中島 聡 さん (寿司職人・オスシノミライ代表)

目の前にいる人に「美味しい」と笑顔になっていただきたい。
カウンターの前で寿司を握っている今の私の姿は、必然の選択だったのかもしれません。

中島 聡  1987 年株式会社資生堂入社。商品開発・マーケティングの企画マネジメントを手がけ、米国のメーキャップブランド NARS(ナーズ)の日本導入ほか、数多くのヒット商品を世に送り出す。定年を待たずに資生堂を特別退職し、「東京すしアカデミー」32 期・寿司職人養成コース、「飲食塾」2期・寿司職人コースを修了、寿司職人としてデビュー。2023 年 4 月から「飲食塾」に併設する店舗『守破離』にてディナー運営全般に携わる。2024 年からは外国人向けの寿司講座の講師も担当。

調理への情熱


初めて自分で調理をしたのは8歳の頃、母が入院をして父と祖母が食事を作るようになった頃でした。それまでは母が作る料理が私の ”食” の全てで、めったに外食もしない家庭でした。ですからこの時、父と祖母が作る料理を口にして初めて、「料理には作り手によって様々なバリエーションがある」ということに気づいたのです。そして祖母に作ってもらい、未知の味ながら幼心に美味しい!と感じた「豚肉の天ぷら」を、教わりながら自分で作ったのが私の初めての調理体験でした。

その後、ずっと調理を続けていたわけではありませんが、大学生の頃は夕飯を作る担当をちょいちょいしていました。当時「イエスタディ」というカジュアルレストランでアルバイトをしていて、そこで覚えた「母の料理とは違うメニュー」を再現してみる、そんなことが私の楽しみでもありました。例えば、フライドズッキーニ、カチャトーラ、カルボナーラなどです。作ってみると母と妹が喜んでくれたのです。自分の料理を目の前で「おいしい」と 言ってくれる母と妹の反応が嬉しくて、どんどん調理する喜びを知っていった、それが私の調理の原体験だったのかもしれません。



資生堂時代

大学卒業後の進路としては、「そこでしか生み出せない価値を創造しうる場所」という思いから、化粧品メーカーである資生堂でキャリアがスタートでした。当初はコピーライターとして宣伝部で仕事をしたいと考えていましたが、「メーカー勤務をしたのであれば、広告を作るより商品開発する方がお前らしい」と当時の上司に言われ方向転換。商品の企画開発とマーケティング一筋の会社員人生を送ることになったのです。

そんな背景があって始まった “マーケティング生活“ は、当初は困惑しかありませんでした。最初に配属されたのはフレグランスのチーム。何をするべきかさっぱりわからない中、フランスのグラースという街(註:香水のメッカと言われている街で、フランスの香水や香料の2/3がここで生産されている)で学ぶ機会や、「エヴァリュエーター」という香りを評価する専門家から直接教えてもらう機会を得て、徹底的に勉強しました。内容はとても難しかったのですが、とにかく面白かった。しかし正直なところ、この学びが今後自分の仕事にどう繋がっていくのかは、当時の私にはよくわかっていなかったんです。

ただ振り返ってみると、 ”香りを言語化する” という特技をこの時期に身につけたように思います。目に見えないものを言語化するというのはスキルです。料理番組でタレントの方が食レポとかされますが、「美味しい」とか「柔らかい」というだけだとなかなか伝わってこないですよね。より豊かな表現力を駆使することが必要です。私の場合であれば、例えば ”香りを風景で表現する” というようなことに徹底的に取り組んでいたので、企画書を仕上げるときなどとても役にたちました。おかげで一部の上司からは「お前の企画書はポエムか?」なんて言われることもあったのですが(笑)。

「最後に開発を手がけたのも香水。この香水は自分としては最高傑作!と、自画自賛(笑)」

フレグランスの他にもう一つ、資生堂時代はメーキャップブランドにも長く携わりました。時は90年代のメーキャップブランド、スーパーモデル全盛時代。NYのファッションウイークに何度も足を運び、そこから刺激を多分に受けました。その中でも商品開発のパートナーとして組んだメーキャップアーティスト、ケヴィン・オークインと一緒に仕事をした時間はとても勉強になりました。

「ブランディングのための社内資料です(表紙だけですが)」

「ブランドの価値を守る」とはなんたるかを、彼から学んだようにも思います。彼の美意識は、その後ずっと私の中に強烈に残っていて、寿司職人になった今だと、例えばひと皿への盛り付けのしかたに繋がっていたりする。フレグランスでの経験と同様に、全てが今の自分の仕事にとっても有益なものとなっているのだと実感します。資生堂という会社で、なんだかんだ言いながら気がつくとほぼ35年間、仕事をしていました。結局、好きだったんですよね。




マーケティング」から「寿司職人」って?

40代半ばの頃に、「フードアナリスト」という資格に出会いました。幼少期から “食” に興味があったからだと思いますが、学び始めて自分の中で断片的だった “食” に対する知識がつながり、線となって整理されていくことがとても興味深く、気づくとその学校で講師をしたり、専門学校や大学の教壇に立つようになっていました(当時から資生堂では副業が許されていました)。

そんな生活を過ごす中でふと思い出したのは、私が就職時に求めていた「その場でしか生み出せない価値の創造をしたい」という気持ちでした。もちろん資生堂での商品開発の仕事はとても楽しかった。ただ、企画して商品になるまでかなり時間をかけ、当然それに対する思い入れはあるのですが、その商品がいよいよ発売開始となる当日に店頭で商品を手にされたお客さまの喜ぶ姿に接しても、なんだか満足のいくリアリティが感じられなかったんです。前向きに楽しんで仕事をしているのに、ずっと満たされないものがあるというジレンマが次第に増長していたのかもしれません。

この時期にフードアナリストとしての取材で「東京すしアカデミー」という学校を訪問しました。もともとはマーケティング視点で、どういうビジネスモデル、システムなのかを取材するというテーマで挑んでいたのですが、見学している時に講師の持つ和包丁の美しさとそれを操る職人技術を目の当たりにして。いや何よりもその所作の美しさに魅せられてしまったんですよね(笑)。調理はこれまでもずっと好きでやってきましたが、この時「やはり私は日本人だから、寿司こそ調理じゃないか」って思ってしまった。理由はそれこそうまく言語化できないのですが、そう思ってしまったんです。そして気がつけば、アカデミー入学の書類にサインをしていました。当然周囲には驚かれましたよ。資生堂退職まであと残りわずかだというのに、早期退職で寿司職人を目指すと言っている。まぁ、誰もが驚くキャリアかもしれませんよね。

その一方で、私の中ではずっと繋がっている次なるステージなんだという確固たる思いもありました。私が9歳のときに亡くなった父が、海に潜ってとってきたものをその場で捌いて食べさせてくれた記憶。その時の感動もまた私の原体験だったのです。故にこれまで洋食系の料理を主に作ってきた私ではありますが、 まさに今、海の幸を扱い調理する道に進もうとしている自分に、表現し難い何か深い縁のようなものを感じて…アカデミー入学を決めたあの日、「魚に帰って来たよ」と亡き父に報告したことを覚えています。



寿司職人の道と現在

最初にお世話になった「東京すしアカデミー」を卒業後、さらに「飲食塾」で学びました。理由は3つ。① 店舗併設で実務経験が可能だったこと、② 豊洲市場とのパイプを持てること、そして何より大きかったのは ③ ”津本式” という魚の旨味を引き出す究極の血抜き法を直接学べる学校だったことです。

最初の学校で6ヶ月、そして次の学校で3ヶ月。当初は還暦を迎えるまでにはカウンターの前に立ちたいと思っていた私でしたが、カウンターデビューはまだ「飲食塾」の生徒だった時(入学後2ヶ月目)に突然訪れました。これも思えばとても恵まれていたのかもしれません。そしてこの思わぬデビューが私をさらに次の夢へと導いたのです。

「飲食塾」卒業後からは、ありがたいことに併設店舗「守破離」の夜の営業を任せてもらいながらカウンターに立たせていただいています。ここでは、夢だった ”その場でしか生み出せない価値” を提供しながらお客さまのダイレクトな反応を感じる喜びを得ています。もちろん、これまで寿司一筋で極めていらっしゃった職人の方々とキャリアで肩を並べることは不可能です。では自分の強みは何なのか。私がキャリアを積んできた商品開発やマーケティングの経験を強みとしてできる寿司業界への貢献とは何か、今はそんなことを強く意識するようになってきました。

「守破離」スペシャリテの雲丹スプーン
「津本式」で熟成させた、石鯛の握り

今年は新しいご縁で、ベルギーから寿司を学ぶために来日した外国人に寿司を教えるという機会も得ました。18歳の若者です。しかもたった1ヶ月。彼にどこまで何を教えたらいいのかと日々葛藤していましたが、とても優秀な彼は結果的に帰国後日本人オーナーのレストランで仕事を始めています。私が伝えられたことは微々たることなのかもしれませんが、今や実際に世界で活躍してくれている。いつかベルギーを訪れて、彼の働く姿を見られたらという楽しみも生まれました。思えばほんの3年前までは企業で働いていた自分が、当時にはとても想像できないような日々を送っています。

「担当寿司講座のために自ら書き下ろした魚のイラスト。天然物と養殖物の見分け方などの説明に使います」





寿司業界の展望

あくまでも寿司を軸に据えながらも伝統的な寿司だけにこだわらず、柔軟な発想で新しい寿司のあり方を追求するのがおそらく私のスタイルです。これは企業人だった頃から変わらないスタイルですから、きっとどんな業界にいても変わることはないのでしょう。先ほどお伝えたしたように、それは先輩職人たちと肩を並べることができないからこその選択です。寿司屋で洋のニュアンスをもったおつまみが出たっていいじゃないかと思うわけです。

大衆化が進んだ結果として、回転寿司やスーパーでの握り寿司販売など、すっかり身近になった寿司ですが、やはり寿司はカウンターという場所で味わう楽しみがあると信じたい。カウンターを通してのサービスは、そもそも日本発祥なのです。この文化はしっかり継承したい。そしてその中で既成観念にとらわれない新たな価値を見出していきたい。もちろん、従来の伝統的寿司フリークには白眼視されるかもしれないことは覚悟しています。しかしながら日本の素晴らしい食文化のひとつである寿司の “ミライ” を世界中の人に楽しんでもらうことができたなら、何よりも幸せであると私は思っています。これはマーケティングという仕事を長くしてきた私だからこそできるチャレンジだと、信じてやみません。

併設店舗「守破離」の前で。 「佐伯祐三Tシャツを着ています」

インタビューを終えて…


中島さんが小学5年で出会った美術の先生との時間は、その後の彼のクリエイティブな生き方を創造したのかもしれません。非公式ながらも美術クラブの活動で沢山のものを吸収したと、とても楽しそうに語ってくださいました。またその先生が画家の佐伯祐三氏が大好きだったこともあり、中島さんも展覧会に足を運んだと言います。取材当日も佐伯祐三氏の作品がデザインされたTシャツを身に纏っていて、こんなところにも幼少体験からの繋がりを感じさせていただきました。「マーケティングから寿司職人へ」。はたから見るとどうして?と思うことも、こうして話を伺うと全て繋がっているのだな、ということを改めて感じます。中島さんが握る寿司だけではなく、入店してからの全てのサービスに感じられる統一性、それは彼が長くマーケティングという領域に携わってきたからこその顧客サービス視点なのかもしれません。また美味しい寿司をいただけることを楽しみにしています。【M】




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