美術史の豊かな知識を土台にして、当代一の画力を武器にどこにもない絵を生み出す。そんな人気画家、山口晃ガハクは夫婦揃って食いしん坊。日常で、旅で、制作中の日々で、散歩の途中で何を食べてるの? ガハクが日常を描くコミックエッセイ『すゞしろ日記』に「カミさん」として登場するガハク妻による食事帖。 超多忙のガハクを東京に残し、カミさんお独りロンドン出張。でもやっぱり本当はガハクと一緒に行った方が食事も充実しますよね、当然。  

 

絵/山口晃

久しぶりに海外へひとりで行くことになった。
フルタイムの仕事に就いていた頃はひとりでの海外出張も当たり前であったが、それから数年が経過してしまったせいか、やけに緊張する。
行き先はロンドン。都会だし、英語圏だし、行ったこともあるから怖がる必要はないのだけれど、最近は世界情勢も不安定だ。

気もそぞろに羽田空港に着き、セルフサービスのチェックイン機を操作すると「係員のいるカウンターへお越しください」という表示が出る。
指示通りチェックインカウンターに行き対応をお願いしたのだが、係員が機材のキーを叩くたびに警告音が発して、嫌な予感がする。

「申し訳ございません、お客様はご搭乗の手続きができない状態でございます」
そう言われて頭の中が真っ白になるが、ここは正気を保たなければならない。
聞けば、イギリス入国には渡航認証(ETA)が必要で、それがないと航空券の発券もできないのだとか。そんなこと全然知らなかった……。この制度は去年からゆるやかに始まっていたけれど、「昨日から」取得が「必須」になったのだという。
「ど、どうしたらいいんでしょう」
私はすっかり焦ってしまう。この場でETAの申請をしてくださいとのことで、教えてもらったアプリをあたふたとダウンロードする。カウンターの裏のベンチに座らされ、パスポートのスキャンや顔写真の撮影をしたりクレジットカードでの手数料支払いなど、一通りの手続きを終えると、ほぼ即、承認されましたという英文メールが届いた。「取れました!」と地上係員さんに報告すると「早くてよかったですね。10日くらいかかった人もいるんですよ」と返されて、運がよかったと安堵する。後で、英語の説明をよく読むと、「3営業日以内に回答します。それ以上かかる場合もあります」と書いてありぞっとした。
そんなことがあったせいで、旅の勘もすっかり戻り、ひとりでロンドンに行くくらいどうということはないという気持ちになって出国ゲートをくぐった。

本来ならばこの旅は、山口ヒゲ画伯こと夫(以下ガハク)と一緒のはずだった。
というのも、ロンドンの大英博物館で開催されるサムライをテーマにした企画展にて、ガハクの作品が出品されることが決まり、それならばぜひともその展示風景を見ておこうと思ったからだ。本展にはロンドン在住のコレクターさんが所有している作品が貸し出されるとのことだった。
会期は2月から5月まで。3か月はあるけれど、ガハクの予定が一向に読めない。海外に行くとなるとそれなりに費用もかかり、見ただけですぐ帰るのももったいないので3〜4泊はしたいところだ。しかし、ガハクに延ばし延ばしにした締め切りが多々ある中、移動も含めての約1週間の空白は痛い。
「いつなら行けそう?」、「うーん。ちょっと待ってまだ分からない」という問答を繰り返し、「だったら、私ひとりで行こうかな」と冗談めかすと、最初はそんなのは嫌だと答えていたガハクもついに、「あなただけでも行ってきて」と言い始めた。
ガハクの取り扱いギャラリーの担当さんが、2月下旬に大英博物館に行くと聞き、私も急遽それに合わせることにした。現地では作品を貸し出してくれた方とはまた別のコレクターさんとの会食なども予定されているとのことだった。
けれどもガハクを置いて私だけが出かけるには気が引ける、というか心配であった。
「でも、ごはんは大丈夫? 忙しくて用意したり、食べに行く時間もないんじゃないの?」
「子供じゃないし、腹が減ったら何か食べるものくらい自分で按配できますよ」
ガハクは私の気がかりを意に介さないふうだった。もしくは努めてそうふるまっていたのか。かつては私も年に数回出張で長く家を空けていたから、それに比べたら大したことではないかもしれない。

「久々の食日記だね」
私が出張に出る時、お土産はいいから食日記でもつけてきて、とガハクから言われたものだった。
「おいしいものでも食べて、楽しんできてよ」
そうやって送り出されたのだが……。

ロンドンの空港から市内への移動には、ホテルが駅から徒歩3分という立地だからいいかと思い、地下鉄と特急の中間のようなエリザベスラインを初めて利用してみた。しかしながら、街中に近づくにつれ普通の乗客が増え混み合ってきて、ホテルに着くまでに気疲れしてしまい、そのまま夕食もとらずに寝てしまった。(やはり高額でもタクシーに乗るべきだった)

ガハクがいれば、移動や時差ボケでどんなに疲れていても絶対ごはんを食べに出ただろうけど、食日記も早速サボりだ。その代わり翌日は朝食会場がオープンする朝6時半ちょうどにごはんを食べに行く。まだ鍵がかかっていて、ガタガタ扉をゆすっていたら、中のスタッフが慌てて開けにきてくれた。ちょっと恥ずかしい。
部屋の一隅にビュッフェがあり、B&Bではなくホテルだからこちらから料理をとっていけばいいのだと思っていたら、着席時に料金表示のない温かい食事のメニューを手渡された。つまりイングリッシュ・ブレックファスト&ビュッフェという設定か? 途端にわくわくしてくる。
まだ体調も整っていないゆえ、比較的軽そうなスモークサーモンのプレートをメインに選ぶ。黒パンとポーチドエッグが付け合わせになっていて、さらに追加でトマトとマッシュルーム、それからなぜか記載のあったアボカドを添えてもらうことにした。
マッシュルームが巨大なしいたけ状で驚き、トマトが酸っぱいと感じたが、肉厚のスモークサーモンは生臭さもなくフレッシュであり、家では作れないポーチドエッグも黄身がいい具合にとろとろであった。さらにビュッフェからのフルーツが加わり、もう完璧だ。
ただ、「コーヒーが飲みたいな」と深く考えずにコーヒーにホットミルクを頼んだのだが、一口飲んで、これには「しまった」と思う。苦いとも酸味があるともいえない、黒い液体。ミルクをたっぷり足してカフェオレのようにしても修正ができない。ここでは素直に紅茶にすべきだったのだと悟った。
ふと遠くの席でひとり座っている東洋系のマダムが目に入る。背筋を伸ばして、三角トーストを召し上がっている。そうだ、イングリッシュ・ブレックファストといえば、薄くて、カリカリで、どうしてこんなに焦げているのという焼き目のついた、塗ったバターがすぐ溶けない生温かさの三角形のトーストを付けるのが定番だった。次は忘れずにオーダーしなくては。

朝食もゆっくりとれたし、大英博物館のアポイントは明日なので、今日はナショナルギャラリーで存分に絵画鑑賞をしようと計画する。
今晩は日本の皆さんとの会食の約束もあり、それも楽しみだった。名物がヴィーナーシュニッツェルだという、人気のオーストリア料理店を予約してあると聞いた。

時差はあるが、こちらの夕方か朝に日本へ電話をすれば比較的話しやすい。
「SAMURAI展、見てきたよ」
この展覧会のために私はわざわざここに来たわけだから、ガハクへ重要事項として本件を報告をした。
「思っていたよりずっと興味深くて面白い展覧会だったから、見に来てよかった。ガハクの作品(《絵馬圖》 2001年)も久々見たけれど、力があって細部もしっかり描いていた。会場内でも存在感があったと思う」
本展の広報イメージは、赤と黒を基調にした背景に鎧兜が浮かび上がるというインパクトのあるもので、展覧会では一体どのようなサムライ像が提示されてくるのか、またどのような文脈にガハクの作品が組み込まれるのか予測がつかなかった。
会場に足を踏み入れると、暗がりの中、下部にガイドラインのような赤いライトが灯る展示台が置かれ、壁には合戦の様子が影絵となったアニメーションが流れている。ともすればキッチュに振れてしまう展示デザインなのだが、やたら格好よく見えた。やや奇抜な場内にもかかわらず、絵巻や屏風、鎧兜、工芸品など多岐にわたる作品の展示自体が、近さや高さが絶妙に計算されていて、非常に見やすく設計されていたせいなのだろうか。

全体の内容は、戦国時代を経て侍の出現、徳川時代の安泰の時代、廃刀令でその終焉、それから現代の映画やファッション、ゲームに至るまでのサムライの影響、といった流れになっていて、ガハクの作品は最後の現代のパートにて、ファッションや映像関連の作品群の付近に展示されていた。
サムライとは一体なんだったのか、なぜ今でも人々の心をとらえるのかということが、最終的にまとめられていて、サムライの新しい解釈や意味づけを試みているように感じられた。
「戻ったらカタログや写真も見せるね」
「そうでしたか、ご苦労さま、見てきてくれてありがとう」
自作の展示風景を確認することができず、ガハクも残念だったことだろう。
「で、何を食べたの」
私からの本題の話が終わると、話題はゆるやかにごはんに移る。
「大英博物館だけで疲れてしまって、お昼はサンドイッチと飲み物だけ。夜はベトナムフォーを食べに行ってみたよ。若者の間で評判の店みたいでかなり繁盛してたかな」
米粉の麺はグルテンフリー食材ということで注目を浴びているらしい。
「もっとちゃんとしたもの食べなさいよ。せっかく旅をしているんだから」とガハクは言ってくれるが、ひとりでの美術館巡りは思いのほかストッパーが効かず歩き続けてしまい、気がつくと疲労困憊で動けなくなって、食欲も出ないのだ。いつもガハクと美術館に行くと、じっくり作品を鑑賞するガハクとペースが合わなくて疲れると不平を言ってきたが、実はひとりの方がもっと疲れるということが分かった。
私もガハクの食生活が気になるので聞き返す。
「そっちこそ、しっかり食べてる?」
「作っておいてくれたものがあって助かってるよ」

そういえば出発前日の夜に、既成の料理セットの肉と野菜の炒め物、焼きナスなどを冷蔵庫に作りおいていったのだ。忙しいガハクのためでもあるが、日持ちしそうもない野菜類を使い切ってしまいたかった……という理由もあった。
他にも常備してあるブロッコリーやダイコンの酢漬けだとか、冷凍の唐揚げやフライ類を寄せ集めてガハクはなんとか過ごしているようだ。
「今日は何ていうんだっけ、ケールがあったから炒めてみた」
私はケールの調理までは手が回らず冷蔵庫に残したままだったのだが、ガハクはそんな野菜を見つけて料理までしていた。
朝はわが家の定番であるピザトーストも作ってきちんと食べているという。
「まとめて作って冷凍したから楽だよ」
ガハクは食事にはそれなりに気遣って生活している模様で、ほっとする。
むしろ私の食生活の方が貧相だったかもしれない。
いつもお昼はサンドイッチにソフトドリンク。おやつタイムすらなく、一度だけ疲れて甘いものがほしくなり、駅ナカにあった人気店のカラフルなカップケーキを買って帰ったくらい。
だいたい朝食が充実し過ぎで、1日の栄養補給はすべて朝でまかなっていたように思う。産業革命時の労働者の朝食がイングリッシュ・ブレックファストの背景にあるといわれるが、今回の私のロンドン滞在中はまさにその状態だったといえる。朝から卵料理やイギリス独特のパン粉が混ざった重たいソーセージ、厚切りなのにカリッとしたベーコンなどを食べてしまうと、本当に昼も夜も適当でよくなってしまう。
最終日の晩は、一応「らしさ」を体験しておくべく、フィッシュ&チップスにチャレンジした。揚げた白身魚とジャガイモにはおいしくなる要素しかないが、この地で食べるそれは巨大さと量の多さのせいで、食べる度に不完全燃焼状態になる。
ガハクもフィッシュ&チップスに関しては同様の思い出があるそうで、苦笑いしつつ「最初の一口が一番おいしいんだよね」と言っていたし。
分かりきっていたけれど、また同じ結末だった。前半は「温かくてサクサク。拍子木切りのポテトもほくっとしてる」と順調に食べ進め、途中から雲ゆきがあやしくなる。衣を外して中身の魚だけは完食できたのだった。
こうしてガハクへの土産話も完成し、明日はついに帰路に着く。

しかし、明後日の夜(機中泊のため)に私が家に帰っても、ガハクは留守であることがすでに分かっている。
今朝ほど電話で話した時、ガハクが私の到着時間を詳しく聞いてきた。
「飛行機の到着時間はメモに書いてあるから分かるよね? え、家に着くのが何時頃かって? そうね、だいたい……」
私の帰国にあたる日に、ガハクへ突然の会食のお声がけがあったとのことで、奥さまもどうぞとお誘いいただいたそうなのだが、時間的に間に合わなかった。
「私のことはいいから行っておいでよ」
なかなか予約の取れない和食店だと聞き、私も非常に残念に思うが仕方がない。
そうして、長時間フライト後の身体の重みを感じながらカラコロとスーツケースを引き、誰もいない暗い自宅のドアを開けた。
部屋に入るとテーブルの上に、おかえりなさいのメッセージの紙が置かれていた。私が残していった旅程メモの周りに落描きをちょこちょこと加え、さらに別紙に描いた絵も貼り付けて起き上がるような仕掛けまで作ってある。仕事ではなく、思いつくまま好きなように描かれた絵は、肩の力が抜けていて気取りがない。ついでのように「おフロ洗ってある」という小さな紙の切れ端も置いてあり、ピカピカ光る浴槽らしき四角形がラフに描かれていた。

室内を見渡すと、どうやらきれいに掃除がされていて、流しの皿も洗ってあるようだ。
今ごろガハクはごちそうをいただいている頃か、と思いながら私は荷解きを始める。
お風呂を入れる間もなく、ガハクが上機嫌で帰ってきた。
私の長旅の話を聞くより先に、ガハクは会食での料理やしつらえの素晴らしさをとうとうと語り始める。今こそがいちばん感激に浸っている時だから、それもそうだろう。

私がいない間、ガハクは料理もしたりして意外ときちっとごはんを食べていたみたいだね、と話をふったところ、朝起きるのが遅くなったせいでやはり昼を抜いてしまったこともあるという。忙しかっただろうからそれも仕方がないことか。
そして、ガハクが悪いことをした子供のように上目遣いで、もじもじと白状してきた。
「じ、つ、は、あなたが留守の間、ポテチを2回も食べちゃった。ビールと一緒に」
「ええーっ」
急に食べたくなって、スーパーまで買いに出たのだという。1度食べてあまりにおいしかったので、再び買いに行ったとか。
こんなこと、電話で話した時には聞かされなかった。

とはいえ私も、せっかくの異国にいながら昼食はともかく、おやつやお酒を楽しみもせず、夜を適当に過ごしていた。(ただ、滞在先がフランスやイタリアだったら、私も意地でどこかに食べに出ていたかもしれない)
おそらくガハクがいたら、食にはもっと気を遣ったはずだが、ひとりだと億劫になってしまっていた。
そう考えると、ふたりでいる時はお互い自由にふるまっていない、自由になれないということなのだろうか。私たちは一緒にいる時、どこか無理をしているのだろうか。
それとも、その不自由さが重しとなって、こうしてよりよい、まともな状態を保てているということなのか。

■次回「ヒゲのガハクごはん帖」は5月第2水曜日に公開予定です。

●山口晃さんってどんな画家?
1969年東京都生まれ、群馬県桐生市に育つ。96年東京藝術大学大学院美術研究科絵画専攻(油画)修士課程修了。 2013年『ヘンな日本美術史』(祥伝社)で第12回小林秀雄賞受賞。
日本の伝統的絵画の様式を踏まえ、油絵で描く作風が特徴。都市鳥瞰図・合戦図などの絵画のみならず立体、漫画、インスタレーションなど表現方法は多岐にわたる。
主な個展に、2015年「山口晃展 前に下がる下を仰ぐ」(水戸芸術館現代美術ギャラリー、茨城)、18 年「Resonating Surfaces」(大和日英基金ジャパンハウスギャラリー、ロンドン)、23年「ジャム・セッション 石橋財団コレクション×山口晃 ここへきて やむに止まれぬ サンサシオン」(アーティゾン美術館、東京)など国内外展示多数。
2019年 NHK大河ドラマ「いだてん 〜東京オリムピック噺〜」のオープニングタイトルバック画を担当し、22年善光寺(長野)へ《善光寺御開帳遠景圖》を奉納。
25年には漫画雑誌連載作『趣都』(講談社)、本連載の17のエピソードをまとめた単行本『ヒゲのガハクごはん帖』を刊行。
現在ロンドンの大英博物館にて開催中の「SAMURAI」展に《絵馬圖》を出品(5月4日まで)。

山口晃 《絵馬圖》2001年 撮影:木奥惠三 ©︎YAMAGUCHI Akira, Courtesy of Mizuma Art Gallery

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