美術史の豊かな知識を土台にして、当代一の画力を武器にどこにもない絵を生み出す。そんな人気画家、山口晃ガハクは夫婦揃って食いしん坊。日常で、旅で、制作中の日々で、散歩の途中で何を食べてるの? ガハクが日常を描くコミックエッセイ『すゞしろ日記』に「カミさん」として登場するガハク妻による食事帖。 りんご紅茶を知ってますか? これはただ事じゃない(らしいですよ)。
絵/山口晃
りんごは、歯ごたえがあってかじるとシャクッと小気味よい音をたて、甘さだけでなくほのかな酸味を感じられるものが好みだ。
山口ヒゲ画伯こと夫(以下ガハク)もこれに関しては(めずらしく)同意見である。
「あなたはほんと、いい音を出すよね」
私がりんごを食べていると、ガハクがほめるでもからかうでもなく所見を述べる。
顔が丸いせいなのか、よく分からないけれど、私はおせんべいやスナック菓子など、硬めのものを噛むと、パキン、カリッ、と妙によい音が響く。
幼い頃、母方の田舎に遊びにいった時にりんごを食べていたら、総入れ歯だった祖父から同じように「いい音をたてて食べるなぁ」としみじみ言われたことを覚えている。
ひとり暮らしの母をたずねたとある冬の日、私の帰り間際に、「困ったわ、今日は持っていってもらえるものが何もない」と母がぶつぶつ言いながら戸棚や冷蔵庫を物色していた。
うちの母は私が実家に来ると、なにかとお土産を持たせたがる傾向がある。
寒い廊下に置いたままのりんごの入った段ボールをのぞき、「こんな皮のしなびたりんごじゃとてもあげられないし」と嘆きながら、惜しそうに言った。
「まだ食べられることは食べられるのだけど」
母のその言葉に私は直感がはたらく。
先月からあるという残り物のりんごは、表皮はややくたびれているが、持ってみると重量もあるし、そこまで傷んだ様子ではない。
もしかして、これはまさにぴったりな具合かも。母も持て余し気味のようだから、遠慮なくいただいてしまおう。
「これもらっていい? りんご紅茶にするから」
簡単にりんご紅茶の説明をしたけれど、母はあまり興味を示さず、それよりこんなお土産でよいのかということを気にしているようだった。
全部持っていきたいところだが、重たいので3つだけ頂戴することにした。
久々のりんご紅茶、ガハクもきっと喜ぶことだろう。
ずっしりと肩にかかるエコバッグの重さもものともせず、私は夕方の混み始めた電車に乗り込んだ。
ガハクも楽しみにする、りんご紅茶とは。
紅茶を淹れる時、ポットに生のりんごを小さくカットして入れる、それだけのシンプルなもの。オリジナルではなく、どこかで見聞きしたレシピをベースにしている。皮を入れると見た目もきれい、というコメントもあったような。だが、私たちは農薬が心配なので皮の方は入れない。
具体的な紅茶やりんごの種類や量なども忘れたか、元々不明で、こちらも手探りでよりおいしくなる方法を模索している。
始まりは、まだ結婚したての若い頃、どこかからいただいた1箱のりんごだった。(信州産だったかな)
毎日果物を食している現在では考えられないことだが、その当時、1箱もあると食べる暇もないし剥くのが面倒でなかなか消費されなかった。玄関付近にりんごがぎっしり入った段ボール箱が置かれたまま、ああ今日も食べなかったと微かな罪悪感を感じながら日々が過ぎる。今だったらたくさんのりんごを無条件にありがたく思うのに、若いというのは時に怠惰で不遜である。同じ自分とは思えない感覚の違いだ。
そんな時、そういえば……とりんご紅茶のことがふと頭に浮かび、いっぱいりんごがあるから試しにやってみよう、ということになった。
透明なガラスのティーポットに、当時だと多分スーパーで買ったティーバッグ(おそらくダージリン)をセットしてからりんごを入れる。
りんごはどのくらいの大きさに切ってどれだけ入れたらよいかが分からないし、失敗して変なものができるかも、と腰が引け、一等最初は恐る恐るりんご半個分をざく切りにして入れたかと思う。
お湯の熱さによって果物の香りがたちのぼり、新鮮なりんごのエキスだけが紅茶に溶け出すわけで、フルーティなさわやかさが嗅覚と味覚を刺激する。ガハクも私も一口飲んだだけでこれはただ事ではないと感じたのだった。
飲み終えると、ポットの中にゴロゴロとりんごの身の方が残っていて、なんだかもったいない。少々お行儀が悪いが一片食べてみたところ……。
「ちょっと無理かな」
見た目はコンポートのようで、まだ食べられそうなのだが、完全に出がらしになっていた。仕方なく、ほんのり紅茶色が染みたりんごのかけらを捨てた。
それからすっかりこのりんご紅茶が気に入ってしまい、箱の中の3分の1ほどを飲む用にあてた。結局食べる方が多かったのは、りんご紅茶にすると形ある身を廃棄しなければならず、心が痛んだからである。
ただ、何度もりんご紅茶を作る機会ができたので、いろいろと実験ができた。
当初はりんご半個分を入れていたが、多い方がりんご成分が当然多く抽出されるので、丸ごと一個使うと断然味が濃くなった。
りんごはなるべく細かくした方が紅茶に触れる面積が増えておいしくなるかもしれないと考えて、3〜4ミリ厚、長辺2センチくらいに切ってみたこともあったが、それほど効果はなく、掃除の手間が増えただけだった。
ある時、朝に飲みきれないまま放置してしまったところ、夜に帰宅した時には紅茶がほぼ黄色に変わっていた。大丈夫かな、と心配しつつ飲んでみたが、りんごが時間をかけて漬け込まれたゆえ果実味が非常に強くなり、もはや紅茶ではなく、紅茶フレーバーのついたりんごジュースの状態になっていた。
「はちみつみたいな甘さを感じるね」
りんご紅茶のさらなる変貌と進化にびっくりしたものだった。
そんなふうにいろいろと楽しめたりんご紅茶だが、その後さほど登場しなかった。やはり、りんごはそのまま切って食べるのが一番おいしいし、りんご出汁をとった後の身を廃棄してしまうのがどうしても心苦しいからだ。
古くなりりんごの実がスカスカになってしまった時、ここぞとばかりりんご紅茶を作ってみたことがあった。スポンジを連想させるくらいふにゃっとした食感のりんごだから、りんご紅茶にした後は処分することになろうと良心の呵責もない。
しかし、質のよくないりんごで作ったりんご紅茶は、そのりんご同様にぼやけた味の飲み物にしかならず、がっかりすると同時にその正直な反映ぶりにむしろ感心してしまった。
食べてもおいしいりんごでないと、おいしいりんご紅茶も作れない、そうするとよほどの贅沢をしたい時でないとりんご紅茶は口にできないということになる。
……なので、この度実家からもらってきた、まあまあ食べられるけれど微妙に風味が落ちつつあるというりんごは、りんご紅茶に最適なものではないかと思われたのだ。
ガハクにも事前に予告しておく。
「明日からりんご紅茶だよ。何年ぶりかなぁ」
「え、そんな前じゃないでしょ」
「でも年に一度も作ってないはずだよ(りんごがもったいないから)」
「そうだっけ?」
ガハクがよく言うが、1〜2年前と感じた時は3〜4年前のこと、5年前かなと思えば10年くらい前の話なのだ。ふたりの記憶の壁は溶けているが、少なくとも去年は飲んでいないと思う。ガハクの心の中にはまだまだおいしかったりんご紅茶の記憶が鮮やかに残っているから、つい最近も飲んだと感じるのだろうか。
翌朝、早速りんご紅茶を作ってみる。
まずはりんごを切って、味見だ。推測どおり、ちょっとくたびれた感はあるが身はまだ引き締まっていて、食べて食べられないこともない。まさにちょうどよい感じ。
お茶パックにセイロンティー(選んだのではなく家にあったのがこれだった)の茶葉を詰めて、一口大に切ったりんごと共に2人分用のガラス製ポットに入れる。
ポット内がりんごだらけになると、得られるお茶の量が減るのでりんごの量はほどほどに。今回は4分の3個を使用した。
スタンバイしたポットに沸騰した熱々のお湯をざーっと注ぎ入れる。抽出時間それぞれに時分の味があるので、まず15分くらい経過で軽く1杯。また熱湯を足し入れ、あのはちみつ味になるまで数時間置いておく。
りんご紅茶は味もさることながら、透明ポットの中にごろごろと入った生のりんごがいかにも豪勢で気分が高まるし、少しずつ変化していく紅茶の色を観察するのも楽しい。
ガハクが起き出す頃には、(冷めてしまってはいるけれど)より深い味わいになった、淡い黄金色のりんご紅茶が出来上がっていることだろう。
■次回「ヒゲのガハクごはん帖」は3月第2水曜日に公開予定です。
●山口晃さんってどんな画家?
1969年東京都生まれ、群馬県桐生市に育つ。96年東京藝術大学大学院美術研究科絵画専攻(油画)修士課程修了。 2013年『ヘンな日本美術史』(祥伝社)で第12回小林秀雄賞受賞。
日本の伝統的絵画の様式を踏まえ、油絵で描く作風が特徴。都市鳥瞰図・合戦図などの絵画のみならず立体、漫画、インスタレーションなど表現方法は多岐にわたる。
主な個展に、2015年「山口晃展 前に下がる下を仰ぐ」(水戸芸術館現代美術ギャラリー、茨城)、18 年「Resonating Surfaces」(大和日英基金ジャパンハウスギャラリー、ロンドン)、23年「ジャム・セッション 石橋財団コレクション×山口晃 ここへきて やむに止まれぬ サンサシオン」(アーティゾン美術館、東京)など国内外展示多数。
2019年 NHK大河ドラマ「いだてん 〜東京オリムピック噺〜」のオープニングタイトルバック画を担当し、22年善光寺(長野)へ《善光寺御開帳遠景圖》を奉納。
本年、漫画雑誌連載作『趣都』(講談社)、本連載の17のエピソードをまとめた単行本『ヒゲのガハクごはん帖』を刊行。 ロンドンの大英博物館にて開催中の「SAMURAI」展に《絵馬圖》を出品(5月4日まで)。
山口晃 《絵馬圖》2001年 撮影:木奥惠三 ©︎YAMAGUCHI Akira, Courtesy of Mizuma Art Gallery
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