美術史の豊かな知識を土台にして、当代一の画力を武器にどこにもない絵を生み出す。そんな人気画家、山口晃ガハクは夫婦揃って食いしん坊。日常で、旅で、制作中の日々で、散歩の途中で何を食べてるの? ガハクが日常を描くコミックエッセイ『すゞしろ日記』に「カミさん」として登場するガハク妻による食事帖。 「鱧と鮎が食べたいなぁ…」。ガハクが毎年願いながらなかなか叶えられなかったのですが、今年は久しぶりに堪能してきました。  

 

絵/山口晃

夏、といえば(はも)に鮎。

でも実際のところシーズン中にそれほど口にしない、できない。年によっては全くないこともある。
極端な括りになるけれど、山口ヒゲ画伯こと夫(以下ガハク)と私にとって、鱧と鮎は京都の夏の風物詩で、そこに行ってこそ食べられるイメージなのだ。
ちょうどその時期に京都を訪れる機会があればよいけれど、暑い時分でそうそうタイミングも合わず、また行ったところで、予定次第で必ずしも鱧や鮎にたどり着けるとは限らない。
ここ数年は本当に縁がなく、季節が来るたびに「鱧、鮎、食べたいなあ」と思いながら、気づくと暑さの勢いも弱まっている、ということを繰り返していた。

もちろん東京にいても食べることはできる。
とりわけ鮎は珍しいものでもなく、旬が来れば魚売り場にてあの緑がかった川魚独特のぬめりとした質感がふと目に入ってくるし、地元の商店街の魚介の店でホタテやエビの串焼きの隣に鮎の塩焼きが並ぶことすらある。
けれども先入観のせいか、京都の鱧と鮎は別格に思える。味の方もさることながら、存在自体がさらりと自然で、暦に組み込まれたかのように特別さを感じさせないところが特別とでもいえばいいのか。

京都の鱧といえば、ガハクから「炙り鱧がおいしい。炙り鱧だよ。炙りがいいんだ」と私は繰り返し聞かされてきた。
かなり昔に関西在住の方と行った京都の割烹Yというところで食べたそうで、ずっと言い続けているからかなりの逸品なのであろう。

「焦げ目がちょっとついて、香ばしくてやわらかで… よいのよ」
聞くだに素敵そうではあるが、ガハクからそれ以上の具体的な説明はなく、炙ったら風味も増してよかろうな、くらいにしか想像できなかった。
そうしているうちに、ついに今年はまさに祇園祭の頃に京都へ行く機会が巡ってきた。このところのフラストレーションを払拭する時が来たのである。
長年ガハクが楽しげに語っていたその「炙り鱧」を食すことを一番の目的に、予定を組み立てていく。
こうなると仕事と食事どちらが大事なのか分からないが、どちらも大切なことである。ここは堂々と夕食のことも重視しておこう。
初日の夜は、以前もこのコラムに登場し、ガハクがひとりで立ち寄った京都駅付近のEを予約し、次の晩にYへ行くことにした。
準備万端、新幹線はウェブサイトでいつでも時間変更可能だし、先月のような事態にも陥らない。

雨の中の訪問となったE。カウンター主体のこじんまりした店が、雨宿り場所のように私たちを迎え入れてくれた。
鱧も鮎も当然あるだろうという予想どおり、手書きの品書きにその2つを見つけて一安心。Eにふたり揃って来たのは初めてだ。品書きを見てああだこうだと悩みながら、その他の品も決めてゆくのは心弾むひとときでもある。「これからおいしいものが次々と出てくる!」という期待がふくらむ。
お通し、お造りに続いてまず鱧が卓に置かれた。
あれ? 鱧の落とし、と聞いたはずだが、深めの器で提供され、透明感のある少量の出汁の中に一口大の白い鱧が3つほど入っている。

意表を突かれた私たちの表情を見てとってか、大将が「冷水で締めてしまうと固くなってしまうので… 特に皮のあたりとか。ですからうちではこうして汁物のように仕立てています」というような説明を京都弁(?)でしてくれた。
お椀というほど汁気はなく、むしろ出汁はソースとしてかけられている感じの分量で、定番の梅肉も小皿で添えられて、鱧の落としの要素が強い。けれども温かい汁に軽く浸かった鱧の身はほかほかでふわふわ。鱧のいいところを最大限に引き出している調理法なのかもしれない。
私たちは感心すると共にこの温製鱧の落としがすっかり気に入ってしまった。
余韻に浸っていると、焼きあがった鮎が来る。
注文時、カウンター越しに大将が、「今日は小さい鮎しかなくて…」と言いながら指で10cmちょっとくらいの隙間を作って大きさを示してくれたが、頭から食べられるサイズとのことで、むしろその方が私たちにはうれしい。大きいと身をほぐさねばならないし、どうせならガブリと頭から全てをきれいに平らげたいではないか。
小さく上品な鮎の塩焼き。私は1尾にしておいたが、食べることには貪欲なガハク、できる限りたくさん味わいたいらしく2尾頼んでいた。
1尾と2尾ではお皿もそれぞれ異なるデザインであてがわれ、そんな点にもお店の気配りが感じられて心地よい。
「鮎にはやっぱりたで酢なのよ」
ガハクがツンツンと鮎を鮮やかな緑色のたで酢につけながら言う。
「たまに添えてあるのが抹茶塩だったり、すだちだけだったりすると、もう、あーっ、どうしてって思っちゃう」
そのような提供のされ方は関東でありがちな気がする。
鮎の塩焼きと好相性のたで酢。しからばいかに風味のよいものなのか、ある時ガハクがそれのみを口にしてみたところ、特に味がしなくて拍子抜けしたという。なのに、なぜか鮎と一緒になるとおいしさを底上げするというその不思議さ。
たで酢に強く主張するところがないからこそ、淡白な鮎と相乗効果を引き起こすのであろう。はらわたの苦味を程よく和らげ、身の部分の繊細な味を消すことなく際立たせることができるのは、ガハクの言う通りたで酢しかありえないのかも。
これを発見した先人には敬服する、とガハクは満足そうに鮎を噛み締めていた。

1日目にして鱧も鮎も満喫したが、翌日いよいよ私もガハク絶賛の炙り鱧に出会える時が来た。
早めの時間帯にYへ入店。こちらも席はカウンターで、板前さんたちが黙々と仕込みをしている様子が見える。活気づく前の静けさがまだ調理場に残っていて、楽屋裏を覗いているかのようだ。

ここでの鱧は落としと炙り、欲張って両方を試してみることに。しかし注文時に「炙り」と言っても通じない。「焼きですか? それとも焼き霜ですか?」と確認される。その違いがよく分からず、ガハクが表面に焦げ目がついて云々と様子を伝えると、「焼き霜でよろしいでしょうか」との返答で、多分そうであろうと、それにてお願いする。
実はYのお品書きはかなり多い。お造り部門だけで20弱の品名がずらりと並び、煮炊き物、焼き物、蒸し物、揚げ物、肉料理、珍味、お茶漬け、雑炊… とそれぞれに、何でもできますからとでもいうようにたくさんの料理名が記載されていて、読み込んで組み立てていくのが楽しいけれど難しくもある。
大量の品を解読するのに舞い上がっていてじっくり見ていなかったのだが、「焼き霜」は「落とし」と共にお造りの項目に入っていて、鱧薄造り、鱧洗いなどというものまである。さらには煮炊き物にも鱧しゃぶに鱧柳川、揚げ物には鱧天ぷら。ここまでくると目が回ってくる。
「見てみて、こんなにあった」
そう声をかけても、ただでさえメニュー読解に私の倍以上時間がかかってしまうガハクはすでにキャパオーバーで、反応が鈍い。「うん…」とうなずくだけで、私の方を向きもせず食前酒がわりの冷えたビールを飲んでいた。

一口ずつ7〜8品ほどが皿に盛られた、お酒のつまみにぴったりなお通しの後は、早々に鱧落としがやってきた。
これを注文した時、「温かいのと冷たいのと、どちらがよろしいですか?」と聞かれ、ガハクと私は思わず顔を見合わせた。昨日も温製だった…。返事を聞く前に板さんが「おすすめは温かい方ですけれど」と付け加えたので、私たちは声を揃え即答した。
「温かい方でお願いします」
鱧の落としといえば冷製が通例だったように思うが、温かい状態での提供は最近の主流なのだろうか?
梅肉の酸っぱさをアクセントにし、温かくふわりとふくらみ、口の中でほろっと溶けゆく鱧を食べながらそんなことを考える。

そして…。
「えっ、何、これで炙るの?!」
「そうだよ。お店の人が作ってくれる」
目の前に炭火焼きセットが配置された。塩? がぎっちり詰まった陶器の鉢の上に、20cm四方ほどの金属の網状の入れ物に炭が見える状態で入っている。

炙った鱧がいかにおいしいか、ガハクはさんざん語ってきたくせに、こんなライブ感込みであるということは一度も教えてくれなかった。そういえば、ガハクは炎がオレンジの皮を昇っていくという見応えあるクレープシュゼットにも冷淡であった。質重視、ガハクは食の演出にはさほど興味がわかないということか。
さて、炭の準備も整って、透き通った生の鱧を板さんが目の前でチリチリとちょうどいい塩梅になるように焼いてくれる。骨切りしてある鱧は、炭火が当たるとひらひらと花のように丸まっていく。
それを、針切りにしたみょうがを大量にがさっと添えて、二杯酢(? らしい)につけて食べるわけだが、炙った鱧は内部にぎりぎりまでレアな状態を残しつつ、外側はやや焦げ目がつくかつかないか。これはもう食べることに集中し、無言になるしかない。
先ほどの落としよりもフレッシュ感があり、それでいて香ばしく、しゃっきりした細いみょうがが食感的にも程よいアクセントとして効いている。
一つ食べればまた次を、とタイミングよく炙って小皿に盛られてくるのにも感激だ。
後半になり、レモンを脇に添えた骨せんべいがちょこんと出てきて、締めまで完璧なのであった。

その後、小芋や白ずいきといった野菜類をはさんで、もう一方のメインである鮎の塩焼きがくるわけなのだが、笹の葉に乗った鮎の脇には湯引きしたミニトマトと枝豆が2さや。それほど恭しくもなく普通の焼き魚といった体で出されるのが却って凄みになる。もちろんつけて食べるのはたで酢だ。
注文時には大きめか小さめ、それぞれに産地が異なっていてどちらにするか尋ねられた。お客さんも各自好みがあるだろうから、選べるのは助かる。私たちの好みは前述の通り小さい方。ガハクは日本酒をお供に今日も2尾の鮎を頭からかじっていた。
もう1日くらい鱧と鮎の日があってもよかったが、そんな風に私たちは十分すぎるほど京都の夏の味覚を堪能したのだった。

続くときは続くもので東京に戻ってからも、1ヶ月もしないうちに鱧と鮎を食べる日が2回もあった。
だが、店のせいなのか地域的な現象なのか、ごく普通の鱧の落としや鮎の塩焼きといったものは出てこない。
例えば、鱧は湯引き後に熱い油をざっとかけ、白髪ネギとポン酢で食べるが、ほんのりカレー風味。もしくは天ぷらであったり。
鮎は定番の塩焼きであっても、あしらいはたで酢ではなくふき味噌にセロリの酢漬けと甘辛いセロリ佃煮。またはニシンそばならぬ鮎そばとなって出されてくる、といった具合だ。
どれもこれも趣向が凝らされ、申し分なくおいしいけれど、ごく普通に食べたくもある。
「流通とか、鮮度の関係なのかなぁ」
ガハクが推理するが、それよりもお客がそうさせている部分もありそうだ。鮎の塩焼きなんて、ただ焼いただけでしょう、と言われかねない。たで酢だってガハクが味見をしたように、それ自体は素気ないものであるし。
一見すると手が込んでいるように感じられないシンプルなものを、揺るぎない心で作り続けるのは、思いの外難しいのかもしれない。
次回はどこでどんな鱧と鮎を食べることになるのだろうか。来年食べる機会はあるだろうか。
「また京都に行ってもいいよ」
隣でガハクがのんきにそんなことを言っている。

■次回「ヒゲのガハクごはん帖」は2025年9月第2水曜日に公開予定です。


●山口晃さんってどんな画家?
1969年東京都生まれ、群馬県桐生市に育つ。96年東京藝術大学大学院美術研究科絵画専攻(油画)修士課程修了。 2013年『ヘンな日本美術史』(祥伝社)で第12回小林秀雄賞受賞。
日本の伝統的絵画の様式を踏まえ、油絵で描く作風が特徴。都市鳥瞰図・合戦図などの絵画のみならず立体、漫画、インスタレーションなど表現方法は多岐にわたる。
主な個展に、2015年「山口晃展 前に下がる下を仰ぐ」(水戸芸術館現代美術ギャラリー、茨城)、18 年「Resonating Surfaces」(大和日英基金ジャパンハウスギャラリー、ロンドン)、23年「ジャム・セッション 石橋財団コレクション×山口晃 ここへきて やむに止まれぬ サンサシオン」(アーティゾン美術館、東京)など国内外展示多数。
2019年 NHK大河ドラマ「いだてん 〜東京オリムピック噺〜」のオープニングタイトルバック画を担当し、22年善光寺(長野)へ《善光寺御開帳遠景圖》を奉納。

また、エッセー漫画『すゞしろ日記 四』を今月刊行。「UP版すゞしろ日記」をいつもの1.5倍にあたる76回分収録のほか、「やがて悲しき私的ラジオ生活」(初出『BRUTUS』)や《当世 壁の落書き 五輪パラ輪》等、すゞしろ日記風作品も収録。

そして、大阪中之島美術館にて開催中の「日本美術の鉱脈展 未来の国宝を探せ!」へ出品(8月31日まで)。

山口晃 《携行折畳式喫 茶室》 2002年 「日本美術の鉱脈展 未来の国宝を探せ!」展示風景 大阪中之島美術館、2025年 ©︎YAMAGUCHI Akira, Courtesy of Mizuma Art Gallery

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