美術史の豊かな知識を土台にして、当代一の画力を武器にどこにもない絵を生み出す。そんな人気画家、山口晃ガハクは夫婦揃って食いしん坊。日常で、旅で、制作中の日々で、散歩の途中で何を食べてるの? ガハクが日常を描くコミックエッセイ『すゞしろ日記』に「カミさん」として登場するガハク妻による食事帖。 終わりなき日常。ごはんをして描く、おやつをして描く、ごはんをして描く・・・

 

絵/山口晃

おなかすいたなぁ。
そう思ってもわたしに朝ごはんを用意してくれる人はいない。
あーあ、誰も頼れない・・・ というのは大袈裟で、むろん山口ヒゲ画伯こと夫(以下ガハク)が一つ屋根の下にいて、一応仲よく生活している。
また、ガハクの名誉のために言っておくが、ガハクは「家事をしない人」ではなく、ちゃんと分担しあっている。例えば洗面所やお風呂場、お手洗いなどの水回りをきれいに掃除してくれるのはいつもガハクだし(わたしがやるとツメが甘いからという理由もある)、布団の上げ下げという力仕事(というほどでもないけど)もすれば、洗濯物も畳むし、台所に立てばわたしよりも腕が上であるのは確かだ。
その時々でお互いの忙しさや健康状態も違うので、家事は「やれる人がやる」というのがガハクの基本理念である。

ただ、いつしか普段のごはんの用意は99%くらいわたしがするようになった。それはわたしがフルタイムの仕事に就いていた時からで、どのような経緯でそうなったか、当たり前で身近なことほど思い出すことができないものだ。
おそらく、1)ガハクが忙しくて時間がない、2)買い物は基本わたしがする、3)一緒に台所に立つと、わたしの適当さにガハクがうるさく口出しをするので、わたしの方がいくら大変でもいいから1人で作業をさせてほしいと言ったから・・・ という理由からだと推測する。
台所が広くないせいもあるが、協力しあって料理をすることは案外難しい。

起きてすぐに朝食を作ればよかったものの、天気が悪かったので先に洗濯をしたり、ちょっとPCを開いてしまったりで、気がつくとすっかり空腹になっていた。
そんなわたしをよそに、深夜というより明け方近くに寝床に入ったであろうガハクは隣の部屋でぐっすりと眠っている。
重い腰を上げて、わたしは台所へと移動した。
まずはお湯を沸かす。朝ごはん用のお茶は、パン食なのにたいていほうじ茶。
ガハクは「紅茶はミルクかレモンが入っていないとうれしくない」とのことなので。
しかし等級の高いダージリンであると飲んだりするから、ガハクの味覚はおいしいところのみをかじる野生動物であるかのようだ。
コーヒーはおやつ用だし、消去法でほうじ茶に落ち着いた。ジャスミン茶の時もある。
それから朝食の支度に取りかかる、件のピザトーストだ。
宅配で届くどうということのない食パンを冷凍庫から出して皿に載せ、心持ち解凍させている間にトッピングの野菜を刻む。ミニトマト、ピーマンと、今日はオレンジ色のパプリカ。それぞれほどほどに食べやすい大きさで、そんなに細かくはしない。
薄切りトマトでパンの表面を覆ってからピーマンとパプリカを無造作に撒き、セルロース不使用のシュレッドチーズを振りかける。ガハクのチーズが軽く一掴み分の量ならばわたしはその三分の一くらいで。ゴマも最後にぱらりと。
狭いパンの面積に大盛りの具材を落とさないように気をつけてオーブントースターに入れてタイマーを回す。トースターの上にパン皿と、ココットに入った一人一口分の量のとろろ昆布(カルシウム、カリウム補給のサプリ代わり)を乗せて、余熱で温めておく。
パンを焼いている間にくだものを切る。今日はぜいたくにリンゴと清見オレンジの2種盛りだ。といっても、オレンジがあまりに小ぶりすぎたのでリンゴを少し足しただけ。オレンジ1個と、リンゴ半分をふたりで分け合って食べる。慎ましい
朝食完成!だが、ガハクはまだ起きる時間ではないので、わたしひとりで食べる。

午前11時半過ぎ、まあお昼近くだっただろうか、ガタガタッ、とぶつかるような音と共に戸が開き、寝ぐせで頭が爆発したガハクがお目覚めになって出てきた。
「早いね」
嫌味のつもりではなく、わたしが声をかける。ほぼ予定通りに自分で起きられてすごいね、という意味で。
ガハクは必死に起きたようで、まだ言葉を発することができないようだ。

「昨夜、っていうか今朝は何時に寝たの?」
「うう・・・4時回ってたかな。5時くらい? わかんない」
ガハクが寝起きのしわがれた声で返事をしてくる。
着替えたり、乾燥する肌に薬を塗ったり、一通りの身支度を済ませてようやく朝食だ。ガハクは食物繊維/野菜から食べて炭水化物は後、という順番を頑なに守っていて、まずはくだものに手をつける。3分の1程度を食べてから、おもむろにパンを口にする。
時おりガリリと音をたててパンを噛んでいるうち目が覚めるようで、徐々に口数も増えてきた。

「ちゃんと起きられたんだね」
「そりゃあ、今はまさに追い込みだから」
ガハクの起床時間は取り組んでいる仕事の種類、状況によってまちまちだ。11時台は比較的早い方で、14時だの、ひどいと15時にずれ込むことも。
現在は3日後に迫る集荷に向けて、大作の仕上げをしていている真っ最中である。
もっと以前から取りかかっていればこうはならないのに、と思うけれど、その「以前」にもいくつものなすべきことがあったりで、玉突き状態で先送りになった案件が積もりに積もった結果がこれだ。
よほどでなければどんなに忙しくても食べることだけはおろそかにしないガハク。悠然としてよく味わい、その後の食休みもする。
早く絵を描きにいかなくていいのかと、わたしの方が傍でやきもきしてしまう。
「お昼は? 2時? 2時半?」
朝の食事を終えて、近くにあるアトリエへと出かけていくガハクを見送るも、すぐにお昼の時間がやってくる。

昼食はいつも軽めだ。支度が面倒だし、ガハクの朝ごはんと時間的に近すぎるということもある。
ガハクが遅く起きた場合は、わたしのお昼と同時にガハクも食べて、朝用だったパンをおやつや夜食に回したりする。それはそれで楽しいらしい。
だいたい冷凍物を使うが、本日は焼きビーフンにした。レンジで温めればいい。
そして、仕事が大詰めのガハクを励ます意味でひと手間かけ、棒付きフランクフルトソーセージを焼くことにする。
これは以前宅配で番号を間違えて注文し、届いてしまったことにより出会った品だ。棒が刺さったソーセージとは、いかにも見た目がお子様向けで、添加物を気にするガハクが「こういうのは頼んではダメでしょう」と注意をしてきたのだけれど、成分表を見ると驚くほど原材料が少なくきちんと作られた製品だったのだ。
食べてみると「なんだか、妙においしく感じる」とガハクが言ったように、普通のソーセージなのに棒付きになっただけで急にお祭り気分になって楽しくなる。
結局はガハクのお気に召したようで「また注文して」とリクエストを受け、再度仕入れておいたのだ。これを食べるとガハクも気がなごむであろう、と考えた。
追加で残り物のゆでたカリフラワーを添えたグリーンサラダもあれば、もう十分だろう。
取り決めていた14時半くらいにガハクが昼食を食べに戻ってきた。

「あ、これね」
予想通り、棒付きフランクを見て軽く微笑むガハク。持ち手部分に指が汚れないようにアルミホイルを巻いて、ケチャップをついっとかけると旅の途中のドライブインにでもいるような感じになる。
「衣がついていたらもっといいのに。なんていうのだっけ、アメリカンドック? フレンチドック?」
「どっちだっけ。両方聞いたことがある」
なんとなく会話もはずむ。
「このビーフン、きのこ入り和風味がおいしいよね。あれはちょっと別物」
ガハクが思い出して言うけれど、今回は普通バージョン。
「見かけたら注文しておくね」
お昼ご飯はさらっと済ませる。ガハクが仕事をした時間、まだ2時間もないのでは。わたしはガハクを送り出しつつ、確認する。
「おやつは? 何時?」
「早い方がいいよね」
一仕事してからと考えると18時くらいが妥当であるが、そうすると夕飯がどんどん遅くなる。
16時半から17時の間をおやつ集合と決めて解散。ガハクはまた絵を描きにアトリエへと出かけていく。
その間、わたしは八百屋へと買い物に。普段ほぼ宅配でまかなっているけれど、たまに買い足しもする。
この時季の外出は格別だ。そこかしこに桜の木を見つけられるし、意外な木々が花をつけている。今日の天気はあいにくだけど、しっとりした空気の中に淡い花の色を見るのも悪くない。ガハクも絵が仕上がったら、お花見ができるだろう。

家に戻ってちょっと一息つくと、ガハクが心待ちにしているおやつの時間がもう間近ではないか。朝刊は読みきれなかった。
ストックしているお菓子類を前に、さて何にしようかと考えながらコーヒーの準備をする。さて食卓に運ぼうかとお盆にお皿やカップなどを載せた頃にガハクが帰ってきた。
「あらー、すてき」
ガハクが小さく歓声をあげて席に着く。
「あー、疲れた。疲れたわ」
けれども、そう言って、ぼーっと窓の外を見たり、机の上のものをごそごそいじったりしていて一向にコーヒーも飲まないし、小皿の上の頂き物のカステラとバレンタインのチョコレートの最後の一粒(大事にしすぎて、まだあった・・・)には手をつけようとしない。
ガハクのこの行動、いつもこうなのだが正直よく分からない。
あんなに楽しみにしていて、お菓子を目にしてはしゃいでもいたのに、ずっとぐずぐずしている。しびれを切らしてわたしが先にコーヒーを飲み出すのも毎度のことだ。

「いらないの?」
声をかけるとやっと我にかえったかのようにおやつの方に注意を向けた。
「カステラ、きめが細かくておいしいわー」
「チョコはこれが最後だよ」
「えっ、そうなんだ」
おやつの終盤には何かのきっかけで、世相だったか美術についてかガハクの話が止まらなくなっている。すぐにでも制作に戻るべきではないかとこちらは気が気でない。
「そろそろ行ったほうがいいんじゃない? 30分くらい話してるよ」
「そんなには経ってない」
確かにわたしはサバを読んだけど。

ガハクを追い立てた後、わたしもまた自分の時間に戻る。ガハクの作業も同じくだろうが、それもまたあっという間に経過し、次は夕飯の心配だ。
この時も朝と同じことを思った。自分がしないと誰も作ってくれない・・・。

いつも早くしようと気にかけつつ、なんだかんだで取りかかるのが遅くなり、21時をだいぶ過ぎてやっと夕ごはんができあがった。
特に計画もなく、冷蔵庫にあるものから適当に栄養バランスを考えて(ガハク、この点には細かいにつき)作った献立は下記の通り。
・焼いた薄切ぶた肉+玉ねぎとインゲン(2種の塩で味付け)
・フリルレタスとしめじの炒め物(ポン酢味)
・きゅうり塩もみ(千切りにして、ふりかけをかける)
・ブロッコリーのマヨネーズがけ
・しろ菜ととうふの味噌汁(残り物3日目、最終)
・ごはん(黒もち麦入り)
昨日でちょうど日本酒を飲み終えてしまったし、メニュー的にもビールが合いそうだ。

以上、料理上手な人からするとどうということもない品々であるし、これといったアピールポイントもない。
あえて挙げるとしたら、ぶた肉には塩味の強い黒っぽい塩、野菜にはフレーク状の白い塩と使い分けたこと。レタスときのこはぶた肉を焼いた後のフライパンをそのまま使い、肉の油を吸わせたという点か。
後者は肉の風味も隠し味になる上、フライパンの油汚れもきれいになる!という利点があって一石二鳥なのだ。この調理法を使うと味に深みが出るようで、ガハクから「この味付けどうしたの?」と聞かれる確率が高い。とはいえ、おすすめできる方法ではないと思う。ちょっとバラすのが恥ずかしくもある。

「あーーー、疲れた」
ここ数日、ガハクはイスに腰掛けるやいなや、濁点混じりの発音で、口ぐせになってしまったかのように言う。
制作も佳境、さすがに根を詰めて作業をしていたのだろう、生気がない。
「一杯飲んで、元気を出しなされ」

ガハクの前に、「よろしく」とばかりに缶ビールと空のグラスを2つ差し出す。うまく泡を作ってビールを注ぐことができるのは、ガハクの方なので。
グラス上部にふわふわときれいに泡が浮かんだビールで「お疲れさま」と乾杯し、まずみそ汁を一口飲んだガハクが、ぎゅっと目をつぶって言う。
「うまい、しみるわー。これ、3日目?」
「ふふ、そうだよ」
わが家特製の煮込み系みそ汁は最終日の味がいちばん練れている。
「あ、きゅうり。このふりかけをかけると急に格が上がるよね」
頂き物のどこかの料亭プロデュースのふりかけ。細かく刻まれた昆布と干しエビを主体に隠し味として山椒を効かせて、さすが料亭。助かる。
「この炒め物の葉っぱは何?」
「八百屋で買った小さくてギザギザしたレタス。名前は忘れちゃった」
そんなとりとめのない会話をしつつ、すべて食べ終えてから、
「おいしくないものが何にもなかった」
とガハクが言ってくれた。際立つものはないけれど、その分まずいものもない・・・ おうちのごはんとはそんなものだろう。

ガハクの健康論により、夕飯の後はお茶を飲みながらヨーグルトにマヌカハニーを入れて食すのが常だ。最近はわたしの健康リサーチにより、そこにクコの実も加わった。
さらに夜も更け、こうして1日も終了していく。
でも、ガハクにとってはまだ終わりではなかった。
日中、細切れだった制作時間を取り返すかのように、これから夜通し絵を描くのだ。


■次回「ヒゲのガハクごはん帖」は2025年5月第2週に公開予定です

●山口晃さんってどんな画家?
1969年東京都生まれ、群馬県桐生市に育つ。96年東京藝術大学大学院美術研究科絵画専攻(油画)修士課程修了。 2013年『ヘンな日本美術史』(祥伝社)で第12回小林秀雄賞受賞。
日本の伝統的絵画の様式を踏まえ、油絵で描く作風が特徴。都市鳥瞰図・合戦図などの絵画のみならず立体、漫画、インスタレーションなど表現方法は多岐にわたる。
主な個展に、2015年「山口晃展 前に下がる下を仰ぐ」(水戸芸術館現代美術ギャラリー、茨城)、18 年「Resonating Surfaces」(大和日英基金ジャパンハウスギャラリー、ロンドン)、23年「ジャム・セッション 石橋財団コレクション×山口晃 ここへきて やむに止まれぬ サンサシオン」(アーティゾン美術館、東京)など国内外展示多数。
2019年 NHK大河ドラマ「いだてん 〜東京オリムピック噺〜」のオープニングタイトルバック画を担当し、22年善光寺(長野)へ《善光寺御開帳遠景圖》を奉納。

また、4月22日より東京国立博物館 表慶館にて開催の「浮世絵現代」へ出品(6月15日まで)。

山口晃 《新東都名所 東海道中「日本橋 改 》 2012年 ©︎YAMAGUCHI Akira, Courtesy of Mizuma Art Gallery

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