現代アートが未開拓の表現を追求し、社会の様々な問題を提起する姿勢に共感したマネックスグループ株式会社は、2008年より新進気鋭の現代アーティストを支援するプログラム「ART IN THE OFFICE」を継続して実施している。今年度は、86点の応募作品案の中から、鬼原美希氏が選出され、例年通り会社オフィスにて創作が行われた。その最終段階が社員参加型のワークショップ形式で仕上げられた会場となった本社オフィスを訪ねた。なお、長年にわたりこの「ART IN THE OFFICE」を継続し、作品制作・展示プログラムおよびビジネス人材とアーティスト等との有機的な交流の機会を提供、現代アートの振興に多大なる貢献をしたとして、マネックスグループは今年度の文化庁長官表彰を受賞とのこと。![]()
猛暑の中、アートが生まれるオフィスへ
7月初旬の東京・赤坂。高層ビルの中にあるマネックスグループのエントランス奥、ガラス張りの円形会議室を訪れた。
普段は来客との重要な打ち合わせや取材に使われる空間だが、この日は様相が一変。大きな円卓いっぱいに、色とりどりの魚網やロープ、テント地や古布といった廃材が広げられ、湾曲した壁面を色彩豊かで圧倒的な存在感を放つアート作品が覆っていた。
そこで行われていたのは、マネックスグループが2008年から継続して取り組んでいるプログラム「ART IN THE OFFICE」のワークショップだ。このプログラムでは、選出されたアーティストが、オフィスの会議室で作品を制作し、一定期間展示する。今回選ばれたのは、綴れ織作家の鬼原美希。鬼原は今回、全国各地の知人やこれまで関わりのあった人々を総動員して集めた素材を用い、オフィスの壁をそのまま「織り機」として見立てて作品を制作していた。
鬼原美希 〜「祈り」を織り込む仕事
今回、鬼原が手がけた作品は「福来旗(ふらいき)」をテーマにしている。これは主に南三陸地方などで使われる大漁旗を意味する言葉で、漁船が豊漁を知らせる際に掲げる旗、縁起物だ。
鬼原 この作品は、マネックスグループという船の「福来旗」です。社員の皆さんの船出を見守り、「いってらっしゃい」と声をかけ、また無事の帰還を祈り、「おかえりなさい」と迎える旗。マネックスグループは金融の専門家集団ですが、『縁起』や『ラッキー』を味方につける仕事をしているとも思う。だからこそ、会社の「玄関」にあたるこの場所にこそ、福来旗を自分の想いを込めて創り上げようと考えました
綴れ織は、古来よりタペストリーなどに用いられてきた技法で、一本一本の糸を織り込みながら複雑で力強い模様を生み出すものだ。鬼原はこの伝統的な技術を現代的に再解釈し、社会的なテーマや個人的な祈りを織り込んだ作品を発表してきた。しかし、今回のプログラムは鬼原にとっても前例のない試みだった。通常の制作環境であれば織機を使い、平面上の作品を時間をかけて織り、仕上げていく。しかしオフィスでは織機を設置することができず、さらに制作場所となる会議室は円形で壁が湾曲している。しかも制作期間はわずか6日間。
鬼原は自問を繰り返したという。
鬼原 オフィスという制約の中で創作する意味は何か、何度も考えました。そして決めたんです。作品は社員の皆さんの近くで一緒に存在するもので、皆さんの日々の頑張りを見つめ、無事と成功を祈るものであるべきだと。私の『祈り』を最大限に織り込むことにしたんです
結果、たどり着いた答えは「作品は社員と共にあるもの」だということ。そして「社員自身が参加して祈りを織り込む」プロセスを制作に取り入れた。
会議室の湾曲した壁に経糸を一定間隔でピンと張り巡らせ、壁をそのまま織り機としてしまう大胆な作戦も、鬼原のアイデアだ。また、このプログラムの要件である「社員とのワークショップ実践」についても、社員が実際に素材を選び、自ら手を動かして作品を完成させる形式にすることを提案したのだ。「ART IN THE OFFICE」は、アーティストがオフィスで作品制作を行い、その間、社員が日常の業務の合間にアーティストと交流し、多様な価値観に触れる機会を提供してきたが、作品そのものの制作に社員が直接手を加えるのは初めてだという。
鬼原 社員の方々はこの先、仕事の中できっとさまざまな困難や課題に直面するのでしょう。そうしたらこの会議室で一緒に手を動かした瞬間を思い出してほしい。素材を選び、迷いながら自分の感じた通りに織り込んだ体験は、必ず心の支えになるはずです。この作品は皆さんを見守る存在でありつつ、祈りの証としてここに残ります
私が全身を使ってゼロから作品を織り上げる姿を見ていただくことで、皆さんにとってこの作品がアートではなく、共有した時間そのものが織り込まれた “エネルギーが共鳴する場” となって欲しかったのです
そう語る鬼原の姿は、アートを通じて「社員同士、そして社員と企業を結びつける媒介者」としての役割を担う覚悟を感じさせた。社員が実際に創作に参加してこそ、作品は完成する。そのプロセス自体が学びの機会であり、社員にとって日常業務とは異なる感性の深掘りと自己表現と協働の体験になる。
鬼原 せっかくの機会です。ライブでしか得られない体験を提供したい。壁の経糸は、会社組織のしきたりや組織内の摩擦を象徴しています。その間を縫いながら異なる素材を織り込むことで、身体感覚として「組織のあり方」を意識してもらえると思って
鬼原美希(きはらみき) 2012年多摩美術大学大学院修士課程テキスタイルデザイン研究領域修了。日常生活で感じたことをはじめ、世界中を旅し体感してきた、各国での染織文化や織素材の多様性、現地に住まう人々や動物のあり方、そこで経験した出来事をもとに、様々な素材を使ってタペストリーを織っている。綴れ織る行為を「 体験したことを記憶に刻み込むこと」「人と人との関わり」「作品に込める祈り」として捉え活動を続ける。
ライヴでともに紡ぐ「福来旗」~「縁」と込められた「祈り」
今回の作品のモチーフとなった「福来旗」は、漁業の文化に根ざす縁起物。大漁を祈り、航海の安全を願う旗は、船の出港を見守るシンボルとして古くから用いられてきた。鬼原は、マネックスグループという企業を「船」に見立て、社員一人ひとりを乗組員として捉えた。
エントランス脇の会議室に作品を掲げることは、まさに「船出」と「帰港」の象徴だ。社員が外へ出て新たな挑戦に臨み、再び戻ってくる。その循環を支える旗が「福来旗」であり、祈りとエールを込めた存在として位置づけられている。作品の中央には二つの大きな「目」が織り込まれている。社員の日々の努力を見守る存在であることを示す象徴的なモチーフだ。
用意された素材にも想いが込められている。テーブルに並んだ魚網やロープ、廃棄される予定だった大漁旗などの古布といった廃材は、鬼原が知人のつてをたどり全国の漁港関係者などの協力を得て集めたものだ。海と船にまつわる素材は、航海の象徴であると同時に、彼女の創作人生に関わったすべての人々の「縁」を反映している。さらに社員からは、かつて日経平均株価が3万円を超えた記念に製作されたTシャツが提供され、その布地も作品の一部に織り込まれた。つまりこの作品は、単なるアーティスト個人の表現を超え、鬼原自身の歩みと縁の網目、社員の参加、そして企業の歴史を織り込んだ「集合知」として成立している。
ワークショップで社員が織り込んだのは、作品中央の「福来旗のおでこ」にあたる部分。おでこ、すなわちアイデアが出てくる場所を社員自身の手で形づくる。この鬼原のアイデアにも、未来を生み出す力は社員一人ひとりに秘められているという鬼原の想いが込められている。
社員は自分で選んだ素材を手に取り(なぜその素材を選んだのか、それぞれに聞いてみたいところだが)、隣の同僚と言葉を交わしながら壁の作品に自ら織り込んでいく光景は、まさに参加者全体が一つの「作品」として動いているかのようだ。鬼原は、社員と会話を交わしながら巧みに場を盛り上げ、迷いや素材の疑問に対しても「いろいろあるよねー」とハリのある声で受け止めつつ前向きな方向へ導く。それに社員たちも笑顔で応じる。壁に織り込まれる一つひとつの素材には、鬼原の祈りと社員の思いが交錯し、会社全体がひとつの作品として立ち上がっていく。
「何を織り込むか迷いますね。でも、その迷いが楽しいです」と語るのはコーポレートコミュニケーション室長の加藤明子。このプログラムでは毎年異なるアート作品が展示されてきたが、社員自身が作品そのものに手を加えることができる体験は初めてとのことで、期待とワクワク感を隠せない様子だ。
他の社員も「自分が選んだ素材が、目の前の壁に形になっていく。作品の完成を待って楽しむだけでなく、創りだす過程に自分が参加できるのは新鮮」、「織り込ませてもらうことで、この大きな作品が自分ごととしてすんなり自分の中に入ってくる」、「一から自分だけで創作するのはとてもハードルが高いけれど、こういう体験は本当に嬉しい。会社に感謝したくなる」と口々に言う。それぞれ素材を選びながら「素材を重ね合わせる作業は、対話を重ねることと似ている」「共同で作り上げる過程を体験できることで、作品は鑑賞物ではなく、自分のものとして感じられる」と続ける。
素材を手に取る一つひとつの動作には、個々の思いが込められる。「組織のしきたりや日常の摩擦を象徴する」と鬼原が表現する壁の経糸の間を縫うように、社員は選んだ素材を組み合わせる。鬼原の意図した「体験としての創作」が、確かに社員の意識の深層に響いているようだ。
「自分の手で会社の一部を作っている感覚があります。これが日常の仕事の空間に持ち帰ることができる(オフィスに存在する)のは貴重ですね」と語るのは、システム管理部マネージャーの山崎貴弘。この場が単なる作品制作体験に留まらず、社員一人ひとりに「自分が会社の文化の一部を形作っているのだ」という実感を与えているようだ。社員が共同で織り上げた体験は、この場に参加できなかった社員も含め、社内コミュニケーションのきっかけや、組織の一体感醸成にもつながるとのこと。ライブ創作となったワークショップの会場では、社員の表情は真剣でありながら、笑顔も絶えない。
ひと通り社員参加での織り込みを終え静かになった会議室に、マネックスグループの松本大会長が外出先から戻り立ち寄った。鬼原がリードして松本会長も素材を選び、作品に織り込むと、「私も作品の一部になれた気がするね」と微笑んだ。
素材を織り込むマネックスグループ松本会長
「ART IN THE OFFICE」 が生み出す企業文化
マネックスグループが「ART IN THE OFFICE」をスタートしたのは2008年。単に「オフィスにアート作品を飾る」ことを主眼としたのではないそうだ。アートを通じて組織に新しい風を吹き込み、社員の思考を揺さぶり、コミュニケーションを促すことを狙いとしている。18年にわたり、このプログラムは毎年異なるアーティストを招聘し続けている。エントランスには毎年異なる表情の作品が展示され、社員や来訪者に強い印象を残してきた。今では「企業文化の象徴」として機能している点は特筆すべきだ。
そして今年選出された鬼原とのワークショップは、また新たな価値を生み出すものとなった。長年このプロジェクトを担当してきた社長室の徳永佳愛は、「これまでのプロジェクトにおけるアーティストとのワークショップでは、社員がアーティストの技法や思考に触れることが中心でした。今回は、社員自身が作品の一部を直接作るという初めての試みでした。この参加体験を通じて、完成する作品を『自分ごと』として捉えられる点に、会社にとって大きな意味があると考えています」と話す。
「ART IN THE OFFICE」は、マネックスグループにとって経済合理性だけでは測れない価値を創出している。多様な感性が出会い、異なる意見を尊重する土壌を育むことは、「いま」を相手にする金融ビジネスにおいても不可欠である。グループが目指しているクリエイティブマインド、ダイバーシティの実践が、実はこのプログラムで社員の間で実感できているともいえる。アートを媒介としたコミュニケーションは、企業文化の成熟を促し、組織のしなやかさを高めるための実践にもなり得るという好例だ。
ワークショップに参加された皆さん
「気づき」と「共創」につながるオフィスのアート
ワークショップから3ヶ月後、オフィスを再訪してみた。
社長室の出本篤は、この作品の前を通るたびに「こんにちは!元気?」と挨拶されている気分になると、笑いながら話す。「毎年変わる展示作品に接して、社員も社外からの来訪者もそれぞれの感想をもち何かを発見をしています。そこで自然とコミュニケーションが生まれています。アートを媒介にして互いの価値観や感性を知ることは、業務においても重要だと思います」と語る。
コーポレートコミュニケーション室長の加藤も、「エントランスを通るたびに元気をもらえます。華やかな作品を見て、ハッと我に返ったり、何かにぶつかって困っている時でもエネルギーをもらえて、ポジティブな気持ちになれたりするのがいいですね」と笑顔で話していた。
社員の中には、完成した作品の写真をウェブ会議の背景画面に使う人もいるという。リモート会議の相手とも自然に会話のきっかけを生み出し、コミュニケーションを活性化させる効果があるという。毎年新しい作品が展示されるオフィスで仕事をしていると、社員は「クリエイティブな会社で働いている」という実感を持つことができるそうだ。
会社のアート部の部長を兼ねるシステム管理部マネージャーの山崎は、「アートに触れる環境は、自分たちとはまったく違う思考回路に気づくことができ、社員に創造性や自由な発想を促します。そして異なる作品に毎年出会うことで常に新しい刺激を受けられる。これはビジネスにおける発想力や柔軟性にもつながるのです」と言う。
オフィスにおけるアートは、単なる装飾物に収まらない。社員の思考や感性を揺さぶり、社員の日常や企業文化そのものにも影響を与え、変化をもたらすものになり得る。鬼原が作品に込めた「祈り」や「見守る目」は、しっかりと企業文化の中に息づいている。色彩豊かな「福来旗」は、オフィスの中でその存在意義を確実なものにしているようだ。
※※※「ART IN THE OFFICE」とは
マネックスグループ株式会社が、NPO法人アーツイニシアティヴトウキョウ[AIT/エイト]の協力を得て、2008年から実施しているプログラムである。現代アート分野で活動する新進アーティストを対象に、マネックスグループ本社オフィスプレスルーム壁面に制作する平面作品案を一般公募し、受賞者の作品を約一年間、プレスルームに展示する。受賞アーティストは一定期間、マネックスグループ本社オフィスに滞在し、社員との交流を通じて、作品の制作を行う。オフィス空間での作品制作体験が、アーティストの知性・感性を刺激し、マネックスにインスパイアされた作品の創造を促すと同時に、社員にとっても作品完成までのアーティストの試行錯誤の過程に常に触れ、多様な表現を知ることにより、様々な価値観や考え方を認め合う大切さを理解することにつながる。
受賞作品はマネックスグループの株主・投資家向け統合報告書の表紙に作品画像が採用されるほか、プレスルームを利用した取材を通して、様々なメディアへ掲出される。
公益財団法人日本デザイン振興会(JDP)「2012年度グッドデザイン賞」(Gマーク)を受賞。
公式サイトはこちら
2025受賞作品:鬼原美希《福来旗(フライキ)》
コメントを入力してください