17世紀初頭の画家、カラヴァッジョ。いまも慕われ愛される宗教画を残しながら、犯罪者として逃亡の人生を送った。38年の人生はあたかも彼が描く絵のように光と闇が強調されたものだった。 美術史家、宮下規久朗は巡礼するように世界各地にカラヴァッジョの絵を追う。メトロポリタン美術館が所蔵する《音楽家たち》と日本で再会した彼が語る「アメリカのカラヴァッジョ」。🅼
今回の「メトロポリタン美術館展」にカラヴァッジョの《音楽家たち》が来日した。
私は長年イタリア17世紀の画家カラヴァッジョを研究してきたが、ここではカラヴァッジョとアメリカについてお話ししたい。
カラヴァッジョは美術史上、最大の天才の一人。ルーベンス、ベラスケス、レンブラント、フェルメールといった名だたるバロックの巨匠たちはすべて、彼がいなければ生まれなかったとさえ言われている。美術の宝庫イタリアでも別格扱いされており、ユーロ通貨導入以前のイタリアの高額紙幣である十万リラ札の顔でもあった。
一方、この天才は「呪われた画家」とよばれ、犯罪者でもあった。その生涯は血と暴力にまみれており、作品に関する記録よりも警察や裁判の記録のほうが多いほどである。彼の波乱に満ちた生涯は、何度も小説や映画の題材となっている。
カラヴァッジョは1571年にミラノで生まれ、当時の美術の中心地ローマで活躍。当初は、《果物籠を持つ少年》や《バッカス》のような迫真的な風俗画や静物画を描いていたが、やがて教会を飾る大型の祭壇画に挑む。ローマのサン・ルイージ・デイ・フランチェージ聖堂を飾るデビュー作《聖マタイの召命》をはじめとするそれらは、聖書の物語を同時代の情景としてとらえ、鋭い光によって浮かび上がらせたものであり、人々に大きな衝撃を与えた。ただちに多くの追随者を生み、やがて西洋中に広がって美術の流れを一変させる。しかし、あまりの斬新さゆえに、保守的な教会関係者には受け入れがたいこともあり、現在ルーヴル美術館を飾る《聖母の死》のようにしばしば受け取りを拒絶された。
今ますます評価を高めるカラヴァッジョ
生来気性の荒かったこの画家は様々なトラブルを起こし、ついに喧嘩で人を殺害。お尋ね者になった彼はその後、ナポリやシチリアなど南イタリアを転々とし、4年間の逃亡の末、熱病によって短い生涯を閉じた。この慌ただしい逃亡期に、彼はあちこちに鬼気迫る作品を残した。凶暴な殺人者でありながら、人を感動させる宗教画を描いたことは、カラヴァッジョのパラドックスといえよう。
カラヴァッジョはバロック美術を開拓しただけでなく、その写実主義によって近代美術への扉を大きく開いた。息をのむ見事な写実描写から劇的で静謐な宗教画まで、カラヴァッジョの芸術は現代においてますます評価を高めており、400年を隔てた日本人の心をもとらえてはなさない。
カラヴァッジョの作品は世界中の美術館を飾っているが、代表作はやはり画家の活躍したイタリアに集中しており、とくにローマ、ナポリ、それからイタリアの隣国マルタの教会の祭壇には当初のままの状態で飾られているものがある。かつて私はイタリアにあるカラヴァッジョ作品を場所ごとにめぐる一種のガイドブックとして『カラヴァッジョ巡礼』(新潮社とんぼの本)という本を上梓し、またカラヴァッジョの生涯を作品とともにたどった作品論『カラヴァッジョへの旅』(角川選書)という本も出版した。しかし、いずれの本にもアメリカのカラヴァッジョについてはほとんど触れていない。
『カラヴァッジョ巡礼』 新潮社とんぼの本、2010年
『カラヴァッジョへの旅』 角川選書、2007年
アメリカは20世紀後半以降、現代美術の中心地であり、その財力によって世界中の美術作品を収集してきた。今回、大阪と東京でその名品展が開かれるニューヨークのメトロポリタン美術館(MET)はその中でももっとも規模が大きく、古代エジプトから現代アメリカにいたるまで、世界中の文明と美術の歩みをたどることができる。すべてをじっくり見るのは一日ではとても無理で、最低三日は必要である。できれば一週間は通いたい美術館だ。
私がニューヨークを最初に訪れたのは約30年前、開館前の東京都現代美術館の学芸員をしていたときで、開館後に予定していた「アンディ・ウォーホル展」の担当者としての出張であった。ピッツバーグに建設予定のアンディ・ウォーホル美術館を訪ねて作品の出品交渉と作品選定などした後、ニューヨークでニューヨーク近代美術館(MoMA)やホイットニー美術館のキュレーターに会って協力を仰いだ。その成果もあってこの大規模なウォーホル展は1995年に東京、神戸、福岡で無事に開催された。ウォーホルについての私の研究成果はそのカタログの論文のほか、後に『ウォーホルの芸術』(光文社新書)にまとめている。
メトロポリタン美術館の大いなる底力
この出張の合間にMETを訪れたのだが、その規模と内容に圧倒された。そのころの私はウォーホルや現代美術で頭が一杯であり、MoMAやDIAアートセンターで見たアメリカの現代アートに感動し、もともと研究していたカラヴァッジョやイタリア美術のことなどすっかり忘れていたが、METの巨大な空間と展示は私を一気に西洋のオールドマスターの豊潤な世界に引き戻してくれた。ベラスケス、レンブラント、フェルメールをはじめ、中世の膨大な工芸品、19世紀以降のアメリカ絵画の代表作、新発見の金閣寺障壁画を見せてくれていた日本美術ギャラリーなどをめぐって時のたつのも忘れた。学生時代、私はイタリアに留学してヨーロッパに心酔し、アメリカのことは現代美術以外は軽視していたが、ニューヨークの、そしてアメリカにおける美術の巨大な底力を感じた。
METはとても短期間では見切れないと思ったため、上司に電話して無理を言って自費で滞在日程を数日間延長させてもらい、安ホテルに宿を移し、それからMETに通いつめた。さらに近くのフリック・コレクションも訪れ、フェルメールをはじめとする珠玉の名品をゆったりとした空間で見て心が洗われるようであった。
METのミュージアムショップは非常に広く、とくに美術書が充実していて、日本への船便の輸送も容易となっていた。また、やはりその近くにあるウルザスという美術書専門の古本屋には、イタリア各地の古書店を何軒も回っても入手できないほどの美術書が体系的にそろっており、長時間こもった。まだネットの発達していなかった当時は、どれだけの書物にアクセスできるかが研究の質を左右したのである。当時の私は安月給で、奨学金の返済や古本屋のつけで首が回らなかったが、このとき大金をはたいて買いこんだ膨大な書物がその後の私の美術史研究の基盤となった。現在は称賛すべきことに、METは開催したほとんどの展覧会のカタログをホームページで無料で公開してダウンロードできるようにしている。こうした情報公開においても、アメリカはヨーロッパに先んじている点が多い。
翌年にもアメリカ出張があったが、そのときもニューヨークではMETにたっぷり時間をとって隅々まで鑑賞した。その後、現在にいたるまで何度も訪れては、ニューヨーク郊外にある分館クロイスターズとともにMETを堪能してきた。
METにも今回来日したカラヴァッジョの《音楽家たち》があるのは知っていたが、実はカラヴァッジョの作品の中では、カラヴァッジョらしいものではなく、印象は薄かった。その後、METは1997年になってようやく最晩年の《聖ペテロの否認》を購入し、個人蔵の《リュート弾き》も寄託されて展示されるようになった。
その後METと並び称されるオールドマスターの殿堂ワシントンのナショナル・ギャラリーも訪れたが、ここにはカラヴァッジョは一点も収蔵されていない。
アメリカ全土には8点のカラヴァッジョがあり、ほとんどが20世紀後半に購入されている。METの上述の3点のほか、東海岸のコネチカット州のハートフォードにあるアメリカ最古の美術館ワズワース・アシーニアムの《聖フランチェスコの法悦》、中西部オハイオ州のクリーヴランド美術館にある《聖アンデレの殉教》、同じく中西部ミシガン州のデトロイト美術館にある《マルタとマグダラのマリア》、テキサス州フォートワースにあるキンベル美術館にある《いかさま師》、ミズーリ州のカンザスシティのネルソン・アトキンズ美術館にある《洗礼者ヨハネ》である。
このうち《マルタとマグダラのマリア》は激しい真贋論争の末に真筆と認められた問題作。1989年のデトロイト美術館名品展で東京と京都に来たことがあるが、当時カラヴァッジョは日本では知名度が低く、私が読売新聞に寄稿した記事くらいしか話題に上らなかった。ハートフォードにある《聖フランチェスコの法悦》には、今回来日した《音楽家たち》の左端の少年と同じモデルの天使が登場し、同じ時期の作品であるとわかるが、カラヴァッジョのもっとも早い宗教画である。まだカラヴァッジョの特徴である鋭い明暗の対比はなく、抒情的で穏やかな画面である。
クリーヴランドにある《聖アンデレの殉教》はカラヴァッジョが最晩年ナポリで描いた大作で、スペイン副王のナポリ総督ベナベンテ伯がスペインに持ち帰ったものである。いくつもコピーがあり、それによってカラヴァッジョがスペインに大きな影響を与えたことがわかる。クリーヴランド美術館はこれを1976年に取得した。カンザスシティの《洗礼者ヨハネ》は、カラヴァッジョがローマでパトロンのオッタヴィオ・コスタの注文で描いたもので、月光の下でたたずむ青年の聖人を描いた劇的な画面であり、1952年に購入された。フォートワースの《いかさま師》はカラヴァッジョが最初のパトロン、フランチェスコ・デル・モンテ枢機卿に認められるきっかけとなった初期作品で、長らく行方不明だったが、1987 年に世に出てキンベル美術館の所蔵となった。
以上のように、アメリカにもそれなりにカラヴァッジョ作品があるが、イタリアをはじめ、フランス、ドイツ、イギリスにはより重要なカラヴァッジョ作品があり、カラヴァッジョに関しては美術大国アメリカが見劣りするのは否めない。毎年世界のどこかで開催されるカラヴァッジョの展覧会にはアメリカにあるカラヴァッジョ作品が出品されることが多く、アメリカ以外の場所で目にすることが多い。実は私自身、ニューヨーク以外のアメリカの美術館でカラヴァッジョを見たことがないのだ。(後編に続く)
会期|開催中 – 2022年5月30日(月)
会場|国立新美術館 企画展示室1E
開館時間|10:00 – 18:00 [毎週金・土曜日は20:00まで 入場は閉館の30分前まで]
休館日|火曜日[ただし、5月3日(火・祝)は開館]
お問い合わせ|050-5541-8600 [ハローダイヤル]
■会期等、今後の諸事情により変更される場合があります。展覧会ウェブサイトなどでご確認ください。
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