
美術史の豊かな知識を土台にして、当代一の画力を武器にどこにもない絵を生み出す。そんな人気画家、山口晃ガハクは夫婦揃って食いしん坊。日常で、旅で、制作中の日々で、散歩の途中で何を食べてるの? ガハクが日常を描くコミックエッセイ『すゞしろ日記』に「カミさん」として登場するガハク妻による食事帖。 ガハクは甘酒が好き。それも米麹じゃなくて酒粕の。その違いって?
絵/山口晃
山口ヒゲ画伯こと夫(以下ガハク)には、時おり思い出したように食べたい/飲みたいと言い出すものがある。
甘酒もそのひとつだ。
「甘酒、飲みたいなあ」
うちの父も好きらしいと母から聞いたことがあり意外に思った記憶があるが、家で甘酒を飲んだことはほぼ皆無だ。
甘酒のあるシチュエーションで思い浮かぶのはお寺や神社だろうか。年始や催事の際に振る舞われるとか、境内の茶店の品書きの定番だったりなど、どこか祝祭感が漂う。
ゆえにわたしの中で「よいもの」として位置づけられてはいるものの、甘酒が入った湯呑みの外側はなぜかどこかしらがべたついていて、甘ったるくて飲むとのどが渇き、最後に絶対つぶつぶが残ってしまうのが気になる(コーヒー占いみたいなことができそう)、というマイナス面が目立っていた。
そんなわけで、甘酒を自ら手に取ることは稀で、わたしの関心の度合いは高くなかった。
なので、ガハクが「甘酒」と話題に出す度、「ふーん」とたいして親身にもならず受け流してきた訳である。

ところで、ここで非常に! 重要なのは、ガハクが求めているのは「酒粕で」作られた甘酒であるという点だ。
「甘酒といっても酒粕で出来たものでないとね。米麹のとは風味が全然違うから。酒粕の甘酒っていうのは酒まんじゅうみたいないい香りがして、お酒本来が持つちょうどよく控えめな甘さがあって・・・」
とガハクの熱のこもった言葉を聞いても何も思い至らなかったので、おそらくわたしは酒粕バージョンの方は飲んだことがなかったのだと思われる。
「だけど、出回っているのはだいたい米麹で作られているものばかり。お店で出されるのは米麹の方だし、売ってるのもみんなそう」
ガハクがぼやく。
「米麹だと甘さがくどく感じられてしまうのだよね」
この甘さについてはわたしも同意できる。
甘酒の件になると、ガハクが昔を懐かしむように決まって語りだす逸話がある。
「おばあちゃんがね、一度だけ酒粕で甘酒を作ってくれたことがあって、それがもう本当においしかった」
「一度だけなの? 何歳くらいの時?」
「うん、一度だけだね。どうだろう、けっこう小さかったと思う。小学校の・・・低学年くらいかな。もっと小さかったかも? とにかく、4年生とかそこまでではなかったと思う」
ガハクのおばあちゃんは、台所仕事は嫁に譲り姑としての口出しは一切しない方針で、孫に何か作ってくれるような機会はまさに「数えられるほど」しかなかったという。
余談だが、その数えられるほどのうちのひとつに、麺の硬さが実に絶妙な「具なしインスタントラーメン」があったそうで、こちらもやたらとおいしかったらしい。インスタントラーメンの、それも具なしを食べるのは、どことなくこっそり悪いことをする感じがあって、そんなおやつ、確かにおいしいだろうなと思う。
他にも白米のおにぎりに味噌を塗っただけ、焼いたりはしないという「味噌おにぎり」という一品もあったと聞いた。こちらも繰り返し語られるのでよほど印象に残っている味なのだと思われる。

「焼かないんだ?」とたずねたら、ガハクは「焼いたりなんかしない。そんな余分なことをしないからおいしいの!」と、これだから素人は困るとでも言いたげに答えてきた。きっと味噌好きのガハクには何かが響くのであろう。
もしかするとガハクのおばあちゃんが作って食べさせてくれたものは以上の3つだけかもしれない。だとしたらすべてが貴重な体験で、ガハクの舌の記憶に強くインプットされているのも道理だ。

さて、話は甘酒に戻る。
まだ寒い頃、ガハクと散歩に出て、ついでに酒屋に寄ろうということになった。
というのも先だってわたしがその店に立ち寄った時、気になる飲料を見つけたが、やや特殊だったので買うとしたらガハクの意見も聞いてからにしようと思っていたのだ。
それはノンアルコールのワインっぽい飲料で、ブドウだけでなくさまざまな果物やハーブがブレンドされているのだが、価格はワイン並みで気軽に試せる雰囲気ではない。
元々アルコールが好きなのだから、わざわざこのような品を飲まなくてもいいといえばいいのだが、日本酒の品揃えが充実した酒屋であるにもかかわらず、「入荷しました!」と店主のコメントがびっしり書き込まれたポップがついていると飲んでみたくなってしまう。ただ、本音を言えばほんの一口だけでいいのだけど。

ガハクにその飲み物の前情報を伝えつつ歩いていると、ほどなくして酒屋に着く。
すると、店先には「酒粕 京都〇〇酒造謹製」との札が立ち、ビニール袋に入った板状の酒粕が桶の中に山と積まれていた。
「酒粕があるよ!」
店頭にこのように大々的にディスプレイされていると、当然ガハクも見落とすわけがない。
「酒粕かあ、甘酒飲みたいな。酒粕の甘酒」
「それは後にしてまず中に入ろうよ」
わたしがガハクを店内に呼び込んで、目当ての品のある冷蔵ケースの前に立つ。
「これなんだけど。どう思われて?」
「あー、いいんじゃない。飲みたいんでしょ好きにすれば」
「もうちょっと説明をよく読んでよ。この3種類のうちだったらどれかな」
「えー、そうだなぁ」
ああだこうだとふたりで検討し、軽やかな赤ワイン色をした一品を選んだ。今日はお酒を買うのは控えておこうとそのままレジへと向かうと、背後にガハクのひとりごとともいえないつぶやきが聞こえてきた。
「酒粕は・・・どうしようか」

ほしいならばはっきり言えばいいのに。こちらは今回我を通して得体の知れない不思議飲料を買うので、やや気が引けていることもありガハクに声をかける。
「持っておいでよ、買おうよ」
だが、懸念事項を伝えておくことも忘れない。
「甘酒は自分で作ってね。わたしはやらないからね」
そうしてガハクの希望がかなって酒粕も買い物袋に追加されたのであった。
念願の酒粕をようやく入手したうれしさからか、その晩早速、ガハクは食後に台所でコトコトと小鍋で甘酒を作り始めた。
ガハクもわくわくしていただろうが、わたしもそれほどまでに所望される酒粕の甘酒には期待をしていて、運ばれてくるのを隣の部屋で今か今かと待っていた。

「できました」
近頃新調した釉薬の色がユニークな湯呑みは内側が藤色で、甘酒の鈍い白を引き立てる。
「では、いただきます」
ふたり揃ってこくりと一口飲んでみる。とろりとしつつも程よくつぶつぶが当たる食感はよいとして、味が甘いというよりなんだか苦い。
「砂糖ではなくてハチミツを使ったけれど、入れても入れても全然甘くならないんだよね。これでも相当入れたんだよ」
ガハクは特に何も参考にせず感覚で作ったとのことだが、本人としてもやや釈然としていないようだ。

お酒っぽさが凝縮されすぎたツンとくる匂いも気になるところで、これがいいのか悪いのかはよく分からない。
「京都のお酒みたいな味がするね」
酒粕をそのまま食べているような感じでもある。
ふたりとも「・・・」ではありつつ、翌日また残りを日中に飲んだ。
その後、研究熱心なガハクは密かにレシピを調べたようだった。
「おろしショウガを入れると味が引き締まるみたい」
「じゃ、今日八百屋に買いに行こう」
味の探求に付き合うのはわたしもやぶさかではない。
早速おろしショウガを入れて作ってみたところ、格段に飲みやすくなった。前回は多すぎたきらいのあった酒粕の量も調整され、濃度も程よい。どことなしに苦味が出るのは、酒粕由来だから仕方がないのだろうか。
鍋にはあと4杯分ほどの甘酒が残ったが、ガハクは気が済んだのか忙しいのか、以降自ら「飲もう」と言わなくなってしまい、わたしが気づいた時にデザートのように出してようやく飲み終えた。
今回入手した袋入りの酒粕は厚みが5mmほどあるランダムな大きさの板状になっており、値札には確か500gとあった。割と使いでがある。
ガハクが使ったのはその半分くらい、まだそれなりの量で酒粕は残っている。一体これから何杯の甘酒が飲めるのか。
今までわたしがガハクの要望に聞こえないふりをしていた要因、酒粕の購入に気が進まなかった懸念通りの状況に陥りそうである。つまり、ふたりでは消費しきれず持て余してしまうという。
やがて酒粕のことは、ガハクもほぼ忘れてしまったようだ。
やっぱり。
こうなるのではと思っていたけれど、本当に予想通りだった。

いくら待っていても、ガハクが再び甘酒を作る気配はなさそうだ。「作って」と頼めばやってくれるとは思うが、実際忙しい状態であるのもよく分かる。
冷蔵庫の中の酒粕板の存在は、いつカビるのか、ずっと置いたままのミカンのように突然緑に変色するのではないかと、常に脅威であった。
たまに手に取っては無事を確認していたが、買ってから2週間以上が経過して覚悟を決める日がやってきた。わたしが作るしかない。
このような「溶かす系」の料理、だまが残りがちでわたしは苦手だ。
ガハクはなぜだまが出来てしまうのかということに関し、
「世の中のことはたいてい面倒くさいものなんだから。横着してはだめ」
ともっともらしいことを言ってきた。
失敗を警戒してレシピを入念に、でもなく、適当に流し読みして雰囲気をつかんで方向性を決めてからスタートする。
まず鍋に水を張り、沸騰したら火を止めて細かくちぎった酒粕を入れてふやかしてから溶かす、らしい。酒粕を手でちぎると指がかなりベタベタになり不快ではあったが、この方法に従うとかなり容易に、きれいに溶けたので「これはうまくいった!」とひとり心の中で歓声をあげた。だまはほぼないといっていい。
そして砂糖(わたしたちはハチミツを代用)、塩、ショウガを加えて味を整えればよい。
ハチミツは、ガハクの言っていたことを参考にして気持ちかなり多めに。塩はなんとなく普段使い道のない大きな粒のピンク岩塩を、効果のほどは分からないが入れてみた。ショウガを適量をすりおろし、最後に鍋に放り込んで混ぜると完成。
身構えていたけれど、実行してみるとずいぶん容易だった。

昼食後、おやつにはまだ早い時間だったがガハクに声をかける。
「甘酒、飲む?」
「へえー、作ったんだ?」
ガハク、感謝はあれどさらっと流すので、一応作るに至った経緯をちくりとアピールしておく。
「ずっと酒粕が冷蔵庫に置かれたままだったからね。カビたら怖いし」
飲んでみたところ、ガハク製に比べて粘度がかなり弱く牛乳のようにさらさらだ。
「うーん。薄い?」
「でも、苦くないよ。前のよりずっと甘みが感じられる」
「そうかも」
「苦かったのは酒粕の量が多すぎたのかな。どろっとさせたくて、飲みたい質感から逆算して作ってしまったから。でもこのくらいがさらっとしていて飲みやすいんじゃないかな」
少し気をよくしたわたし。さらに甘酒のことも、おいしいと思い始めてきた。
あともう一回甘酒が作れるだけの酒粕があるから、今日の反省点を反映して次回は完成形としようと意気込んだ。
溶かすだけとはいえ、そのひと手間が億劫で次の甘酒作りに取り掛かったのはそれから4〜5日経過してから。ガハクのことは言えない。いよいよ酒粕の鮮度が気になってやっと行動に移した。気持ちは張り切っていたものの、結果としては前とあまり変わらない薄さになってしまった。
けれども余裕ができたのか、今回は作業中に鍋からふわっとたちのぼる酒粕のいい香りに気がついた。「ほんとだ、酒まんじゅうを蒸しているのと同じ香りがする」一瞬、温泉街のみやげ物屋の立ち並ぶ場所に来ているかのように錯覚する。
その時やっと、これがガハクの切望していた「酒粕の甘酒」であり、それが好きである理由も理解できた気がした。

そこでつい気が抜けたのか、2作目の甘酒は手元が狂いおろしショウガを入れすぎてしまった。
「辛っ・・・」
ガハクが思わず声に出す。
「ごめんね、失敗した」
詰めの甘い自分がくやしい。
「いや、失敗ではないんじゃない。あー辛っ」
やっとおいしいと思えて、ガハクと同じように酒粕甘酒を好きになれたのに、いまひとつな味に仕上げてしまうとは・・・フィナーレを飾れず残念でならない。
ショウガたっぷりの甘酒はとても身体によさそうだし、まずいという代物でもないが、どこか自分で納得がいかない。
「また酒粕買ってきて作る!」
「甘酒がそんなに気に入ったの?」
「あとはね、酒蔵によって味が違うのか確かめたいとも思って」
ちょっと違う興味もわいていた。
そうして意気揚々と酒屋へ赴いたのだが、「酒粕は(時期的に)もうない」とのこと。
ええっ、もう、ない。
酒粕を入手してから1ヶ月ほど経過していて、ちょうど季節も冬から春に移ろうとしていた。
なんだ、もう今期は手に入らないんだ。
せっかく打ち解けて友だちになれそうだったのに。酒粕のことが、突然引っ越ししていなくなってしまった子のように思え、寂しくなった。
でも、また来年、渡り鳥のようにやってくるであろうから、その時までの楽しみとしよう。

■次回「ヒゲのガハクごはん帖」は2025年4月第3週に公開予定です
●山口晃さんってどんな画家?
1969年東京都生まれ、群馬県桐生市に育つ。96年東京藝術大学大学院美術研究科絵画専攻(油画)修士課程修了。 2013年『ヘンな日本美術史』(祥伝社)で第12回小林秀雄賞受賞。
日本の伝統的絵画の様式を踏まえ、油絵で描く作風が特徴。都市鳥瞰図・合戦図などの絵画のみならず立体、漫画、インスタレーションなど表現方法は多岐にわたる。
主な個展に、2015年「山口晃展 前に下がる下を仰ぐ」(水戸芸術館現代美術ギャラリー、茨城)、18 年「Resonating Surfaces」(大和日英基金ジャパンハウスギャラリー、ロンドン)、23年「ジャム・セッション 石橋財団コレクション×山口晃 ここへきて やむに止まれぬ サンサシオン」(アーティゾン美術館、東京)など国内外展示多数。
2019年 NHK大河ドラマ「いだてん 〜東京オリムピック噺〜」のオープニングタイトルバック画を担当し、22年善光寺(長野)へ《善光寺御開帳遠景圖》を奉納。
昨年フランスの出版社「LES ÉDITIONS DE LA CERISE」より刊行、国内流通することなく完売となった『CHRONIQUES D’UN JAPON MERVEILLEUX / とあるニッポン博覧圖』の再版が実現し、国内でも販売の運びに。スリップケース入りで大ボリューム、洗練された装丁による豪華仕様。現在、ミヅマアートギャラリーのオンラインショップにて直筆サイン入りを販売中。
https://mizumaart.theshop.jp/items/94792247

山口晃『CHRONIQUES D’UN JAPON MERVEILLEUX / とあるニッポン博覧圖』
言語|日本語 ・フランス語併記
仕様|ソフトカバー、スリップケース(函)入り、カラー 220ページ
サイズ|300 x 240 mm
テキスト|フランク・マンガン(Franck Manguin)
インタビュー|小山ブリジット(Brigitte Koyama-Richard)、フランク・マンガン
コメントを入力してください