美術史の豊かな知識を土台にして、当代一の画力を武器にどこにもない絵を生み出す。そんな人気画家、山口晃ガハクは夫婦揃って食いしん坊。日常で、旅で、制作中の日々で、散歩の途中で何を食べてるの? ガハクが日常を描くコミックエッセイ『すゞしろ日記』に「カミさん」として登場するガハク妻による食事帖。 食べものは目で認識し、鼻で確認し、舌で賞味するもの。この流れ、大事ですね。
絵/山口晃
どうにも遅くなりがちな私たちの夕食の開始。夜9時をだいぶまわった頃、コトン、コトンと急いでお皿を食卓に置いていく。
「はい、お疲れさま。今日もありがとうございます」
山口ヒゲ画伯こと夫(以下ガハク)が私に感謝の言葉を述べて杯を上げる。コンと音をたててその日のお酒の入った器を軽く合わせると、まず一口。そしておもむろにふたりして合掌する。
「いただきます」
夕食はガハクにとって日々のメインイベントなので、毎度こんなふうにうやうやしくスタートするけれど、常にごちそうが並ぶわけでもなく、栄養重視で盛り付けに凝ってもいない。
「あ、何これ?」
ひょいと取ったおかずを一口食べ、ガハクが意外そうに目を見開く。
大皿にあるのは薄切りの豚肉と白菜を蒸し焼きにした名のない料理。
くたくたになった白菜は緑部分の色が抜け、肉汁にぐじゃっとひたって黄みをおび、豚肉に同化して全体に地味な茶色いトーンだ。
ところどころ見えかくれする肉も、焦げ目もなくシャープさに欠け、やる気なさげで「おいしいよ」というアピールがない。
この料理の外見は一言でいうと「ふやけた野菜に埋もれた肉」で、さほど食欲をそそるものではない。
「いや、この色からは想像もつかなかったけど、味付けは一体どうしたの?」
「塩だけだよ」
「はあー!」
うちには塩が数種類あって、たぶんそのおかげで努力しなくてもおいしさが底上げされているのだと思う。なんとなくの感覚で使い分けているが、今回使ったのは何だったか、ピンク岩塩だっただろうか。
ただ、豚肉と白菜、といえば、元々が失敗の起こらない組み合わせでもある。
今回の調理過程は、フライパンにオリーブ油を引いて、白菜を並べ、その上に豚肉を載せ、それを繰り返してミルフィーユ状にして(お酒をかけておけばなおよさそう)塩を振り(本当ならば肉一枚ずつになじませるべきかも)、蓋をして中火にかけたら放置、であった。ものすごく簡単だ。
薄くやわらかな豚肉にとろとろに煮くずれた白菜が絡み、肉から出るうまみのすべてが白菜に染み込む。相乗効果で何もしなくても実に風味豊かになるのだった。
作った方は経緯が分かっているから、仕上がり状態がどうであれ、おおよその味の予測はつく。けれど、何がどうなってこうなったか、知らずに食べるガハクの方は多少臆するところがあるかもしれない。
時には調理した私も、「これって一体どんな味なのかな」と予想できないものも出来上がる。味見はほぼしないので、出たとこ勝負の運任せによる産物だ。
少し前、長らく置いていたカリフラワーの酢漬けを使い切ってしまうための献立を考えることがあった。
そのまま出してマヨネーズでもかけておく、というのが一番手間はないが、晩に出すにはもうひとひねりしたいところだ。
では、彩りににんじんを使ってみようか。1センチほどの切れ端を千切りにして、カリフラワーと炒め、ニンニクを加えて塩コショウを振ればそれなりの体をなす。
が、にんじんのオレンジ色は思いのほか映えず、金時人参を使用した紅白なますのような調和がないし、ニンニクの焦げは香ばしさを喚起させるというよりは、白の中では黒い汚れのように見えてくる。
中途半端に白っぽいかたまりが盛られた皿は、「食べたい!」と手をのばす気持ちに微妙になれない出来上がりだった。
食事が始まり、責任をとってまずは自らが箸をつけてみる。
おや、存外いける。酢漬けだったカリフラワーの酸味に助けられ、にんにくが小気味よく効いている。これならば自信を持って並べておける。
すましてそのまま食事を続けていると、この品についてガハクから賞賛をいただいた。
「老舗の洋食店のつけ合わせとかに出てきそう。すごく複雑な味わい」
偶然がうまく味方についた一例だ。
ガハクから、見た目に反しておいしいと定評をいただいている私の料理。かつては見た目通りにおいしくない、灰色をしたビーフストロガノフやくたっとした小松菜のおひたし、ありえないパクチーの味噌汁などが作られたが、現在はもうほとんどそのようなものは現れず、ガハクも自分もがっかりすることがなく平穏に日々のごはんを食べている。
しかし食べ物に関しては、やはり目で味を想像するということは多々あるものだ。
その通りであったり、予想を裏切られたり。
ガハクは以前仕事で四国に行った際、案内の方から「名物なので話のタネにぜひ」、と見た目はねぎやかまぼこの載った普通のうどんなのに、汁が砂糖のように甘いうどんを食して驚愕したことがあるという。目から入る情報ではしょっぱいうどんそのものなのに、舌先ではお菓子のように甘くて、最後まで脳の調整がつかなかったという。
さて、見た目と味とに多大なる乖離があったという体験で、ガハクにも私にもこれまででいちばんの驚きで、またこれ以上のことはなかろうと思われるのは、パリのクリスマスでの出来事だろう。
今から10年以上前、2013年の12月、その頃は23日が祝日だったこともあり、代休を3日ほどあてて早めの冬休み入りを強行したことがある。
当時、私の気持ちもまだ本当に若かったと思わざるを得ないのだが、「パリでクリスマスを過ごす!」などという頓狂なことを計画したのだった。
今考えるとわざわざ人混みに出かけることを好まない、年末年始を重視するガハクがよくもまあ承諾してくれたものだ。それだけ有無を言わせない熱意が私にあったのだろう。
手帳を見返すと、22日に出国して、ランスとパリの2都市に滞在して28日に帰国とある。その後忘年会にも行って、おせちの買い出しもして、無事大晦日を迎えている。このスケジュールを見ているだけで、頭がくらくらして倒れそうになる。
今はこんなことはもうできないし、そんな発想自体湧いてこない。年末は大そうじとおせちの準備だけでいっぱいいっぱいだ。
そう思うと、できる時に、やろうと思いついた時に、なんでも行動に移しておくべきだとつくづく感じるのだった。
さて、パリのクリスマス。
日が落ちるのが早いその時期、サン・ジェルマン・デ・プレの辺りにこじんまりしたクリスマスマーケットの屋台が開いて明かりが灯る様子はいかにもで、わくわくして近寄るが、売っているのはごく普通のアクセサリーなどで買い物心はさして動かない。
シャンゼリゼ通りの並木道はわりあいと落ち着いているし、イルミネーションは東京の方が頑張っているという印象だった。
普段から魅力にあふれるパリの街は、クリスマスだからといって特別に変貌しない、する必要がないのかな、と感じられた。
興味深かったのは教会に展示されたキリスト降誕の模型だった。家畜小屋らしき場面にイエスの父母と東方の三博士などの人形が設置されているのだが、肝心のゆりかごの中は空だ。特別な存在は姿を見せないとかいう理屈か、連れ去られてしまったのか、非常に謎に思ったけれど・・・ 25日になり、ちゃんとかごの中に赤ちゃんの人形が置かれていたのを確認して安堵した。
ガハクと街歩きをしたのはこの程度。忙しかったらしく、短い滞在ながらガハクは部屋にこもって仕事をしていることが多かった。だからガハクにはパリのクリスマスの風景の記憶があまりないようだ。
クリスマスは現地でかなり重要な祝日とはいえ、観光地なので店も日本のお正月よりは比較的開いているから困ることはさほどなかったが、皆が押し寄せるだろうクリスマスのディナーの混雑を避けるため、24日の夕食はあえて中華に設定した。
前日まではランスのオーベルジュに2泊しており、初日はアラカルトで一皿にとどめたが、2日目は品数の多いフルコースのディナーをしっかり食べたばかり。胃も休まるしこのくらいがちょうどよい。
それに、先ほどクリスマスだということでホテルからギフトを頂戴したのだ。長さ15センチほどの長方形の箱で、そっと開けてみるとカットされていないパウンド型のケーキ状のものが入っている。
表面がマットなココア色のパウダーで一面おおわれており、チョコレートムースのようだった。箱に店名などの記載はないがしっとりと上品な趣で、ガハクも私も絶対おいしいに決まっていると確信し、大いにうかれた気分になる。
今晩は日本人経営の中華料理店でギョウザや麺などを軽く食べてから、ホテルの部屋でゆっくりデザートにしよう。ガハクも私もこの完璧な計画の実行が楽しみになる。
定番のブッシュ・ド・ノエルといかずとも、このチョコレートムースで締めくくれば満足なクリスマスディナーになるだろう。
本日のすべての照準はここに集結したといってもいい。
中華の夕飯を食べ終え、部屋に戻るとずっと心待ちにしていたデザートタイムだ。セーブしていたから胃袋には十分に余裕がある。「だって、ケーキが丸ごとだからね」と、ガハクも私も口には出さずとも、そう思って万全の備えをしていた。
部屋に備えつけのポットで湯を沸かしてコーヒーを淹れ、小皿を並べてスタンバイ。
いざ、器用なガハクがすーっとナイフを入れる。
「わあ、すごい」
明るいチョコレート色のもったりとした切り口が現れ、想像していた通りチョコレートムースだった。色からしてダークチョコレートではなくて、ミルク系の甘いタイプかと思われた。
ひとまず3センチくらいに切り分けて銘々の皿に載せる。
さあ、いよいよ食べてみよう、とガハクと私はほとんど同時にケーキを口に入れた。
そして同時に複雑な表情になった。ものすごく変な味がする。
なめらかな舌ざわりは確かにチョコレートムースのそれなのだが、甘みがなく生臭さを感じる。傷んだチョコレートは食べたことがないので分からないが、そういうレベルではなくまったく別の世界の、想像を超えた味。けれども、この味からは腐敗しているというような危険なサインはなく、とらえ方を変えればおいしいといえなくもない。
「これ……フォア、グ、ラ?」
フォアグラのムースだった。
こんな高級なギフトをいただけて本来ならば喜ぶべきところだったのに、すでにしょっぱいものを食べてきて、最後に甘いもので締めようと期待していたため、ふたりとも全然うれしくなくて相当気落ちしてソファに突っ伏したものの、でもこのばかばかしい状況がおかしくて声を出して笑った。
「えー、絶対チョコレートムースでしょ、これは」
「言ってよ、先に」
「だまされた、完全にだまされた」
「ちょっともう素直にフォアグラとして味わえない。どうしてもチョコレートムースに見える」
わいわい言いながら、ケーキとしてフォアグラのムースを食べ終えたのだった。
……というこのチョコレートムースのエピソードは、クリスマス時期が来ればいつも、また見た目と異なる味の食べ物に遭遇した時などに、都度都度よみがえってくるのだった。
12月になり、またこの思い出話が出たのを機にガハクが語り始める。
「味っていうのはさ・・・」
その概要は下記の通り。(ガハクの言葉どおりではないけれど)
このチョコレートムースの一件は、味というものは目と経験則によって作られているということがよく分かる事例だ。
味だけに限らず、人間の感覚とは、目と経験則に多くを頼っているといえる。
例えば、故障して動かないエスカレーターを上る時、単なる階段のように感じられず、余計な労力を使って上りにくい感覚に陥るだろう。だが、エスカレーターの存在を知らず、体験したことのない人がいたとしたら、おそらく事前に持った情報や記憶に惑わされることなく、普通の階段として難なく上って行けるのだと思う。
あの「斜めの部屋」(自作インスタレーション、《汝、経験に依りて過(あやま)つ》2023年、アーティゾン美術館)もその類いに入る。床が斜めになっただけで、目からの情報と自分の経験したことに依る予測は簡単に覆されて、人はまっすぐ立っていられなくなってしまうのだから……。
またしばらくガハクの話は止まらなく広がっていきそうで、私は静かに聞くことにする。
■今年もご愛読くださりありがとうございました。
次回「ヒゲのガハクごはん帖」は2026年1月第2水曜日に公開予定です。
本連載の17のエピソードをまとめた単行本、『ヒゲのガハクごはん帖』もおかげさまで好評発売中。
●山口晃さんってどんな画家?
1969年東京都生まれ、群馬県桐生市に育つ。96年東京藝術大学大学院美術研究科絵画専攻(油画)修士課程修了。 2013年『ヘンな日本美術史』(祥伝社)で第12回小林秀雄賞受賞。
日本の伝統的絵画の様式を踏まえ、油絵で描く作風が特徴。都市鳥瞰図・合戦図などの絵画のみならず立体、漫画、インスタレーションなど表現方法は多岐にわたる。
主な個展に、2015年「山口晃展 前に下がる下を仰ぐ」(水戸芸術館現代美術ギャラリー、茨城)、18 年「Resonating Surfaces」(大和日英基金ジャパンハウスギャラリー、ロンドン)、23年「ジャム・セッション 石橋財団コレクション×山口晃 ここへきて やむに止まれぬ サンサシオン」(アーティゾン美術館、東京)など国内外展示多数。
2019年 NHK大河ドラマ「いだてん 〜東京オリムピック噺〜」のオープニングタイトルバック画を担当し、22年善光寺(長野)へ《善光寺御開帳遠景圖》を奉納。
本年、漫画雑誌連載作『趣都』(講談社)を刊行。
まもなく、山梨県立美術館 コレクション展B「1980年代以降の日本画」にて《冨士北麓参詣曼荼羅》を展示。会期は2025年12月16日〜2026年3月8日。
https://www.fujisan-whc.jp/event/art2025.html
山口晃 《冨士北麓参詣曼荼羅》 2016年 山梨県立富士山世界遺産センター蔵 ©︎YAMAGUCHI Akira, Courtesy of Mizuma Art Gallery
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