ジョルジョ・デ・キリコ 《ヘクトルとアンドロマケ》 1970年 ジョルジョ・エ・イーザ・デ・キリコ財団蔵 © Fondazione Giorgio e Isa de Chirico, Roma © Giorgio de Chirico, by SIAE 2024

幻想的な絵画、謎に満ちた表現、日常の裏側の非日常を描く…そんな孤高の画家、デ・キリコ。ダリ、マグリットに衝撃を与え、ウォーホルからは絶賛を得た。一方、古典様式の絵画へと回帰していったデ・キリコはどんな絵を見て、何を描きたかったのか。今回の「デ・キリコ展」を見て、画家の桑久保徹が執拗に切り込んでいく。

自分の頭で考え、自らの感覚に素直に従う好感の持てる人物。自己肯定感の強さは、家族から褒めて育てられたか。周囲の流行や空気感は敏感に感じ取るものの、同調することはしない。風景の中に置かれた谷間の家具たちのパースが、狂っていない。あれだけ狂わせていたのに。表立ったキュビズムはしないように心がける。(流行りの潮流に無自覚に乗る人間を、嫌悪する。誰かに乗っかるくらいなら、間違えた方がマシだ。)頭の片隅には、絶えず新しい価値の創造が念頭にあるために、少しばかり大胆な行動にでることもしばしば。前衛に対しては、反前衛で応える。
他人から自分がどう見られるかなどはどうでもいいので、不遜に見える。そして実際にも不遜ではあるがチャーミングで、傲慢ではあるが孤高でもある。美男かどうかは定かではないが、鼻が高く、頭髪も晩年まで豊かである。右利き。身長はそれほど高くはない。母に似たんだ。マン・レイの撮った集合写真。喧嘩別れする一年前の、シュルレアリスム宣言。私が始祖なのに。あいつらが悪い。

《17世紀の衣装をまとった公園での自画像》の前でポーズを取るジョルジョ・デ・キリコ 1968年 自宅のサロンにて Photo: Walter Mori(提供:ジョルジョ・エ・イーザ・デ・キリコ財団)

ニーチェ哲学が人格の一部を形成しており、この展覧会で彼の人生を眺め見ても、ルサンチマンに抗い続ける様子が散見できる。弱音を絶対に吐かない。お腹が痛いと言っていない。弱き者が共感を呼ぶ価値の転倒する時代に、強き者「超人」であろうと努めている。

20代で売れて、国際的な名声を得て、30代からは新古典主義に走るが微妙。キュビズムをやめたピカソの新古典主義のように上手くは出来ない。形而上(けいじじょう)絵画をやめてから新しい価値をなかなか創出できなかったけれど、貧乏だったことはない。国葬された貴族出の父の遺産が大変ありがたい。ありがとうございます。40代も、大した成果を挙げられなかったけれど、新しい絵画を生み出そうとする実験の傍で形而上絵画をちょくちょく描いて売ることで、貧乏だったことはない。やりたいことをやるためなら、なんだってやる。全ては、私の絵画が、これまでに誰も感じたことのないような雰囲気を獲得するためだ、仕方がない。

ジョルジョ・デ・キリコ 《南の歌》 1930年頃 ウフィツィ美術館群ピッティ宮近代美術館 © Gabinetto Fotografico delle Gallerie degli Uffizi © Giorgio de Chirico, by SIAE 2024

50代も60代も70代も80代も、結局は20代の形而上絵画を超えるような発見には至らなかったけれど、常に真摯に、新しい何かを求め続けた。実験を繰り返し、自分の価値を自分で創造し、自分の人生を自分で決定して生きた。彫刻などは大変に楽しかった。後悔などあるわけがない。同じ人生がもう一度繰り返されたとしても、問題はない。私は何度でも人生を楽しむことが出来る。 22歳に《ある秋の午後の謎》でオデュッセウスの旅立ちを見送った私は、80歳で再び彼が帰還するのを待つ。私は何度でも1927年に《谷間の家具》を描き、私は何度でも1934年に《バラ色の塔のあるイタリア広場》を描く。そして1968年の《オデュッセウスの帰還》に、それらすべてを呼び戻す。永劫回帰は、既に私の仕事の内にある。

ジョルジョ・デ・キリコ 《バラ色の塔のあるイタリア広場》 1934年頃 トレント・エ・ロヴェレート近現代美術館蔵(L.F.コレクションより長期貸与)© Archivio Fotografico e Mediateca Mart © Giorgio de Chirico, by SIAE 2024

ジョルジョ・デ・キリコ 《オデュッセウスの帰還》 1968年 ジョルジョ・エ・イーザ・デ・キリコ財団蔵 © Fondazione Giorgio e Isa de Chirico, Roma © Giorgio de Chirico, by SIAE 2024

ローマのスペイン広場前にあるアトリエからの眺めは本当に素晴らしい。来世でも大いに楽しみである。ただ一つ残念なのは、アポリネールが生きていたら、私の人生はさらに素晴らしいものであったかもしれないということだ。

没後45年を経過しても、1910年から1919年にかけて作成された絵画が、経典的なものとして際立って映ることは変わらない。デ・キリコ自身が拒んだとしても、燃えてしまったら困るのはまだこちらの作品群の方だ。しかしそれでもなお、その後の60年が持つ意味が重要なことに変わりはない。デ・キリコの仕事には、ピカソやマティスとは違った方向で、現代に接続したくなる魅力が備わっている。無時間性の標榜が効力を発揮してくるのは、これからかもしれない。
繰り返されるモチーフのキャラクター化には村上隆を見てしまい、再制作のマルチプル化にはウォーホルを、《オデュッセウスの帰還》にはペティボンの波を、《谷間の家具》にはホックニー を、《城への帰還》になぜかローラ・オーウェンスを、《瞑想する人》にはフィリップ・ガストンを、《イーゼルの上の太陽》や《橋の上での戦闘》には、そのヘルメス主義のせいか何なのかは分からないが、マイク・ケリーやポール・マッカーシーを感じてしまう。今後の接続や交感によって、さらに解釈の楽しみは豊かさを増すだろう。

ジョルジョ・デ・キリコ 《谷間の家具》 1927年 トレント・エ・ロヴェレート近現代美術館蔵(L.F.コレクションより長期貸与)
© Archivio Fotografico e Mediateca Mart © Giorgio de Chirico, by SIAE 2024

ジョルジョ・デ・キリコ 《瞑想する人》 1971年 ジョルジョ・エ・イーザ・デ・キリコ財団蔵 © Fondazione Giorgio e Isa de Chirico, Roma © Giorgio de Chirico, by SIAE 2024

ジョルジョ・デ・キリコ 《イーゼルの上の太陽》 1972年 ジョルジョ・エ・イーザ・デ・キリコ財団蔵 © Fondazione Giorgio e Isa de Chirico, Roma © Giorgio de Chirico, by SIAE 2024

今回、デ・キリコの足跡を辿ることが出来てとても良かった。バーネット・ニューマンがカラーフィールドペインティングを描いている1959年に、《17世紀の衣装をまとった公園での自画像》を描く暴挙に出る特性がなければ、私の世界はきっと少しだけつまらなかった。

ジョルジョ・デ・キリコ 《17世紀の衣装をまとった公園での自画像》 1959年 ジョルジョ・エ・イーザ・デ・キリコ財団蔵 © Fondazione Giorgio e Isa de Chirico, Roma © Giorgio de Chirico, by SIAE 2024

「この夏、私は最も深遠な絵画をいくつか描きました」

背景の方をもっと一生懸命描いて欲しかった。注目して欲しかった。結果論だけれど、マネキンや三角定規などのモチーフの周囲、あの、あなたの抱えていた哲学的で神話的な空間を描くほうが、ずっと大切なことであったように思う。あの背景を眺めていると、「私は知っていることを、知らない」と強く感じるんだ。それにあなたには、きっとその方が向いていたのに。

ジョルジョ・デ・キリコ 《形而上的なミューズたち》 1918年 カステッロ・ディ・リヴォリ現代美術館蔵(フランチェスコ・フェデリコ・チェッルーティ美術財団より長期貸与) © Castello di Rivoli Museo d’Arte Contemporanea, Rivoli-Turin, long-term loan from Fondazione Cerruti © Giorgio de Chirico, by SIAE 2024

失意のデ・キリコはたまたま立ち寄った美術館でティツィアーノの作品鑑賞中に『無時代絵画』という着想を得て古典主義へと傾倒していく。パリでデ・キリコが熱狂的に受け入れられ始めた矢先、《聖愛と俗愛》の前で、形而上絵画は終わりを告げようとしていた。

ジョルジョ・デ・キリコ 《風景の中で水浴する女たちと赤い布》 1945年 ジョルジョ・エ・イーザ・デ・キリコ財団蔵 © Fondazione Giorgio e Isa de Chirico, Roma © Giorgio de Chirico, by SIAE 2024

1918年11月3日、パリで展覧会を開き、後のシュルレアリストやダダイストに霊感を与える。企画:ポールギョーム。
11月9日、盟友アポリネール急死。
11月11日、第一次世界大戦終戦。
11月15日、ローマでグループ展に参加。
12月、横取り事件。カルロ・カッラ『形而上絵画』を出版物で先行して発表する。
12月、デ・キリコ慌てて『われら形而上派』を執筆する。念のため、創始者であることを強調する。(著作権管理が異常に厳しいのは、この一連が発端だろうか)
1月1日、愛しい母と共にパリからローマへと移り住む。 
2月、ローマで個展。兵役先で描いた室内画を展示するも、作品はまったく売れず、批評家ロベルト・ロンギに酷評される。  

1915年〜1918年、兵役先で室内画という新たな展開を迎える。室内と屋外、三角定規と幾何学的な線、箱とクッキー、そしてあのマネキン。どちらが虚構でどちらが絵画的虚構なのかが判然としない画面を構築する。特に画中画の発明によって、虚構と絵画的虚構の操作が安易に可能になることを突き止めて、興奮して何を言っているのか分からない。「壁にかこまれた悲しみの枠組みと、永生の喜びの多彩な骨組みとに向かう、二つの平面」「わが意識の暗室に夜の嵐の電光が差し込んだような発見」。繊維工場の発する麻の匂いが街中に充満していたというのは本当ですか。Cin cin。

ジョルジョ・デ・キリコ 《福音書的な静物Ⅰ》 1916年 大阪中之島美術館蔵 © Giorgio de Chirico, by SIAE 2024

良き理解者であり、超前衛的精神の持ち主である詩人アポリネールとの共作によって勇気づけられ、バナナ、ゴム手袋、魚の枠、朝鮮アザミ、パイナップルをハイペースで描いていく。画面内には物体が徐々に増え、空間がどんどん圧縮していく。完成していく作品を鑑賞する2人。確実に爆笑している。後にブルトンは言う、“デペインズマン“。乾杯。

ニーチェが発狂してしまったトリノの街に触発された、長い影のある「イタリア広場のシリーズ」を1912年〜1915年まで描く。消失点を操作することで、さらに合理的な繋がりをほどいていく。ウチェッロとルソーを参考に、素朴でキッチュな描法を採用する。特殊でない画材による特殊でない描き方。個性が排除されて現代性を獲得し、丹念なグラデーションを放棄することで増産が可能となる。
ヴェロネーゼグリーンの空の保護用ワニスに照明が反射する。彩度と明度が極端に低く、美しい。
ウチェッロの《受胎告知》とティントレットの《聖マルコの遺骸の発見》《聖マルコの遺骸の運搬》が透けて見える。

1910年12月26日
友人フリッツ・ガルツへ宛てた手紙
「私がここイタリアで制作したのは、偉大であったり深遠であったりするものではなく、恐るべきものです。この夏、私は、一般に存在するうちでは最も深遠な絵画をいくつか描きました。」
「深遠は、これまで探されてきた場所とは全く別のところにあるのです。私の絵画は小ぶりですが、そのいずれもが謎であり、ひとつひとつが、他の作品には決して見られないであろう詩と、雰囲気と、約束を内包しています。こうした絵画を描くことができて、私はひどく嬉しいのです。」

このささやかな4枚が、かなり重大な出来事であることを、私はこれまで知らなかった。ダダも、シュルレアルも、このゼロイチの発現に比べれば、どうということもない。衝撃である。小さなビックバンか、それが大げさならば、突然変異だ。以外なほどあっさりと成し遂げられた。突然変異とは、そういうものか。
ベックリンやマックス・クリンガーを起源とするとはいえ、これらの作品がもたらす感慨はまったく別のものだ。
意味の関連性や連続性を欠いた世界の、清々しい広がり。与えられたり、決めつけられたり、統合されようとしてしまうことからの自由。
美術史においては、新たな水脈の創出でもある。この13年後に、マグリットはデ・キリコの《愛の歌》を雑誌で見て泣く。

《ある秋の午後の謎》《神託の謎》ともに42×61cmのキャンバスに制作。《時間の謎》《(謎以外に何が愛せようかと書かれた)自画像》ともに55×71cmのキャンバスに制作。

主題:あの秋の謎に満ちた空間。
手法:ベックリンに倣って獲得した描き方。

1910年22歳「ある秋晴れの午後、私はフィレンツェのサンタ・クローチェ広場の真ん中にあるベンチに座っていた。長く苦しい腸の病気からなんとか回復したばかりの、ほとんど病気のような弱々しい状態にあって、私を取りまく自然のすべて、建造物や噴水の大理石までもが、まるで病み上がりのように目に映った。秋の生あたたかく愛のない太陽が彫像とともに聖堂のファサードを照らしていた。そのとき、あらゆるものを初めて見ているかのような不思議な感覚におちいった私の脳裏に、絵画の構図が浮かびあがってきた。」
ジョルジョ・デ・キリコ著「Manoscritti parigini」 1912-13年  Giorgio de Chirico, “Manoscritti parigini” c. 1912-13, in G. de Chirico, Scritti 1910-1978, La Nave di Teseo, Milano 2023.


「精神の力に身を委ね、事物に対するいつもの見方を捨てたとしよう。事物について、どこ、いつ、なぜ、何のため、などと考えずに、ただその本質だけを考えるとしよう。さらには、抽象的思想や、理性の原則から意識を解き放ち、精神の全力をあげて直観に身を委ね、直観に没頭し、直接現前する自然の対象を静かに観想することで意識を満たしたとしよう——風景、樹木、岩、建物、なんでもかまわない。そうすると、「対象の中へ自分を失う」という状態になる。すると、あたかも対象だけが存在し、それを知覚する人はいないかのようになる。
そうして、直観する人間と直観する行為が分離できなくなって一体となり、ただ一つの直観像によって意識全体がすっかり満たされる。そうなると、認識されるのは個別の事物ではなくなり、イデアとなる。永遠の形相である。この段階における意志の直接的な客体性である。そうなるともはや、今まさに直観を行なっている人もまた個体ではなくなる。この観照のうちに自分を見失っているからだ。直観を行なっている人は純粋な認識主体であり、意志もなければ、苦痛も時間もない。」

アルトゥール・ショーペンハウアー著 西尾幹二訳『意志と表象としての世界』 中央公論新社 2004年

画学生時代には、はじめイタリア各地でルネサンスやバロック美術を、のちにミュンヘンの美術館で象徴主義の絵画やドイツ・ロマン主義の絵画を見た。ルドンの《》は見ていただろうか。
そして、ニーチェやショーペンハウアー、カント、パピーニ、オットー・ヴァイニンガーなどを耽読して、世界の見方を形成していった。

1888年ギリシャのヴォロスにイタリア人鉄道技師の父と教養深い母のもとに産声をあげる。
早くから絵の才能を発揮して、はじめアテネで、敬愛する父が亡くなると教育熱心な母はヨーロッパ各地の文化的主要都市へ移動して美術教育を受けさせる。

生まれ持って繊細で鋭い感受性を備えていて、数カ国語を操る知性をも持ち合わせていた。絵が人並外れて上手いというわけではない。哲学や神話との相性の良さから、思想、発想、観念に特別な資質があるように思う。

汽車に乗るデ・キリコは移動を繰り返しながら、新しく見る風習や風土を受け止めてきた。見慣れない風習はとても新鮮で、思い入れのない風景はいつも不思議だった。背後に隠れ潜む意味を自由に想像することは、とても楽しかった。謎であることが、何よりも大切だった。
感覚や経験よりも前にあった自分を思い出すこと。わからないということを描こうとすること。それは、理解する前の知覚を呼び覚ますという前例のない絵画を生み出した。

ジョルジョ・デ・キリコ 《パリスと馬》 1952年 ジョルジョ・エ・イーザ・デ・キリコ財団蔵 © Fondazione Giorgio e Isa de Chirico, Roma © Giorgio de Chirico, by SIAE 2024

デ・キリコ展

会期|2024年4月27日(土) – 8月29日(木)
会場|東京都美術館
開室時間|9:30 – 17:30[金曜日は9:30 – 20:00]入室は閉室30分前まで
休室日|月曜日[ただし7/8、8/12は開室]、7/9(火) – 16(火)
お問い合わせ|050-5541-8600(ハローダイヤル)

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漫画家・コラムニスト

辛酸なめ子