美術史の豊かな知識を土台にして、当代一の画力を武器にどこにもない絵を生み出す。そんな人気画家、山口晃ガハクは夫婦揃って食いしん坊。日常で、旅で、制作中の日々で、散歩の途中で何を食べてるの? ガハクが日常を描くコミックエッセイ『すゞしろ日記』に「カミさん」として登場するガハク妻による食事帖。 ガハクが健康のために食生活で気をつけてること、いくつかあるみたい。たとえば、食後のヨーグルト、クコの実のせ。これはカミさんのためでした。  

 

絵/山口晃

午後5時をまわると陽がかげり始め、6時には暗くなり「まだこんな時間なのに」とかすかに驚く時期がくると、暑さはすっかり弱って消え入りそうになっている。
頭を締め付けていた重しが外れて、ようやく思考回路も働き始めた秋の始まりのとある晩、山口ヒゲ画伯こと夫(以下ガハク)の声が台所から高らかにひびく。
「クコの実、終了〜っ!」

それを聞くと、いつしか定番になったこの宣言を毎度おかしく感じるとともに、面倒くさがりの私はまた補充作業か、と少しだけ煩わしく思う。
クコの実の下ごしらえは、そんなに大袈裟にとらえる必要は全然なく、非常に簡単なもの。乾燥した実を水やお酒に浸しておけばいいだけのことだ。
実を戻す時はタッパーでなく、仔犬の描かれた直径5センチほどでころんと丸っこいフォルムのおちょこを利用している。少量ずつ作り置くのにちょうどよい大きさなのだ。赤、青のペアで揃った実家からの貰い物で、交互に順番を回している。
自然食品店で入手したクコの実を器の3分の1くらいまでざざっと入れ、水かお酒をひたひた程度に注いだあとはラップで蓋をして冷蔵庫に入れておく。
しわしわに縮んだクコの実は、半日くらい経つと水分を含みふっくらし、赤い色もより鮮やかになる。こんな変化を観察するだけで、小さなものを育成したかのような達成感がある。

当初は手近にあった梅酒にクコの実を漬けており、ほんのり風味も移ってよい感じであった。それを使い切ってしまった時、どうしようか思案していたところ「あれだ!」とひらめく。
ずっともてあましていた桃のリキュールの出番がついに来た。
このリキュールで戻せばクコの実にフルーティーさが加わり、アルコール分が沁み込み大人の味に仕上がるだろうと期待した。

さて、このクコの実、何に使用しているかというと、以前も書いたことがあるけれど、夕食後のデザートとしてほうじ茶と共に出すヨーグルトにトッピングするのだ。
デザート、というよりは健康を考慮しての補助食品的な意味合いが強い。
ガハクが、カルシウムは夜に摂取するのがいい、という情報をどこかで見聞きしたそうで、ヨーグルトにてそれを補おうという考えである。
私は「そんなに簡単にカルシウムが補充できるのだろうか」と半信半疑であるものの、検索するとこの説は多々出てくるので、そういうものかと受け止めている。

ヨーグルトはガハクと私の生活の中で割と身近な食品であったと思う。
かつて市販のプレーンヨーグルトに顆粒の砂糖が添付されていた頃、台所の引き出しにその砂糖袋を大量に保管していた。私たちはヨーグルトにジャムかハチミツをかけて食べていたので、使いそびれて余っていたのだ。

どのくらいの頻度で食べていたのか、ガハクも私もまったく思い出せない。本当に、日常の些細なことは記憶に残らない。
いつの間にか市販品に砂糖袋が付かなくなり、あれだけたくさんあった顆粒砂糖の小袋も何年もかけて料理に使われていくうち、今は家に1袋もなくなっていた。
調べてみると2008年頃からプレーンヨーグルトに砂糖添付をしない傾向が現れ、2014年にはすっかりそれが主流になったようである。
当時を振り返り、あの白くすぐ溶けるかすかな甘さの砂糖の存在を知っている私たちは古い世代といえるのか、それともこの動向は最近の出来事としていいのか、時の流れの速さをどうとらえたものか、とまどいを覚える。

夕食後のヨーグルトが現在のように毎日の習慣と化したのはここ数年のことで、端的に言うと私の骨折がきっかけだった。
骨折といっても大袈裟なものではなく、タクシーを拾おうと振り向きざまに靴の踵が道路の側溝にはまり、足首を捻ってくるぶしにヒビが入ってしまったのだ。その程度でも体重のかかる箇所につき1か月間ギプスと松葉杖の不自由を強いられた。
「これからは晩にヨーグルトを食べよう」
こんなガハクの提案があり、それで治癒が早まるのか、今後の予防につながるのか、私はその効果を懐疑しつつも、とてもありがたく受け入れた。

「同じ銘柄ばかりにするのは避けるようにしないとね」
ガハクから注文がつく。
ヨーグルトは製品によって入っている菌の種類が違うそうで、偏った菌の摂取を避けて多様な効果を得るため4〜5種をローテーションすることにした。
薄くて味気なく順番が回ってくると「あーこれか」というものから、濃厚でいちばんおいしいもの、酸味が強かったり、甘味の感じられるものなど味も様々、食感も崩れやすかったり、滑らかだったりそれぞれ微妙な違いがある。
食べる分量としては1パック400g(昔は500gが主流だった。480、450と徐々に減っていったような……)を2人で、3〜4日かけて食べ切るような目安だ。

私のケガが完治してから半年もしないうち、例のコロナ禍の時期へと突入した。
元々家にこもりがちのガハクがまったく家から出なくなり、感染症への不安から様々な情報を集めて憂慮を募らせていく。
そこでまた、どこで得た知識なのか新たな申し出があった。
「マヌカハニーって知ってる? 取り寄せてほしいんだけど」
ほどほどに美容健康に興味のある女子ならば既知のアイテムだ。ニュージーランドに出張した時に、おみやげにした気がする。不透明でねっとり粘り、苦いような独特の風味があり、ガハクはほとんど口にしなかったから家にあったことすら忘れているだろう。
「クセが強くて、あんまりおいしいといえないかもだけど大丈夫?」
「味よりも効能が大事でしょ!」
かくして、日々のヨーグルトにはこれまでのジャムやハチミツではなく、抗菌作用があり免疫力を上げる効果があるというマヌカハニーをスプーン一杯必ず入れることになった。

話は戻ってクコの実である。これは1年ほど前に私が仕入れてきた情報だった。
「ねえねえ、妹から聞いたんだけど、クコの実は目にいいんだって」
白い杏仁豆腐の上に必ずと言っていいほど、一粒二粒ちょこんと乗っているあの赤い実。冷え性の改善や美肌効果など女性向けのイメージがあったが、そんな作用もあったとは。

「ふーん。じゃあ買ってみれば」
目はガハクの商売道具のひとつであるし、有益かつ無害ならばこの話にのってやってもいい、という反応だった。
最初はドライフルーツとしてそのまま食べたところ、ものすごく固くて歯が欠けそうになったので、ヨーグルトに入れましょうという方向に落ち着いた。

そして冒頭の通り、クコの実を戻すために漬け込む液体として、桃のリキュールを試したところである。
「なにこれ」
好き嫌いはほぼないガハクが、クコの実とマヌカハニーがトッピングされた本日のヨーグルトを一口食べて顔をしかめた。
「どういう理屈か分からないけど苦味が増長されて、後味がよくない」
「そんなにだめ?」
私には許容範囲だったし、何より桃のリキュールの使い道を作りたかった。だが、クコの実と桃のリキュールは相性があわなかったようだ。
マリアージュに失敗したこの組み合わせ、ガハクには耐えがたかったらしい。
「じゃ、もう使わないほうがいい?」
「そうしてください」
ガハクからそこまで言われることは滅多にない。
その後、クコの実は日本酒に浸すようにしてことなきを得ている。
もしや、リキュールでは成分が濃すぎたのかなと、後になって考察し直している。水でさらに割るようにしたら存外うまくいきそうだ。今度こっそり試してみよう。

ガハクと私の食生活に組み込まれた夜ヨーグルトは、結局のところ私たちの根拠のない「体によさそう」という思い込みによって成り立っているといえる。
まさに「イワシの頭も信心から」もしくは「信じるものは救われる」で、きっと得ているのは単にプラシーボ効果のようなものかと思う。

ガハク本人ですら言っているのだ。
「毎日ヨーグルトを食べるって、脂肪分の取り過ぎになるのではと心配でもあるんだよね。マヌカもさ、糖分過多の要因になり得るかもしれないし」
ヨーグルトは発酵食品で別の要素があるからまあいいかな、マヌカハニーも少量なのでよしとする、とガハクは結論づける。
「他に健康のためにこだわっている食品はあったっけ?」
私は尋ねてみた。
もっといろいろ出てくる気がしたが、極力添加物の入ったものは避けるという一般的なことくらいで、ガハクも思い当たらず考えこむ。
「これさえ食べておけば安心っていうのはないし、どんなにいいものでもそればかり摂っていてもだめで、極端に振れないようにするのが大事かな」
何が体によいとされるかは時代によっても変わり、時には内容が逆転することすらある。ガハクも情報を盲信しているわけではない。
品目ではなく、あえてガハクの健康方針を挙げてみるとしたら……
・食べる順、野菜→タンパク質→炭水化物、を心がける
・食べた後すぐにお風呂には入らない(時間の都合で私はだいたいいつも食べてすぐ入浴だ)
・食事は寝る3時間前までにすます(夕飯が遅いとガハクの就寝も遅くなる)
というところか。
加えて、「血の巡り、運動が大事」と言うけれど、ガハクは明らかに運動不足。自分がこうあるべきという希望と自戒をこめての説なのだろうが。
まとまりのないままのガハクのまとめ。
「健康法なんていうのは、これ! とスパッと決まるのではなくて、ぐずぐずと辿り着くものじゃないかな」
さしあたって、日々元気で楽しく滞りなく過ごせたらそれで十分と思おう。


■次回「ヒゲのガハクごはん帖」は2025年11月第2水曜日に公開予定です。


そして、2022年から続く本連載の17のエピソードをまとめた単行本『ヒゲのガハクごはん帖』が集英社より発売中。
10/16(木)19:00から、ガハクの刊行記念トーク&サイン会をジュンク堂書店池袋本店にて開催します(オンライン視聴あり)。
お申し込みはこちら


単行本発売を迎えた、お二人からのコメントをどうぞ!

本連載が始まったのが2022年11月から。
3年の時を経て書籍化という形でまとまって、感慨深い気持ちになります。
とある絵描きのどうということのない日常の食について、ごく最近書き始めたような、ずっと昔から書き続けていたような。

本文の主役であるガハクは、自身の思いもよらぬ一面を書き出されて驚いていたらしいのですが、どの場面にどのような挿画が現れるのかは私にも予期できないものでした。
そんな各自それぞれの解釈の元、出来上がっていたこのコラム。
引き続きお読みいただけましたらうれしいです。


梅村由美

     山口晃

●山口晃さんってどんな画家?
1969年東京都生まれ、群馬県桐生市に育つ。96年東京藝術大学大学院美術研究科絵画専攻(油画)修士課程修了。 2013年『ヘンな日本美術史』(祥伝社)で第12回小林秀雄賞受賞。
日本の伝統的絵画の様式を踏まえ、油絵で描く作風が特徴。都市鳥瞰図・合戦図などの絵画のみならず立体、漫画、インスタレーションなど表現方法は多岐にわたる。
主な個展に、2015年「山口晃展 前に下がる下を仰ぐ」(水戸芸術館現代美術ギャラリー、茨城)、18 年「Resonating Surfaces」(大和日英基金ジャパンハウスギャラリー、ロンドン)、23年「ジャム・セッション 石橋財団コレクション×山口晃 ここへきて やむに止まれぬ サンサシオン」(アーティゾン美術館、東京)など国内外展示多数。
2019年 NHK大河ドラマ「いだてん 〜東京オリムピック噺〜」のオープニングタイトルバック画を担当し、22年善光寺(長野)へ《善光寺御開帳遠景圖》を奉納。

現在、山種美術館にて開催中の「日本画聖地巡礼2025 —速水御舟、東山魁夷から山口晃まで—」へ出品(11月30日まで)。

山口晃 《東京圖1・0・4輪之段》 山種美術館蔵 撮影:宮島径 ©︎YAMAGUCHI Akira, Courtesy of Mizuma Art Gallery

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