美術史の豊かな知識を土台にして、当代一の画力を武器にどこにもない絵を生み出す。そんな人気画家、山口晃ガハクは夫婦揃って食いしん坊。日常で、旅で、制作中の日々で、散歩の途中で何を食べてるの? ガハクが日常を描くコミックエッセイ『すゞしろ日記』に「カミさん」として登場するガハク妻による食事帖。 今回は「本能的な喜びに直結する」(ガハク説)という生クリームに関する談義。

 

絵/山口晃

生クリーム、といえば「シャンティイ」。
「この小さい『ィ』って何なんだろうね」
山口ヒゲ画伯こと夫(以下ガハク)は、いつもこの日本語表記が気になるようだ。
フランス語の発音に即したからと思われ、「イー」としてしまわなかった所にむしろ誠意を感じるけれど、ガハクとしては読み方よりもビジュアル的にこの小さな「ィ」が気にかかるのだろう。
そう言われてみると、わたしもこの「ィ」の部分で躓いてしまいそうな感覚にならなくもない。

さて、もうかれこれ7年前、2017年の春のこと。ガハクの某雑誌の取材旅行に同行し、パリから北に40キロほど行ったあたりに位置するシャンティイという所を訪れた。
シャンティイ城内にある美術館の見学が終わると、ここシャンティイが発祥の地である名物の「シャンティイ」を食べてみましょうということに。
取材ということですべてがおまかせで、自分では何の下調べをもしていなかったので、シャンティイ? 何だろう、という状態だった。
敷地内のレストランへと取材チームでぞろぞろと向かうが、広大なので木立の中を10分ほど歩いてようやく到着。
この辺りまで来ると、整備され美麗なお城周りとは趣が変わり、緑豊かでのどかな田園といった風情だ。
レストランは田舎風の住宅を模したという素朴な建物で、季節柄、屋外に簡易な白いイスとテーブルがずらりと置かれ、大勢のお客さんがティータイムを楽しんでいる。
わたしたちも気持ちのよい外の席につき、横を流れる小川に何羽かの鴨が遊んでいるのをみてくつろぐ。
もしかして、あれか。

ほとんど全員が食べているのが、山盛りになった白いかたまり。これがシャンティイで要するに生クリームなのであった。
このシャンティイ、正しくは「クレーム・シャンティイ」というそうで、一定の基準を満たした材料を使用してホイップした生クリームのことだそう。

わたしはガハクにこっそり耳打ちする。
「わたしには無理そうだから、ふたりで一つにしよう。ちょっと食べさせてくれればそれでいいから」
実はわたしは生クリームがそんなに好きではないのだ。ちなみに、ガハクは生クリームが大好き。

注文したものが運ばれてくるのを待つ間、隣の席の紳士二人が、各自大きなサイズ(確かサイズが選べた)のイチゴ添えシャンティイを瞬息で平らげる様子に、密かに驚愕した。こちらは見ているだけでもう食べた気になってしまう。
わたしたちのテーブルに運ばれてきたのは小さいサイズのシャンティイ。フルーツ添えでオーダーしたのでこちらもイチゴ付きだ。
小さめで酸味の強い真っ赤なイチゴの上に、真っ白ではなくやや黄味がかかった色の、どしりとした存在感のあるシャンティイが載っていた。色も形状もバニラアイスクリームをすくったかのようで、生クリームからイメージされるふわふわした感じはない。
赤と白の対比もきれいだし、見た感じ、サイズ的にそこまで脅威はないものの、これが全部生クリームなのかと思うとなんだかものすごい圧だ。
シャンティイに合わせたのはコーヒーや紅茶でなく、おすすめされたシードル。ここで飲んだものはドライかつシャープで非常においしかった。
遠い昔のせいか、ガハクも肝心のシャンティイは「濃厚だった」くらいの記憶になっているが、酸っぱいイチゴがずっしり重いシャンティイを支えるという味覚の構造に感服し、加えてシードルの炭酸によって軽味がでて、すべてが相関性を持っていたことが印象に残っているそうだ。
これは白くてふんわりした生クリームと、日本で一般的な甘いイチゴでは到底作り出せない味、とガハクは言う。
わたしの方は、生クリーム“だけ”を食べる、それがひとつの立派なスイーツの一品に成り得る、と知ったことが衝撃だったせいか、以降「生クリーム」というと、あのどかっと盛られた白いシャンティイと、緑の木々に囲まれた光景を思い出す。


「もっとどうぞ。この辺からごそっと」
わたしがそうガハクに勧めると、
「生クリームに関しては遠慮しないよ」
ガハクがそう言って、わたしのケーキから生クリームをさらってゆく。

ケーキやパフェなどに生クリームがたっぷり載っている場合、周りに食べてくれそうな人(ガハクか妹。さすがに友人には言えない)がいると、「よかったらどうぞ」と皿を差し出す。
食べられないことはないし、おいしくないとまでは思わない。例えば、フォンダンショコラやサヴァランに添えられた生クリームには、これがあってこそ完璧な調和が成り立っている(と感じつつも)「どうぞ」ということになる。

「生クリームはみんな好きなはずだけどね。脂肪分というのは本能的に喜びに直結するものだと思うし」
ガハクは訝しげに言うが、取り合いにならず好きなものを分けてもらえるので、それほど強い口調ではない。
それが生クリーム好きの直接の起因とはいえないが、ガハクは子どもの頃、本当においしいショートケーキを食べていたそうだ。
ガハクの育った(群馬県の)桐生市内にあったパン屋さんNの2階ではケーキを販売していて、ショートケーキはもちろん、生クリームオンリーのエクレアがあったとのこと。

ガハクはエクレアやシュークリームの中にだいたいカスタードクリームが入っているというのがやや不満で、「どうして生クリームだけにしてくれないんだろう」とよくぼやいている。
そして自分を振り返ってみると、小さい頃おいしい生クリームを食べていなかったように思う。生クリームというものは甘くてもったりしていて重たくて、あんまりうれしくないという印象しかなかった。
かなり大きくなってから、軽くてほわっとした甘さ控えめの生クリームを初めて口にして「なんておいしいんだろう」と驚いたことは覚えている。けれども好きには直結しなかった。
家庭の食環境に理由があるのだとしたら家族も同じ嗜好なのではと思って、改めて両親も妹に「生クリームって好き?」と聞いてみたところ、揃って「好き」と答えてきたのでやや取り残された気分になった。
さらには妹の夫君も「好き」とのこと。友達に聞いてみても「好きだけど」、なんで? というような顔をされた。
ガハクがどこかで仕入れた情報では、コンビニスイーツで生クリーム多めの商品を好んで買うのは男性が多いというし生クリームというものは男女問わず人々にとって大好きな食べ物なのだろう。


ここ2年ほど、だいたい月に一回はケーキを食べている。
わたしが月に一度用事で街に出るので、そのついでのお土産だ。(こんな風に書くと一体どんな奥地に住んでいるのか、普段どれだけ引きこもっているのかと心配されそうだけど)
数回続けたら、すっかりそれがガハクの楽しみとして定着してしまい、今では忘れることが許されなくなっている。

どんなケーキがいい? と事前にたずねると、ガハクからは決まって「生クリームたくさんのケーキだったら何でもいい」という答えが返ってくる。
だが、生クリームが多用されたケーキは意外と少ない。ショーケースをのぞきながら、「この中で一番生クリームが多いのはどれでしょうか」とお店の人に聞いたことが何度かある。
わたしにとっては好都合になるけれど、タルトやムースなど彩りのよい華やかなケーキには生クリームはあまり使われていない。

百貨店の地下でPのマロンシャンティイを見つけた時には、ガハクが喜ぶ! と迷わず買って帰った。名前もあの「シャンティイ」だ。
白くふわっとした生クリームは、シャンティイでのどっしり力強いシャンティイとは違ってかなり上品。
「どう? 生クリームだよ」
わたしが押し付けがましく言ったせいか、ガハクの反応はまま薄い。
「生クリームというか栗だよね。モンブラン?ではないか」
確かに中は粗めに砕かれた栗がぎっしりで、その外側を生クリームが覆う感じになっており、外観に反してこれはほぼ栗のお菓子。栗を生クリームに絡めて食べることになるが、わたしとしては生クリームの方が少なめという割合がよく、季節限定という和栗の甘さもほどよくて「おいしい」と思えた。

この日はもう一つのチョイスもガハクのために生クリームの定番、イチゴのショートケーキ。わたしにとって生クリームが多すぎたらガハクにあげればよいのだから。
シンプルな見た目にも関わらず、こちらのショートケーキはものすごく生クリーム量が多かった。
上面にデコレーションされた生クリームはなく、生クリームの層の上にイチゴが並んでいる。食べてみて「あれ?」と思ったがスポンジ部分がほとんどない。断面を改めて見てみると、3分の2が生クリームで、生クリームの層にイチゴが埋まっている状態だ。
つまり主体は生クリームで、それを食べるために、アイスクリームに添えられたウエハースのごとく、薄いスポンジとイチゴが存在するのだった。
「あげるあげる、生クリーム、どんどん取っていって」
「食べるところがなくなっちゃうよ?」
「いいの、イチゴを食べるから」
そんなやりとりを交わし、ガハクはほぼケーキ2個分の生クリームをひとりで消費することとなり、さすがに最後は大変になったのか、ひとかたまりの生クリームをコーヒーの中に落としてウインナーコーヒー風にしていた。
いくら好物とはいえ今日は少し限度を超えていたのかもしれない。せっかく生クリームづくしにしたけれど、いつもならば何らかのコメントが出てくるはずが食べ終えてもガハクははしゃぐこともなく静かであった。

懲りずに? 次の機会がきた時、先日Pの店頭で見かけて気になっていたシュークリームを買ってみる。ガハク念願の生クリームだけのシュークリームだ。
ちなみにわたしはマンゴープリンにした。
直径5センチほどのシューは真ん中から半分にカットされ、その間にぐるぐると絞り出された生クリームが挟まれているのだが、生クリームは見えているところだけで4センチ強ある。
土台があって、そこから生クリームがキノコのように成長している、とでもいったらいいのか。
「これ、生クリームだけのシュークリーム。
食べたがってたでしょう」
そうやってありがたがらせようとすると、人はかえって感情を出せなくなるのかもしれない。ガハクはさほど感激する様子もなく、「へえ、そうなの」と軽く言って食べ始めた。

「今まで、生クリームだけでいいのに、シューはいらないと思ったりしたけれど、これは皮部分がいい受け止め役になってるかも」
これだけ生クリームが多いとガハクもそんな風に思ったようだ。
「ちょうどいいんだよね、このカリカリ具合が」
試しに食べさせてもらうと、ふにゃっとしたやわらかなシュー皮ではなくて、歯応えがあり、口の中で消える生クリームへのアクセントにもなっている。
「お、下にはカスタードクリームが入ってる」
底の見えないところにはカスタードクリームが仕込まれていた。
「はぁー、なるほどね」
ガハクがしみじみと感心している。
「生クリームばかりで飽きそうになったところで、こうしてカスタードクリームが出てくると、すごくいい。必然性がある。初めてカスタードクリームの重要性が分かった気がする」
これまで生クリーム好きとしてがっかりしがちだったカスタードクリームに対し、ガハクは認識を改めたようだった。
「あれ、なんで生クリームを残しているの? 多すぎた?」
ガハクがなぜかひと口分くらいを皿の上に残している。
「だって、最後に生クリームだけで味わって食べたいじゃない」
そういうことでしたか、あますことなく満喫しているようだ。
しかし、すべてをきれいに食べ終えてガハクは少し悲しそうに言った。
「でも、次からはもうこの量はひとりで食べきれないかも」
寄る年波に勝てず、とはこのことか。
「くやしい。もっと食べたいのに」
食べたいものは食べられるうちに存分に食べておくのがいい。

ケーキも種類があって選べないから本当は一気にひとり2個食べてみたい。
ガハクは天ぷらが好きだけれど、今のうち心ゆくまで食べるがよかろう。
近ごろフレンチやイタリアンのコース料理など、完食できるか事前にはらはらする時もある。会席ですら然り。贅沢かな、体重増えそうなどとためらわず、できる限り食べておかなくては。
「ベルギーでチョコレートショップ巡りがしたいかも。各店では一個ずつしか食べないんだけど、その代わり網羅するように次々探してクリアしていくわけ。ウイーンの個性的なカフェもはしごしたい。フランスのオーベルジュにも行きたいかな。そうそう、東欧あたりの料理も知りたい。ペルー料理っておいしいらしいね。中東あたりの料理をもっと試してみたい。タイ料理もちょっと気になる・・・」
わたしが思いつくまま計画をあげてみる。
「・・・楽しそうだね」
止まらないわたしの欲ばりぶりに、ガハクがややひるむ。
願望だけでまだ特に予定はないけれど、実現する日が待ち遠しい。

■次回「ヒゲのガハクごはん帖」は12月第2週に公開予定です。


●山口晃さんってどんな画家?
1969年東京都生まれ、群馬県桐生市に育つ。96年東京藝術大学大学院美術研究科絵画専攻(油画)修士課程修了。 2013年『ヘンな日本美術史』(祥伝社)で第12回小林秀雄賞受賞。
日本の伝統的絵画の様式を踏まえ、油絵で描く作風が特徴。都市鳥瞰図・合戦図などの絵画のみならず立体、漫画、インスタレーションなど表現方法は多岐にわたる。
主な個展に、2015年「山口晃展 前に下がる下を仰ぐ」(水戸芸術館現代美術ギャラリー、茨城)、18 年「Resonating Surfaces」(大和日英基金ジャパンハウスギャラリー、ロンドン)、23年「ジャム・セッション 石橋財団コレクション×山口晃 ここへきて やむに止まれぬ サンサシオン」(アーティゾン美術館、東京)など国内外展示多数。
2019年 NHK大河ドラマ「いだてん 〜東京オリムピック噺〜」のオープニングタイトルバック画を担当し、22年善光寺(長野)へ《善光寺御開帳遠景圖》を奉納。

ひろしま美術館で開催中の「ジパング―平成を駆け抜けた現代アーティストたち―」へ出品。
会期|2024年11月2日(土) – 12月22日(日)
会場|ひろしま美術館(広島・中区)
https://www.hiroshima-museum.jp/special/detail/202411_zipangu.html

山口晃
左:《馬からやヲ射る》 2019年 作家蔵
右:《東京圖 1・0・4輪之段》2018年〜 所蔵:山種美術館 
©︎YAMAGUCHI Akira, Courtesy of Mizuma Art Gallery

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