
美術史の豊かな知識を土台にして、当代一の画力を武器にどこにもない絵を生み出す。そんな人気画家、山口晃ガハクは夫婦揃って食いしん坊。日常で、旅で、制作中の日々で、散歩の途中で何を食べてるの? ガハクが日常を描くコミックエッセイ『すゞしろ日記』に「カミさん」として登場するガハク妻による食事帖。 さて、ガハク、食い倒れの都、大阪出張。真っ先に思い浮かんだのは食通で名高いあの時代小説家も愛したかやくご飯でした。
絵/山口晃
夏はまだ先だと思っていたのに、連日30度超えが続くようになった。そんな中、所用あって山口ヒゲ画伯こと夫(以下ガハク)と私は大阪と高松へと出かけた。
予定を組むにあたり、その時期ガハクに急を要する仕事はないという見込みだったはずだが、なぜだか重要な仕事が残っている。これから5日も東京を留守にするからには、出発前になんとしてでも終わらせなければならない。
ということで、前日は徹夜でまさに玄関を出る直前にバイク便に成果物を手渡すような事態であった。
ついのんびりした私も悪いのだが、気づけばいい時間だ。二人して慌てて荷物を手にしてタクシーに乗りこむが、そういう時に限って赤信号ループにぶつかり車はぐだぐだと進む。
「すみません、ちょっと急ぎ気味で」
運転手さんに一言添えるが、信号や車の多さはどうにもならない。
さらに、いつもならチケットレスで用意する切符も、今回は途中下車のできる往復切符で発券したので、車内にてスマホでの予約変更もできない。
二人してデジタル時計が示す数字を見ながら、じりじり迫る発車時間を不安に思う。
「無理かもね。逃しても自由席には乗れるから」
「いやいや諦めるのはまだ早い」
ガハクは前向きだ。
「いつかこんな日が来ると思っていたけど、それが今日かも」
私の方は万が一でもがっかりしなくて済むよう、最悪の事態を想定しておく。これまでも何度か、時間的に余裕がなくて乗り物に乗り遅れそうな状況に陥ったがなんとか幸運の神に救われてきた。しかし今日はどうだろう。
全然間に合わない時間ならまだ仕方がないと思えるが、時計を見るとあと1、2分早ければ、くらいのギリギリ感。
東京駅の日本橋口を目の前に、最後の信号にも引っかかる。運転手さんは何も言わず、私たちの切羽詰まっている感を察知してかすでにメーターを止めてくれていた。

タクシーを降りたのは新幹線の発車時刻2分前。すごく嫌な時間だが、こうなると頑張って走るしかない。
東京駅は番線も多く、目指す場所が一番遠いことを恨みつつホームに上ったはいいが、停車している新幹線までさらに30m弱くらいあった。
目の前で行かれてなるものか、と元陸上部の二人はラストスパートをかけた。

まさに飛び込むように、最後尾車両になんとか乗り込むと、息が上がっていて呼吸がぜいぜいと大きな音を立てる。
徹夜明けでダッシュして、ガハク、大丈夫なのか?
デッキで動けなくなっていると、20秒もしないうちにプシューと音をたてて扉が閉まった。

さて、とんだスタートを切ったが、ガハクも私も大阪に泊まるのは久しぶりで、もう10年以上は経過しているのではなかろうか。
大阪、というとガハクが毎度名を挙げるのが「かやくご飯」が名物のD。炊き込みご飯のことを「かやくご飯」と呼ぶ時点で、関東の人間には関西情緒にあふれて響く。
過去にも、
「Dに行きたいな」
「でも今回京都旅行だからね」
などという会話を何度したことか。
Dは食通で知られる時代小説家のエッセイ本に掲載されていたとのことで、ガハクも2〜3度行ったことがあるそうだが、それこそ学生時代に遡るくらい昔の話。かやくご飯と粕汁の味もビジュアルも覚えていないけれど、ただただ、よいものとして記憶に残っているようだった。
途中高松にも1日滞在するが、大阪には3泊するし、どこかでDを訪れるチャンスは必ずありそうである。事前に調べてみたところ、昼営業のみであると分かった。
「そうだよね。夜だらだらと過ごすような店じゃない」
懸命に自分に言い聞かせているガハクは、夕方早い時間に行って一杯、おかずを軽くつまんで最後にご飯とおつけ……という勝手な希望を思い描いていたらしい。
では到着日と翌日の午前でさっと仕事を終わらせて、2日目のお昼にDへ行こう!と決める。
「早く行かないと閉まっちゃうよ」
「分かってるって」
どんな時もガハクは自分のペースを乱さない。少なくとも午後2時前には入店しないと…、ここまで来て閉まっていたら悲しすぎる。
道案内は方向感覚に優れたガハクにおまかせ。ごちゃごちゃとした街中からふっと脇道に入ったところにDはあった。
繁華街なので、周りに風情はほぼないが、小さな間口のこの店だけはまさに時間が止まったままだ。植え込みの緑に囲まれた、すりガラスの引き戸をおそるおそる開ける。
打出の小槌の絵が染め抜かれたのれんは作り替えて間がないのか、比較的新しくきれいだ。
中に入ると、ますますタイムスリップ感が高まる。店内は狭く、手前に3卓あるテーブルを相席で使う仕様で、奥にカウンターらしき席があるようだ。椅子も卓も、すべてがこじんまりしていて、壁際の棚には昔からあるらしき置物がいくつか飾られ、どこか光の当たり方が暗く静かだ。
私たちが入ると、お店の人が辺りを見回して一人客のおじさんに声をかけ、席の移動をお願いしてくれた。よくあることなのだろう、女性店員も当たり前のように采配し、誰もが気持ちのよい状況でことが進む。空けてもらったテーブル席へと腰掛け、すでに食事中である年配の男性おひとりと相席になった。
平日の昼とあって、隠居したと思しき年齢層の男性一人客が多い。常連なのだろうか。
机に立て置かれた手書き文字の品書きを、私が早速手元へと引き寄せてガハクと共に見入る。アクリルスタンドの角が少し割れていたりして、年季の入った様子を醸し出す。
システムとしてはご飯(かやくご飯オンリー)、おつけ、魚や小鉢がそれぞれ単品になっているので、好きなように組み合わせ自分なりの定食を仕立てる、ということのようだ。

せっかく来たのだが、実は二人ともあまりお腹が減っていない。朝が遅かったのだ。昼を見越してセーブして朝食をとったけれど、微妙なところだ。
でも、営業終了時間も間近であるし、ぐずぐずせず、さっと食べて気持ちよくすっと帰るのがよかろう。
かやくご飯は大・中・小サイズがあるが、当然小に。これでもご飯茶碗一杯強くらいの量になる。
品書きに記憶していたはずの粕汁がなく、ガハクが店員さんに尋ねたところ、それは冬季のみの提供だそう。ガハクはややがっかりして白味噌を選択する。他、すまし汁か赤だしがあり、具をはまぐり、とうふ、玉子から選べる。私は物珍しさから赤だし+はまぐりで、ガハクの具は無難にとうふだ。
魚類は私たちにはなじみの薄いゆえ気になって、しまあじの焼き物を。ぬたやおひたしにも引かれるけれど、小鉢はガハクとしては絶対外せない小いも煮付に。
さらにガハクの趣味で、たこ酢が加わり、シンプルだが楽しげなお昼セットが完成した。

「飲みたい…」
私だってこの品々が並べばもちろん飲みたい。
「やめようよ。昨夜ずいぶん飲んだでしょ」
昨日は気軽な居酒屋の料理があまりにおいしくて、ついつい日本酒の量が増してしまった。ガハク、寝不足だったのに。
「迎え酒とか? ビールだったら…」
ガハクは笑みを浮かべながら、ちらちらと私の顔をうかがう。
「だめ。やめといた方がいいよ。明日は高松だし」
まだ旅程も前半、ここで羽目を外すと大変なことになる気がする。高松でも心おきなく飲める状態にしておきたい。
それより料理に集中だ。ガハク念願の、Dのかやくご飯。
まずは、ご飯と汁の入った黒いプラスチック椀の蓋をそれぞれかぱっと開ける。
かやくご飯は、こんもり盛られた頂上に、ふりかけられた粉状の海苔がアクセントになっているとはいえ、ごくごく淡いベージュで至極地味な見た目。出汁でほんのり染められたご飯、とでもいえばいいのか。
けれども、その色合いは単調ではなく、点描で描かれた絵画のようにどことなくリズムがある。改めて観察してみると、非常に細かく刻まれたごぼうや油あげが、色合いの似たご飯に隠れるように混ぜ込まれている。
見た目の通り、微かな味わいのご飯に、時おりごぼうと油揚げがじわりと深みを追加してくるという、バランスの取り方と変化もすごく繊細だ。
この精妙さをゆっくり食すことでじっくり味わうこともできるけれど、仮にかきこむように食べたとしても、Dのかやくご飯の真髄はそう簡単に消えることはなく、「あれ、なんだかうまいな、これ」と誰もが無意識に感じてしまうことであろう。
……と、私がかやくご飯の世界に浸りつつガハクの方をふと見ると、やはりこちらも無言で半分目を閉じるかのようにして一口一口を噛みしめていた。
「来てよかった。本当によかった」
私もそう思う。こういう古くから続くお店は、ずっとあってほしいがいつどうなるか分からない。来られる時に、食べられる時に、出来る時に出来ることをしておかなければと最近考えるのだ。

二人でつついたしまあじの焼き物は脂が乗っているのに淡白。東京ではたまに刺身で食べるが、切り身の状態を見たのは初めてで、焼くとこうなるのかと新鮮に感じた。
小いも煮は言わずもがなのガハク好みのパーフェクトな一品で「お酒飲みたい」を誘発してくる。まあまあ、とガハクをなだめ、私は赤だしにころんと一つ入ったはまぐりを取り出して食べる。
「相変わらずいいチョイスするよね」
とうふとネギの味噌汁を手に、ガハクがやや羨望の眼差しを向けてきたので、私は自慢げに「ふふん」と笑ってみせた。
「次はオレもはまぐりにしよう」
え? 次とは。

そして2日後、美術館で開催される講演を聴くため高松から再び大阪に戻る。夜にはお世話になっている方々との会食の予定もある。
「早くしないと間に合わないよ」
「暑いし、タクシーに乗ろう」
どことなく既視感がただようこのやりとり。
チェックインまで間がありホテルに荷物だけ預け、お昼を食べにこの日もDに向かった。
店に入るとタイミングよく待たずに席に着くことができた。土曜日だからか、お客は若い人が多い。観光客だろうか。前回訪問時の渋く時代を感じる客層とは違い、お客もひっきりなしであるせいか、店にも活気が出ている。
今日もかやくご飯は二人とも小。これでも十分な量だ。
「なす丸煮と、やはり小いも煮付ね。魚は…さばはキツいかな」
「うん、さわらにしようよ。あと、きゅうりもみ」

再訪なので注文したいものはすぐに決まる。おつけについては、ガハクは白みそにはまぐり。私は変わらず赤だしにはまぐりだ。
それらの品がテーブルに次々と並ぶのを見てガハクが言う。
「飲みたいな」
言うと思った。
「でもこれから講演を聴くんだよ」
開演までの時間も割とない。
「それに、今晩飲むよね。飲みたいでしょう?」
「ううう……」
お昼に飲むのは、楽しいものだ。だがそれをするのは、余裕がある時に限られる。
限られた期間内に2度も行ったのに飲むことができなかった。
ということは、またそのうち無念を晴らしに行かねばならないということなのだろうか。
■次回「ヒゲのガハクごはん帖」は2025年8月第2週に公開予定です。
●山口晃さんってどんな画家?
1969年東京都生まれ、群馬県桐生市に育つ。96年東京藝術大学大学院美術研究科絵画専攻(油画)修士課程修了。 2013年『ヘンな日本美術史』(祥伝社)で第12回小林秀雄賞受賞。
日本の伝統的絵画の様式を踏まえ、油絵で描く作風が特徴。都市鳥瞰図・合戦図などの絵画のみならず立体、漫画、インスタレーションなど表現方法は多岐にわたる。
主な個展に、2015年「山口晃展 前に下がる下を仰ぐ」(水戸芸術館現代美術ギャラリー、茨城)、18 年「Resonating Surfaces」(大和日英基金ジャパンハウスギャラリー、ロンドン)、23年「ジャム・セッション 石橋財団コレクション×山口晃 ここへきて やむに止まれぬ サンサシオン」(アーティゾン美術館、東京)など国内外展示多数。
2019年 NHK大河ドラマ「いだてん 〜東京オリムピック噺〜」のオープニングタイトルバック画を担当し、22年善光寺(長野)へ《善光寺御開帳遠景圖》を奉納。
また、エッセー漫画『すゞしろ日記 四』を今月刊行。「UP版すゞしろ日記」をいつもの1.5倍にあたる76回分収録のほか、「やがて悲しき私的ラジオ生活」(初出『BRUTUS』)や《当世 壁の落書き 五輪パラ輪》等、すゞしろ日記風作品も収録。

そして、大阪中之島美術館にて開催中の「日本美術の鉱脈展 未来の国宝を探せ!」へ出品(8月31日まで)。

山口晃 《携行折畳式喫 茶室》 2002年 展示風景:「山口晃展 画業ほぼ総覧―お絵描きから現在まで」群馬県立館林美術館、2013年 撮影:木奥惠三 ©︎YAMAGUCHI Akira, Courtesy of Mizuma Art Gallery
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