居の高い、非日常の体験と捉えられやすい。私たちの日常にアートを取り入れるにはどうしたらいいのだろう、そしてアートは社会にどんな働きかけができるのだろう。
聞き手・文=福井尚子
アートは社会にどんな働きかけができるのか。 そんな問いを抱えてお話してみたいと思ったのが、「アートの有用性」を独自の視点で研究してきたインディペンデント・キュレーターのロジャー・マクドナルドさんだ。2001年に仲間と共に、広く市民に開かれた芸術表現の場を提供するプラットフォーム、アーツイニシアティヴトウキョウ(AIT)を設立。2001年からこれまで、キュレーターを目指す人、鑑賞者、アーティスト、様々な人のために開かれた現代アートの教育プログラムを展開してきた。
また2010年に長野県佐久市に移住し、私設美術館「フェンバーガーハウス」を設立。2022年には『DEEP LOOKING:想像力を蘇らせる深い観察のガイド』を執筆し、アートを深く観察(ディープ・ルッキング)するときに生まれる感覚が、凝り固まった現実をときほぐすことができると、その知恵や実践法を提唱している。
ロジャーさんに、「アートは社会とどう接続していくのか」についてお話を聞く連載の第1回。「最近取り組んでいることや関心を持っていることを聞かせてください」。そんな問いかけから始まったインタビューは、2024年に館長に就任した多津衛民藝館のことから始まった。
文化芸術のスペースが地域に果たす役割
「今年を振り返ると、私が住んでいる町の小さなコミュニティの民藝館、多津衛民藝館の館長に就任したことが大きな学びになりましたね。現代美術とは異なる、民藝という専門ではないフィールドに携わってプログラムづくりを行ったことが、私にとってすごく新鮮でした」
そう語りだしたロジャーさん。館長を務める多津衛民藝館は、八ヶ岳を望む丘の上にある、地域に根差した民藝館だ。初代館長・小林多津衛が蒐集した陶磁器や布などのコレクションや書籍を紹介するために、1995年に開館した。
ロジャーさんの家からもほど近く、移住当初から、併設される喫茶にコーヒーを飲みに行ったり、コレクションを見に行ったりしていたそう。「町に住む文化に関わる、より若い世代の視点を取り入れよう」という民藝館の流れの中で、ロジャーさんは2021年から理事として運営に携わり、2024年に館長に就任した。
横浜トリエンナーレやシンガポール・ビエンナーレなどの国際的な大規模の展覧会でもキュレーターを務めてきたロジャーさん。地域に根ざした民藝館のキュレーションを行う中で、大都市にある美術館や展覧会とは異なるモデルであることを実感しているという。
「大都市のモデルでは、観光産業やレジャー産業の延長線上であることを考える必要があるから、スケールがどうしても大きくなってしまう。でも多津衛民藝館は、町に暮らす人が来訪者の中心で、そこから佐久市、長野県とオーディエンスの輪が広がっていく。そうすると、観客の顔が見える感じがあるんです。一人ひとりが入ってくると、『ようこそ』みたいな感じがあって。この感覚は大事だなと思いましたね」
顔の見えるオーディエンスがいるからこそ、民藝館が地域に対して果たす役割も強く感じている。美術館や博物館、劇場など文化的な体験は、どうしても大都市に集中しやすい。しかし大都市から離れることで文化体験がなくなってしまうことはナンセンスだ、と続ける。
「アートの一つの社会的役割は、地域に住む人たちが文化を学んだり体験したりすることだなというのは、この1年で再確認できました。どういう文化体験をしたいのか、どういう文化スペースを作りたいのか、ということは、私たち鑑賞者の意識によってどこでも実現できることだと思うんです。そういう意識を持って、民藝館をこれから作っていきたいです」
町と民藝館を、作品を通して結び直す
より幅広い人々に民藝館を知ってもらおうと、ロジャーさんが今年スタートさせたのが「猪口(ちょこ)でつながる」プロジェクトだ。
「民藝館のコレクションに、江戸時代のお猪口があって、それを今、佐久市内の縁のあるカフェやレストランに1ダースずつお貸ししているんです。それぞれの店舗でお茶やオードブルを出したりするのに使ってもらっています」
コレクションを貸し出していると聞いて、驚く。館が保管している200〜400年も前に作られた作品のコレクションといえば、限られた人が、手袋をはめて扱うものであるかのように感じられる。そう伝えると、ロジャーさんもうなづく。
「普通の美術館や博物館だとありえないんですよね。でも理事会で提案したときに、民藝館の先輩方も『素晴らしいじゃないですか!』と言ってくださって。『万が一壊れたら、金継ぎをしたらいい。良い職人を知ってるから』って」
ロジャーさんが「先輩方」と呼ぶ70〜80代の運営に関わる方たちがとても前向きで寛容なことはもちろん、そこには民藝がもともと、使われることでその価値を発揮するものだということがあるのかもしれない。
「深く見ることによって意識状態や感情が変わるという意味では、絵画や彫刻も有用なものだと私は思っているのですが、直接的な有用性があるのは民藝独特かもしれないですね。これは町と民藝館の関係を、実際に民藝の作品を通して結び直すことができないかという試みなんです」
「町と民藝館の関係を結び直す」。そう話す仕掛けはコースターにある。各店舗でお猪口を提供するときには、プロジェクトについて記されたオリジナルのコースターと共に提供される。受け取ったお客さんはコースターを民藝館で提示すると、常設展示を無料で見られる仕組みだ。飲食店を訪れた町の人や観光客が民藝館を訪れ、また逆に民藝館を訪れた人がお猪口を使って食事ができる体験を求めて町の飲食店へ出ていくなど、循環が生まれている。
大都市を脱出して
町にあるアートスペースの館長になるなど、地域に根差した活動をしているロジャーさんが東京から長野県へ移住したのは2010年。2011年の東日本大震災をきっかけに移住ブームが起こるより以前だ。何が移住のきっかけになったのだろう。
「大学時代にウェールズというイギリスの西側の山と海が美しいところで過ごしていて、いつかそういう場所で暮らしたいという思いはずっとあったんです。都会は情報も美術館もいっぱいあって素晴らしいんですけど、住み続けたいところではないなという感覚があって。子どもが生まれたことが決断のきっかけになりました」
子どもを育てる場所を求め移住したのは長野県佐久市。今は亡きお父さんが作っていた別荘が空いていたため、そこで暮らすことになった。現在は月に一度東京を訪れ、レクチャーやミーティングを行いながら、基本的には長野で過ごしている。
移住したことによる変化の一つとして「スペースがあることが可能性を広げている」と話すロジャーさん。2011年には空き家を買い取って私設美術館「フェンバーガーハウス」をオープンし、毎年夏にかけて、実験的な展覧会やワークショップを企画している。
また、家の周りを開墾して畑を作り、野菜を育てるようになった。その変化を「生きることに積極的に関わるようになった」と話すが、背景には、東京でアートについて語っていたときの居心地の悪さがあったようだ。
「20世紀の美術を語るときには、アートの話だけではなく、アートと社会、アートと政治の話をする必要があります。でも東京の美術大学で教壇に立っているときや、国際展のキュレーターとして記者発表をするときなどに、社会や政治のことを概念だけで喋っている自分に限界を感じていたんです。『アートはすごい』『社会を変える』と言っても、自分の食べるものひとつつくることができない。それも大都市を脱出する一つの大きな理由になった気がします」
その居心地の悪さは、移住してどのように変わったのだろうか。
「食べ物を生産することをしてみると、その大変さもわかるし、食のシステムのことや、消費のことなど、いわゆるアートを語る中でよく話されるようなキーワードをもっと身体感覚で感じることができるようになりました。例えばアンディ・ウォーホルの話をすると、消費社会に言及することが必ず出てくる。自分で野菜を育て始めると、その苦労や流通の無駄、なぜ野菜がスーパーでこの値段で売られているんだろうとか、そういうことが実感として感じられるんです」
抽象的な概念だけではなくて、言葉を身体感覚として持てるようになったことは、ロジャーさんのアートに対する考えやアプローチにも影響している。
「アートの文脈で今『コミュニティ』というキーワードが頻繁に出てくるけれど、アート作品だけでどこまでコミュニティが作れるんだろうというと疑問が沸いてくる。でも民藝館に関わって、地域の中で文化芸術をコツコツと守ってきた先輩たちと関係ができると、なるほど、こんなコミュニティの作り方があるんだと思うことがあります。農家さんや先輩たちと交流することによって出てくる生きた知恵は、自分がアートを教えることとますます連動してきています」
文化芸術の視点から環境問題を考える
ロジャーさんが、実践から世界を見る中で、今意識を向けているものの一つが、環境問題だ。ロジャーさんが住む町でも、鹿が農家の作物を食べてしまって大問題になっている。これも温暖化とは無関係ではない。
AITでは、2019年からアートと気候危機をめぐる現状と課題を共有するアクションにコミット。2024年には日本で初めてのアートセクターが地球環境に配慮した活動を構築することを目的としたウェブサイトArt Climate Collective Japan(ACCJ)を立ち上げた。
地域においては、2021年に地元・望月地区における気候変動についての市民運動グループMOACA(Mochizuki AreKore Climate Action)を始動。また、長野県で文化芸術の支援を行う信州アーツカウンシルと、信州大学人文学部の連携企画である「信州アーツ・クライメート・キャンプ」に、2023年の立ち上げから関わっている。
「文化芸術の視点から、気候問題や地球環境を総合的に考えていこうという企画です。さまざまな美術館や劇場で気候変動にまつわるトークをしたり、作家たちの現場を訪れたり。県内で実践をしている人たちの声を集めた情報共有なども行っていますね」
2019年に全国の都道府県に先駆けて「気候非常事態宣言」を発した長野県。文化芸術においても、他県に先駆けてアートと気候危機に関する取り組みを行っている。2024年12月22日に「信州アーツ・クライメート・キャンプ」が開催予定のシンポジウムのテーマは、「資材循環」だ。
「展覧会やアートプロジェクトの取組で、廃棄物を出さないための再利用や循環の営みなどの事例が紹介されます。アートは物質的にゴミが大量に出る産業であることも事実なので、これから話していかないといけない課題ですよね」
自らの手で食べ物を育てること、地域で守られてきた文化芸術の場を運営すること——そうした実践や体験を通して得られた手触りと、研究やリサーチによって得られた視点とを行き来しているロジャーさん。地域、コミュニティ、民藝、気候変動といった社会的なキーワードをアートへ接続させるそのまなざしには、「ディープ・ルッキング」という観察方法が深く関係していそうだ。次回からは、ロジャーさんがアートと社会を接続するために、どのようなものの見方をしているか、より詳しく伺っていきたい。
長野県佐久市望月2030-4
開館期間|3月〜12月中旬
開館日|金曜日〜月曜日の4日間(イベント等により随時開館することもあり)
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